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岡本太郎 生誕100周年!

2011.02.26.

tower of Sun.jpg今日は、岡本太郎が生まれてちょうど100年!

絵画、彫刻、写真、文章、さまざまなことをやった芸術家だが、彼の作品でもっとも惹かれるのは、「ものの見方」だ。

何者にも囚われない、本質をすっぱ抜く洞察力。

それは彼が去った今でも言葉として残されているし、作品に思いっきり出てしまっている。

数年前に、太陽の塔を見に行った。

冬の寒空の下、万博から40年経った今でもすっくと天へ立ち上る巨大な塔は、彼の反骨精神そのものだった。
それを裏付けるように、背中には黒い太陽が描かれていた。

ぼくはこの角度から見る太陽の塔が一番好きだ。

涙が出ます。

そして聞かれているよう。

「それでいいのか!?」

Instagramはじめました。

2011.02.26.

instagram01.jpg最近、Instagramをはじめた。
iPhone専用の写真中心版twitterのようなサービスだ。
twitterはときどき覗いてみるけれど、どうも性に合わない。
ボソリボソリと細かく言うのが苦手なようだ(つながった他人のタイムラインを読むのは面白いけど)。

こちらのInstagramは、画像ありきなので、視覚的なテーマが先に入ってきて取っ付きやすい(まだ、コミュニケート出来る仲間は少ないが・・・)。

今のところ、公式にはiPhone(iPad, iPod touchも?)でのみ、投稿、閲覧、コメントが出来る。しかし、InstagramのAPI(Application Program Interface:ソフトウエアを開発するために必要な命令や関数の集合)が一般公開された。これで、いずれは、PCからも閲覧やコメントが出来るようになるかもしれない。アンドロイド版はすぐできそう。

でも、このInstagramのよいところは、スマートフォンで手軽に撮影、加工、投稿が出来るということ。これをPCからも可能にしてしまうと、他のFlickrなどと変わらなくなってしまう気がする。(無認可ソフトでは既にあるみたいだけど)PCで見れるようにするとしても閲覧とコメントまでで押さえてほしいな。

また、Instagramの画像サイズは、614X614 ピクセル(正方形)に抑えられているので、画像のコピー乱用も防げてgood。

アプリのカバーページは「ポピュラー」といって32枚の写真がタイル状に並べられる。
ここに載れば、たくさんの人が目にしてくれるきっかけになるのだろうが、どうしたらこの「ポピュラー」の載せられるのかが分からない。単純にフォロワーの数が一定数を超えることだけではないようだ。後は、とりあえず、たくさんの人をフォローすれば見てくれる機会も増えるのだろうが、みやみに増やしても後が大変(フォローすると「フィード」というところにその人の最新画像が時間列で並べられる。だから、見たくない人のを入れるとそれだけでいっぱいになって本当に見たい作品を見つけづらくなってしまう)。

だから、地道に気に入った人の作品にコメントを残している程度。

こっちのサイトの写真を載せることも多いけれど、これからは埋もれている写真を掲載してみようと思っている。

ユーザー名は、tomo_yoshida。

iPhoneユーザーでInstagramのアプリ(無料)を入れている人は覗いてみて下さい。

春一番と日本民藝館

2011.02.25.

happy sunshine.jpg今日は朝から風が強かった。
ニュースでは「春一番」といい、外に出でニットを羽織っていると汗ばんだ。路地を歩いていたら番犬が日だまりで気持ちよさそうにウトウトしているほどの陽気。

春になると、この陽気に誘われて、浮き足立ってくる。
細胞が浮かれて飛び回りたくなる感覚。
森で鹿が跳ね回る気持ちがよーく分かる(笑。

しかし、今日の陽気はまだそこまでいかなかった。
まだ、体がびっくりしていて、こめかみの神経が必死に気配を察知しようと動いて、頭が少しくらくらする(俺は、野生動物か?)。

ちかぢか、樹林帯のかわいい山脈を縦走しに行くが、そのころはどうなっているだろう。
木々が新芽を芽吹いているといいんだけれど。
鹿たちが飛び回ってたら面白い。テント泊なので、夜な夜な一緒に踊りあかしたい(満月はいつだ、笑)。

「春一番」と全く関係ないけれど、昨日、日本民藝館へ行ってきた。
民芸品に「用の美」を見出し、民藝運動を起こした思想家、で宗教哲学者でもある柳宗悦(やなぎ・むねよし)が作った博物館。

日本だけじゃなく、朝鮮半島、中国の民藝品も並んでいた。

現在は、日本の古人形が特集されているのだけれど、博多人形みたく生々しいものではなく、素朴な土人形。作った人、愛でた人のぬくもりが伝わってきて、愛らしいものばかり。
何故か、熊を抱えた子供がいたり、頭巾を被った美人ものっぺりしていてかわいい。

しかし、それより、目を見張ったのは、江戸時代の獅子頭や、カラス天狗のような面だ。
獅子舞は、色がはげ、木の目が浮き上がっているんだけれど、その木の生命力と染みついた人の氣を含めて、血相が尋常じゃない。今の獅子頭と似ていて全く否なるもの。
デザイン化される以前の元になったもののけが持つ威風を感じる。
作った人、使った人の獅子に対する認識が今と全く違ったことが分かる。

熊野古道を歩いたときにも感じたことだけれど、昔と今の日本は想像を絶するほどかけ離れた世界ということだ。

同じ日本人

というだけで、
エッセンスを受け継いでいる

というだけで安心は出来ない(何のだ?笑。

伝統でも受け継がれた「今」だけを見ていては、その伝統が持つ意味、奥深さは分からない。

人々は、何をなぞっているのか。
何を追い求めているのか。
何を恐れているのか。
何がそうさせるのか。

もっともっと掘り下げなければ分からない。

そして、掘り下げた分だけ、未来への何かを暗示してくれる気がする。
新しいモノは積み重なった古いモノの上にしか成り立たないんだ。

ここで、その過去の凄さを思い知った。

スケッチブックを持って行けばよかった。
片っ端から気になるものを描きとどめたかった。
また、行こう。

北国の衣服を集めたコーナーがあった。
藍染めなのか、みんな青い反物に白い意図で細かな刺繍をしていた。その緻密な刺繍自体が着物を強くするのだ。けれど、その模様は綺麗でさえある。
しかし、同時に、あの服を着た男の背中を見ながら、彼の家族たちはどんな思いで働き、生活していたのだろうと考えると、それだけで「やられて」しまう。

ここに行きたいと思ったのは、先月、青森に棟方志功の取材に行ってからだ。
柳宗悦は、東京に居た頃の棟方志功のよき理解者だったと聞いたからだ。

他のことでも、能で、思いがけず、青森と立山がつながった。
ひとつのことを突き詰めていくと、どんどんと広がる。

面白い。

帰りは富ヶ谷、代々木公園を通って原宿まで歩いた。

蔵王ショット

2011.02.22.

zaoh.jpg蔵王取材には、フィルムカメラを持って行った。
Contax T2。
氷点下十数度下できちんと動いた事に感動(グローブ三枚重ねでフィルムを交換するのは至難の業だったけど)。
そして、現像が出来るまでのタイムラグが、なんともじれったくて懐かしい。

同行した、何度も蔵王に登っている山岳写真家が言っていた。
「蔵王の景色は家に帰ってから写真を見て、改めて『俺、行ったんだな』と思うくらい特別な風景がある場所」

たしかにそうだった。
画像を見て、「あの光景は本当だったんだ・・・」と再認識して、うれしくなる。

ここに載せた写真は、なんて事のない地表のカットだが、あまりの強風で雪の表面が撫で付けられ、光沢が出ている。その上を吹き抜ける氷の粒が綿毛のように揺らめいてあんまり綺麗なので、思わずシャッターを押した。
鼻がもげるような寒さの中で、こんな神々しい風景が見られるのだ。

地球は面白い。

でも、下界へ戻ってくると憂鬱なニュースばかり。
日本の国債は、国際的な信頼度を近々引き下げられる見込みだそうだ。
それは、この国の未来の不透明さを現している。
ある学者は、あと5年で日本は経済破綻するといっているそうな。
多少のお金があっても、お金の価値そのものがなくなってしまう、一昔前のアルゼンチンのようになってしまう可能性がある。なのに、国では個人的なお金の問題で権力者を引きずりおろそうとばかりしていて、大事なことはなんにも決まって行かない。結局は、権力を叩いて、自分が権力をほしがっているだけのようにも見える。引きづりおろし合ってばかりいないで、グループなんていう垣根を取り払って、もっと大きい所から日本をどうするか考えることは出来ないのかな。
なんて、なんの知識もない俺でさえ、「まずい」と思うくらい、この国は停滞している。
なんて、なんて、出来れば言いたくない政治の事をつい書いてしまったりする状況てなんなのだろう。

アラブ諸国で起こっている事は、それは興味深いことではある。けれど、次はどこの国に飛び火するかなんて予想しているよりも、この国だって負けないくらい危うい。と、肌で感じるのだけれど、気のせいか。

日本は、歴史的に見ても、有史以来、ほとんど「日本」であり続けてきた。
それって大陸で考えれば夢みたいな話だ。
世界史の概念年表を見れば、日本だけが、ずっと「日本」と書かれた帯で時代を貫いている。それは奇跡に近いことなのだけれど、だから自分の国が危なくても「●●の国は大丈夫かな。」なんて言っていられる大らかさがあるのかもしれない。
それも危うくなってきたけれど、アラブのように立ち上がる強い意志は誰も持っていない。このままじゃ、日本という国名は残っても、日本人は世界に散ってバラバラになるしかなくなる気がする。

飽くまで感覚でしかないけれど。

でも、経済的に日本が落ちて行くことはよくわかる。
ならば、僕らは何を目指すのか。
ここで一端全部が壊れて、バラバラになって、また新しい物が生まれてくるという当たり前の法則があてはまっちゃったりするのかな。

個人レベルで自己防衛するしかないのか。
自給自足するとか?

今から社会運動を引き起こすとか?
間に合うのか?

だから、みんな細部にばかり拘るのかな。
この閉じた日本。

そんなこんなも何吹く風と、蔵王の森は静かにそこにあり続けるのでしょう。
かないませぬ。

そこでそれでも自分が何出来るか考えるべし。

ああ、なんだろう。

名刺デザイン(仮)

2011.02.18.

umbrella boy.jpg名刺は、いつも自分のパソコンで作ったものを使っている。けれど、いままで使っていたものが切れたので、そろそろきちんと専門業者にお願いして作ろうかなと思っている。
しかし、とりあえず、名刺はいる。
そこで、なにかいいデザインがないかな・・・と思いながらiPadをいじっていたら、こんな絵が出来た。明日必要なので、これで刷ってみた。

すると、プリンターが印刷途中で何度もエラーになってしまい、購入した名刺用紙の3分の1は破棄しなければいけなくなってしまった。
iMacにしてから、エプソンのプリンターがしっくり動かない。
ドライバーを入れ直しても駄目だ。
昨日は、校了紙を返送しようとスキャンしている途中で動かなくなってしまった。
しかたがないのでデジカメでページを撮影してメールした。

話が逸れた。
名刺のことだった。
ちょっと自分には可愛らし過ぎるとも思う。
名刺は初対面の人に渡すものだから、その人は、これを見て、俺のことを「○○な人だな」と何らかの印象を受けるはず。
それって、どうだろう・・・(汗。
とも思ったが、イメージ壊すのもよろしい! ということでこのまま使ってみよう。
明日、どんな反応が返ってくるだろうか。
何の反応がないのも寂しいが。
イメージにぴったり!と思われてもかなわないが。

とにもかくにも、これは、暫定名刺デザイン。

モンスター樹氷に会いに

2011.02.18.

zzie.jpgby iPhone「モンスター」と呼ばれる樹氷の間をスノーシューで歩きながら、そのまま尾根伝いに越境してしまう取材で蔵王に行って来た。

シーズン中2〜3日しか晴れないと言われる蔵王だが、申し分ない快晴に恵まれた。
巨大スノーマンのような樹氷の森を抜けて頂を越え、稜線にびっしりと生えた「エビのしっぽ」と呼ばれる横へ伸びて行く霧氷群を踏みしめて山脈を突っ切ってしまった。

尾根以外は風もなく、ひとっこひとりいない足跡もついていない雪原を走り回り、視界いっぱいに広がった樹氷を眺めていると「もうずっとここで見ていたい」と思えた。

雪山の魅力に取りつかれそう。

ホワイト・ヴァレンタイン

2011.02.14.

Valentine's_snow.jpg夕方から降り出した雨が、雪に変わった。

思わずカメラを持って部屋を飛び出した。

そして、なんとなく映画『親切なクムジャさん』のラストシーンを思い出してしまった。

「白い豆腐のように綺麗な心を持って・・・」というクムジャに、

娘は

「もっと白いよ」

といって口を開けて、降り注ぐ雪を食べる。

My Best 10 に入る名作。
残虐だけど。

だからこそ、真っ白の雪が映えていた。

もう雪は止んでいるようだ。
明日には消えちゃうのかな。

つれづれ。

ドラマはいたるところに

2011.02.12.

shioita_cat.jpg地元で電車に乗ってふたつめの駅に停車したとき、いつも気になるアパートがある。

本当に人が住んでいるのかなと思うような古い建物なのだけれど、日射しの暖かい日は、二階の踊り場に男ものの白い肌着がハンガーに吊して干されている。そして、時折、猫がひなたぼっこしていたりもする。

先週、通りかかった時に、丁度、猫がくつろいでいた。

いつもは打ち合わせなどの用事で時間に余裕がないことが多いが、その日はただ日用品を買い足しにいくだけだったので、ホームに降りて、次の電車がくるまでの間、写真を撮った。

あるときは、シャツが干されて、その下に猫が座り、しかも(見たのはそれきりだが)住人の親父さんが出てきて階段を下りてくところに出くわし、ひとりで「トリプルラッキーだ」と興奮してしまったことがある。

おっちゃんは、和製チャールズ・ブコウスキーみたいな男臭い人物でうれしくなった。

次は、シャツと猫のショットを撮りたいな。

そしてトリプルラッキーをいつか・・・。

日常の何気ない出来事で一瞬見え隠れする人生の「何か」を掘り起こしたい。

猫もその入り口か?

ドラマは、メディアを通さなくてもいたるところにある。

瀬戸内と太平洋の境

2011.02.11.

shirasaki.jpg昨日、取材で、和歌山県日高郡由良町へ。
由良町のイメージは、雑木でモコモコした山が海まで押し迫っていて、入り組んだ海岸線が美しいところ。

それは、いつも山手側からのイメージだった。

取材を一通り終えると、地元の方が「由良の代表的な景色は海」と言って、白崎海岸へ連れて行って下さった。取材中は綺麗に晴れ渡っていたが、この頃になるとどんより曇りだした。海岸線を車で走ると、忽然と海に突き出した石灰岩の白崎が現れた。

風化して穴だらけになった巨大な岩の塊に乗っかって頭の芯が痛くなるほど冷たい風に吹かれながら海を見渡していると
地元の人が、
「ちょうどこのラインが、瀬戸内と太平洋を分けているところです」
と教えてくれた。

その50歳になる男性の表情が印象的だった。
この町で育って、「おれはここが好き」という誇らしげな気持ちがにじみ出ていた。

自分が生まれ育った土地にフライドを持ち、屈託なくそう言える人は清々しい。
チュニジアやエジプトで立ち上がっている人たちも、言い尽くせぬ長い間の屈辱にも負けず、心の底にそのプライドを持ち続けていたから立ち上がったのだろう。

海の向こうには、四国が見えた。
遍路で歩いた徳島だ。
そして、由良も、かつて歩いた熊野古道の紀伊路が通っている。

自分は、漂ってばかりいるな。

そう思いつつ、自分が拘り、固執するものはなんだろうと考えてみると

熱い心を持った人のその情熱と生き様を冷たい方へ伝えたい

という勘違いにも似た使命感があるなと思い当たった。
人は自分にないものに惹かれる。
自分には熱いものがないのだろうか。
自分の場合、人の熱に感動して、そのエネルギーをもらって
書くとか撮るとか描くとかしているのだなー。

なんて思いながら、冷たいふたつの海を眺めていた。

そうして、あんまり冷えたんで、大阪で関東煮食べて最終新幹線に飛び乗った。

『ゆらめく炎』ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル

2011.02.06.

LeFeuFollet01.jpg映画『鬼火』の原作を読もうと調べてみると、『ゆらめく炎』ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル著が河出書房新書から出ていることが分かった。しかし、既に廃刊・・・。

古本で探そうかと思ったが、念のため地元の図書館で調べてみると、これがあった!

早速、借りて、まだ読み始めたところ。

映画では、主人公はアルコール依存症だったが、原作では薬をやっている。
うっとりするくらい綺麗だったリディアもなんか疲れた感じ。

よくあることだけど、映画と原作は往々にして違うもの。

一方で、感情の起伏は、映画より遙かに細かく描かれている。

映画がよいだけに、こちらはどうなるかが楽しみだ。

いつかの雷神さま

2011.02.03.

Raijin.jpgフィルムの整理をしていたら、2、3年前に撮った雷神さまのカットが出て来た。

これは日光山の奥の方で出会った雷神さま。

このときは、何かに憑かれている感覚があって落ち着かなかった。
そういう雰囲気が土地にある気がした。
そして、その中で撮りたいと思ってシャッターを押した記憶がある。

今見ると、なんか艶かしい。

映画「鬼火」Le Feu Follet

2011.02.01.

今日は映画の日。
何か面白い作品をかけていないか調べてみると、驚いた。
ずっと前から見たかった映画を新宿でやっていた。

『鬼火』(原題”Le Feu follet”= ゆらめく炎)1963年仏映画。
監督:ルイ・マル(「死刑台のエレベーター」など)
音楽:エリック・サティ
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー,etc.
ヴェネツィア映画祭審査員特別賞受賞作品

アルコール依存症の主人公アランが自殺するまでの48時間を淡々と描いている。

人生に、愛に絶望し、死を覚悟したアランにとって、パリに住むインテリの旧友たちがいう言葉はどれも虚しい。
たとえ自殺であろうと、世間的には間違っていようと、
その価値観から見た世界は、逆に世間的には正常でも、歪んで見えてしまう。
見る角度を変えれば、大抵のものはひっくりかえってしまう。
では、何を信じたらいいのか・・・。
信じないことを信じたらいいのか・・・。

何故だか、途中から涙が止まらなくなってしまった。
「悲しい」とか「寂しい」とかの感情がある涙じゃなくて、大切な人が死んでしまった時に無意識に流れ落ちる涙と感覚が似ていた。
アランが心の中の大切なものを失ってしまったからなのか、
アランのある一定の心境が自分に近かったからなのか、
ちょっと自分でも分からないが、
つらつらと涙が溢れた(ストーリー的には泣くような場面はないのだけれど・・・)。

ただ、(ネタバレになるから内容は書かないが)最期の彼の言葉だけは腑に落ちなかった。
でも、それは自分が死のうとしている人間じゃないからだけなのかもしれない。

映画は、噂通りの傑作だった。
原作が気になる。
読んでみたい。




Carl Zeiss Sonnar 2.8/38!Part 2

2011.01.30.

odawara_bungakukan.jpgひきつづき、Carl Zeiss 様。
ううん、これをEOSにつけられないだろうか。。。。。

見た目がへんてこになってしまうけど。

レタッチ技術を磨くしかないのだろうか。





Carl Zeiss Sonnar 2.8/38!

2011.01.29.

Japanese_doll.jpgやっと脱稿して、放心状態。

Sketchbook Pro 用にタッチペンを使ったらもっといい感じで描けるのではないかと思い、夜な夜な池袋へ。
ついでに、現像を取りに行く。

去年の晩秋、四六時中カメラを持っていようと決めたが、コンパクトカメラがなかったので、中古でContax T2を買った(9000円!)。

フィルムカメラだ。

なぜ、今更、フィルムカメラかというと、これに付いているレンズが素晴らしいからだ。

Carl Zeiss Sonnar f2.8/38mm

この珠玉で、日々の「あ!」と思う小さな感動を撮りたいと思った。
で、その試し撮りを現像に出しっぱなしにしていたのだ。

それで出来た写真が、貼り付けたも。

よいよい。
噂に違わぬ写り。
(ピントがとれる最短距離が70cmというのはちょっと物足りないが・・・)

やっぱり写真は、腕と同じくらいレンズだ(笑。

オートフォーカスで、Carl Zeissレンズを使えるデジタル一眼があればいいのにな。
信頼が置ける道具を持つとパワーアップする。

***********************
iPad 用タッチペンは指と大して変わらない事が分かった(涙。

Sketchbook Pro for iPad 発見!

2011.01.27.

Sketchbook_1stdrawing.jpg今週は締め切りが目白押しで、寝不足ライフ。
今日も一本仕上げてちょっと息抜きにiPad用アプリを検索していたら、
Sketchbook Pro for iPadという面白いものを見つけた。

要はお絵かきソフトなのだけれど、よく出来ている。
早速、試しに、指でゴシゴシ描いてみた。
包装紙みたいなデザインしようかな、とロゴ代わりに名前を入れたらちょっと残念な仕上がりになってしまった。

しかし、慣れれば結構面白いものが描けるかも。

こんなに面白くて900円。

すごいお手軽な世の中になったもんだ(汗。

おかげで、仕事、1時間ほどロス。

今日も寝れそうにない。

自分に反吐が出た

2011.01.25.

Tobeyaki_Ichimatsumoyo.jpgなかなか原稿の書き出しが決まらないので、気晴らしに愛用している茶碗でも写真に撮ってみようと思い立った。

我ながら脈略がないけれど、

使っている茶碗は愛媛県の砥部焼で、大学時代に知った逸品。
特徴は、見ての通り、脚(というのかな?)の部分が普通のものよりも大きい。
これは、不安定な船の上でもひっくり返らないようにと工夫されたもの。
そして、ぼってりと厚手で丈夫。
なかなか割れない。
このずんぐりむっくり感と、丸まらずにまっすぐに広がる形が好きで使っている。
高価な物もあるけれど、これは千円台で買えて気軽だ。

これを撮影しようとして出来たのが、上の写真。

何気なく撮ったのだけれど、よくよく見ているうちに気持ち悪くなってきた。

それは、無意識に、気軽に、いわゆるきれいに撮ろうとした写真。
形よく、バランスよく、光の加減よく・・・
それなりに整理整頓されたカット。

説明するにはそれでいいのだけれど、そんな物を撮っている自分が面白くない。
仕事で求められれば、喜んでやるけど(笑)
わざわざ自ら撮りたくない。
なのにやってしまった自分が腹立たしい。

うまい写真よりも、
いい写真が撮りたいのだ。

うまい文章より、
沁み入るような文章を書きたいのだ。

うまい絵より
ぐっとくる絵を描きたい。

写真を撮るときは、写真じゃないものから
文章を書くときは、文章じゃない物から
絵を描くときは、絵じゃないものから
何かを汲み上げ、作り上げたい。

死んだ写真なんて撮りたくなかったのに・・・。

ああ、
心の森羅万象を携えた人やそれを内包しているような物に出会いたい。
そして、
正面も裏もなくぶつかり、こんがらがって、それをひとつひとつ解くようにヒリヒリと感じながら何かを作りたい。

下らない写真を撮ってしまい、やるせなくなってしまった(自爆。

※砥部焼は最高(汗。


今宵は大寒の満月

2011.01.21.

DPP07DB01150A2008.jpg今日(もう昨日)は大寒。
そして、満月。

そんなことも忘れて出版社の新年会に出席した帰り、夜空を見上げるとまん丸お月さんがぽっかり浮かんでいた。

満月は、生きていく(死んでいく)寂しさと、生きている喜びで満たしてくれる、特別な光を持っている。快晴の夜空に冴え冴えと輝く月は狂気を潜ませているが、雲をたなびかせた月はその狂気が程よく薄まって含みが出てとてもドラマチックなので好きだ。

今宵は、まさにその雲をたなびかせた満月。

見ているだけで切なくて、優しい気持ちになる(酔っていても。笑)。

大学の頃、何の展覧会か、誰が描いた絵かも忘れたが、月光を浴びて銀色に輝く小川の上に、雲をたなびかせた満月が浮かんだ作品を見て、喜びと悲しみがすべて凝縮されているようで感動した。

小さい頃は、あっちにもう一人の自分がいて、同じように生きていると信じていた。なんの根拠もないが、そう思うことで、どこか救われる気がしていた。

母が漕ぐ自転車の後ろに乗って銭湯からの帰り道、冬の夜に月が追っかけてくるのを眺めながら

「月は寂しがりやなのかな?ずっと付いてくるよ。家に入れてあげる?」

と言ったことがある。
母はただ笑っていた。

昔の人が、兎が棲んでいると信じるだけ月に思いを馳せていた感覚がよく分かる。

常田健&棟方志功&小島一郎な取材(青森)

2011.01.19.

Aomori_ArtMusium.JPG取材で青森へ行ってきた。しかも、システムトラブルで全線ストップした日が出発で、大宮で新幹線に乗り換えるときには、既に動いていなかった。
取材先に2時間遅刻。
しかし、全国的なニュースになっていたので、先方も分かってくれて助かった。
と言うより、この時季の北国は、交通機関が送れるのは百も承知らしい。
バスも乗り継いだが、まったく時刻表通りには行かなかった。
取材先の人は
「私が若い頃は、駅で『少し遅れます』って言って、一時間ぐらい平気で来なかったねぇ。何分遅れるかなんて絶対言わないんだから」
と言って笑っていた。

厳しい気候の土地に住む人独特の大らかさだ。

今回の取材は、
とてつもなく尊敬している画家、常田健

日本のゴッホこと、棟方志功。

どちらも津軽出身で、双方の美術館
常田健 土蔵のアトリエ美術館
棟方志功記念館
を回った。

常田健は3年くらい前に知り、いくつかの編集部に企画書を出していたが、なかなか通らなかった。
今回も企画そのままではないが、仕事で行けるのがとてもうれしい。
だから、駅で2時間待たされようが、全然平気(笑。

青森はもちろん雪だらけ。
時間があれば、完全防寒で荒れ狂う津軽の海沿いを歩いて写真を撮りたかったが、自由になる時間は夜しかなかった(津軽三味線の店に行ったが予約で満員のため入れず・・・)。

その代わり、棟方志功が展示されているということで県立美術館(写真はその玄関先)へ足をのばした。

あの巨大な青森犬はロシア人がかぶる帽子のように縦に細長く雪を被り、劇場の背景に作られたというシャガールの巨大な絵に度肝を抜かれて、大好きな写真家ベスト3に入る小島一郎のオリジナルプリントを見ることが出来た。

冬は北がいい。

じゃっぱ汁、うまし。

掲載は、JRの会員誌『ジパング3月号』の予定。



滝も冬眠・・・袋田の滝

2011.01.15.

fukurodafall01.jpg取材で茨城県の袋田方面へ行ってきた。
といえば、西行法師も歌に詠んだ名瀑「袋田の滝」がある。
今回のメインではないけれど、滝の撮影もした。

ここには、以前、お隣の那珂川をカヤックで下りにきた時、一度立ち寄った事がある。
もう15年くらい前(汗。

そのときは、巨大な滝が黒い岩上をヌラヌラと流れ落ちる姿に圧倒されたのを鮮明に覚えている。

しかし、今日はほとんど凍結していた。
谷は冷蔵庫の中のように寒かった。
これはこれで見応えがあるが、やっぱり水が滴り落ち、動いている方が迫力がある。
土産物屋のさしみこんにゃくは相変わらずうまかった。


「あめふり」を歩く

2011.01.13.

IMG_4677.jpg2日間、小田原へ取材に行っていた。
目的は、北原白秋。
白秋は、小田原でたくさんの童謡を作った。
写真は、『あめふり』が作られた幼稚園がある教会。

雨はとかく大人に嫌われるが、個人的には大好きだ。
雨音を聞きながらその様子を見ているのは、いつまでたっても飽きない。
むしろ、落ち着く。

子供の頃もそうだった。
『あめふり』を歌いながら、学校からの帰り道に、水たまりをびちゃびちゃ踏んで歩いた。

詳しいことは仕事で書くので控えないといけないが、
小田原は、不思議なほど空気に透明感があり、独特の雰囲気を持っていて、すぐに好きになってしまった。昔、文人や政治家たちが多く住んだのも頷ける。
お城があるのもいい。城郭はたくさんの緑があって、しかも木の一本一本が立派だ。そして、いたるとこから海が見え、背後には山が迫っている。松林なんて墨絵を見ているような美しさで幹をくねらせている。

いつか住みたいなぁ。。。。。

と久しぶりに思える町だ。

今回の記事は、小田原で江戸時代から蒲鉾を作っている「小田原 鈴廣」が季刊発行する冊子『ごとし』のためのもの。
白秋の他に、低農薬レモンも取り上げる。

喜。iMacメモリー増設

2011.01.10.

IMG_3561mini.JPG昨日、ネットで注文したiMac用メモリー8GB(4GBX2)が早くも届いた。早速、増設してみると作業は3分もかからず、電源を入れるとすんなり認識された。

ためしに不安定だった外付けHDの画像をいじってみたが、途中で落ちることはなくなった。
兎にも角にも安定したようで、ひと安心。

しかし、apple純正の6分の1という価格は、驚異だ。

ということで、鏡開きをして善哉を食べた。
本当は明日なのだけれど、取材に出るので一日早い鏡開き。

甘い小豆がおいしい。
元から甘いものが好きで、特にチョコレートが好物だったが、最近は後味が気になって敬遠気味。それに対して人気急上昇なのがあっさり目のあんこ。

年齢と共に好みも変わるなぁ。
次は桜餅?
うぐいす餅?
その後に柏餅!

涙。iMacメモリーの価格差

2011.01.09.

IMG_3548.JPG去年、PCをWindowsからiMacに変えた。
そのとき、写真のデータ処理をスムースにしたかったので、メモリーははじめから増設するつもりでいた。ベースは4GBだったので、8GBにしたいと銀座Appleの店員さんに相談したが「4GBで大丈夫ですよ」と説得され、そのままで購入。

はじめは素直に作動していたのだが、ソフトやデータがいろいろ入ってくると、時々「メモリーが不足しています」というメッセージが出て、落ちることが出てきた。外付けHDの場合はその傾向が如実に増えてきたのは、互換性がよくないからなのか。
ともかく、画像処理でストレスを持つのはいやなので、再度、メモリーの増設を考えることにした。

早速、appleのサイトでメモリーをチェックしてみると、値段は4GBが2万円ちょっと。8GBになると6万円を超えていた。普通、容量が大きい方は割安感があるものなのだが、8GBは4GBの3倍もしている。
これは4GB止まりかな・・・。
と思いながら、念のため他のメーカーのものもネットで探してみる。
するとどうだろう。
IO・DATAやバッファロー製は、かなりの格安。
試しに、日本よりITが進み、家電製品でもMade in Japanを脅かしている韓国製は?とSumsungをチェック。するとどうだろう。
4GB2枚の8GBで、約1万円!
apple純正の6分の1だ。
思わず、Sumsung製を注文。
なるべく国産のものを買って自給率を高めたいとは思うものの、背に腹は代えられぬ。

代引き用にお金を引き出してきた帰りに花屋の前を通ると、緑と黄色の組み合わせがきれいな菜の花が210円で売っていた。

5万円浮いたからと思って、ひとつ買う。

家に、ちっちゃい春が来た。

後は早くメモリーがきて、iMacも春風のようにスイスイ動いてほしい。

ちょっと遠回り

2010.12.20.

Shakujii_river.JPG郵便物を出したついでに、近所の川沿いをひとまわり。
いつの間にやら、西日が真冬だ。
でも、桜並木があるのだけれど、もう、幹や枝にはどこか春の準備をしているような気配を感じる。
満開の時は空も見えないくらいに咲くんだよな。
今月は年末進行でドタバタだったが、ようやく山は越した。
もうすぐ2010年も終わるのか。


新世界「氷瀑」

2010.12.20.

yamakei2011_Feb.jpg今年の2月に取材に行った氷瀑を見に行く雪上トレッキングの記事を今月書いた。10ヶ月後のワンシーズン置いた執筆。自然テーマではよくあること。
しかし、写真を見ると改めて氷瀑の見事さに息をのむ(初体験)。
今年も凍るんだろうな。
行きたいな。このためにクラムポン(くらむぼんみたい!「かぷかぷ・・・」)も買ったし。
今まで(知っていたけど)感じた事のない冬の姿。
世界は知っているつもりでも、知らない事があり過ぎ。
目を向ける好奇心が大事なんだとつくづく思う。

何故、氷瀑や氷柱が青いかも調べてみた。
みんな、空が青いレイリー散乱と同じと思っている人が多いようだけど、実は違うのだ(ふふふ)。
画像は、来月15日に掲載される『山と渓谷2月号』の予告。
今回は、撮られている。

「拝み虫」が産卵

2010.11.02.

kamakiri_sanran.jpg先日書いた「拝み虫」のカマキリのことー。
その後、一度逃がしたのだが、一晩たってもその場を動かず、玄関を出るたびに見上げてくるので、部屋の中に入れていた。しかし、虫かごもないし、あんまり動きがとろいので、そのまま放し飼いにした。

本棚が好きらしく、そこから這い上がって、夜は毎日、本棚上の天上ちかくで過ごしていた。

不思議な「拝み虫」・・・

と思いながらも、ハムを食べさせ、ちょっと可愛らしい。

そして、今朝も「元気か?」と様子を見ると、なんと天上で産卵を始めていた。

道理でお腹が大きいと思った。

お尻に生えた二本の触覚のような突起を上下左右に動かし、出した卵の状態を確認しながら、ちょっと綿飴やふ菓子のようにもみえる卵を上から下へと産み足していく。

産卵が終わると、しばらくその場にいたが、途端に軽くなった体を持て余してか、ぴょんぴょん飛ぶようになった。

それに、これで、同じところでじっとしている訳も合点がいった。
しかし、産卵前は何日もじっとしているものなのだろうか。
その間に鳥などの天敵に食べられたりしないのだろうか。

何はともあれ、一大イベントを乗り越え、元気になったのだからよかった。

しかし、このまま天上で卵を孵化させるわけにはいかない。

子供の頃、採ってきた「拝み虫」の卵を格子の間隔が大きいプラスチック製の虫かごに入れていたら、ある朝孵っていて、家族の布団の上を何百匹(?)という赤ちゃんが這い回っていたことがあった。
大騒ぎで掻き集め外に出す。楽しくはあったが、あんまり小さいので動いただけで潰れてしまう者もいて可哀想で仕方がなかった記憶がある。

だから、早速、卵をはがしにかかり(産卵後5時間くらいで触ったが、ふ菓子みたく固まっていた)、板に米粒を練り付けて、そこにくっつけた。そして、雨のあたらない屋外に設置。

なんとか、この子たちは孵らしたい。

折しも、今日は、親類の命日。
その日にこの世へ出てきた生命。
単純かもしれないが、孵すことで、彼への手向けにもなる気になった。

円山応挙展

2010.10.31.

先週の木曜日、日本橋にある三井記念美術館で「円山応挙〜空間の創造〜」(〜11/28)を観てきた。
雨が降っていたけれど、家の最寄り駅までの徒歩3分を除けば全て屋内で移動できるのでラクチンだった。都市生活の利点だな。

円山応挙(1733〜1795)は、日本の絵画を近代美術へと発展させた先駆けとなるような超写実的な描き方や、「一眼鏡絵」というレンズを付けたのぞき眼鏡を使った当時の3D画法を試みた近世の画家。

応挙の作品は、度あるごとにちょこちょこ作品を観てきたけれど、今回のように応挙だけの特集は初めて。今回の展示群は、花鳥風月物が多かったが、墨の濃淡だけで距離感や色を感じさせる腕には舌を巻いた。そして、草木は伝統的な技法で描かれ、リアルと言うよりは迫力を併せ持った美しさがあり、もの凄いのは動物たちで、遠目で見ても、間近で見ても、生きているようにしか見えない。それは、小さな雀から等身大と思える大きな鶴、果ては実在しない龍までも生きて見えてしまうからたまらない。

どうしてこんな絵が描けるのかとじっと見詰めていると、その線や色の精密さ、正確さは、描く物の実態が見えるまで見続ける鋭い観察眼があったからなのだろうと思えた(筆力はいうまでもない)。
応挙に限らず、名だたる昔の画家の絵に共通して感じる事だけれど、描くもの、切り取る物を見詰める時間が途方もなく長かった気がする。

カメラで言えば、現在のデジカメは高性能でとても手軽に「その一瞬」を切り取ることが出来る。それがいいところなんだけれど、撮る目を養うという観点ではあまりにも即席過ぎて、広がりはするが、なかなか深くならない気がする(悪くはない。ただ全く別の視点になっていくのでは)。
だから、フィルムを使い続ける人は、限られた光を使って化学反応で焼き付けるためにあれこれ試行錯誤しながら被写体と向き合う時間も含めて、一枚に写し込もうとする作業を大切にですことに似ている気がする。たしかにそういう写真は、写っているものの存在感というか、そこにある空気の厚みが違うのは確かだ。

もっともっとひとつひとつの物事をじっくり見詰めることが大事。

応挙の作品はそんなことを教えてくれた。

家に来た「拝み虫」

2010.10.29.

kamakiri.jpg昨日、2日前から玄関の外でじっとしていたカマキリを部屋の中に入れた。
気温が10度と真冬並みで死んでしまうのではないかと触ってみると、案の定弱っていた。何か喰わせてやろうと思うが、餌がない。
カマキリといえば、動いている昆虫しか食べないのではなかったっけ。
と思い、ネットで検索すると、大半の情報はその通りだったが、その中に「ハムを食べた」という記述があったので、早速やってみる。
串に刺して、プルプル揺らしてみるが食べない。
それどころか、全く動かない。
試しに口元に持っていってみると、やっとゆっくり食べ始めた。
すると次第に触覚が動きだし、「ここはどこだ?」というように首を降り始めた。
そして、ハムをじゃらつかすと飛びかかってくるようになって、最後には糞までした。
もう大丈夫。

今日、もう一度、ハムをやってみるが、少し口にしただけでもう食べなかった。それでも元気はあるらしく、昨日になく動き回る。

久しぶりにマジマジとカマキリ眺めた。
よく見ると、首や前足がついている胴体部分はふくらみを持った流線型をしていて、まるでバイクのタンクのようだった。
すると360度見える両目はタコメーターとスピードメーターのよう。
そして、大きなカマの膨らみはエンドウ豆で、地面につく部分はしなやかな薄の穂のよう。
羽の部分は十字の格子に見えるが、それは幾重にも束ねられている下の羽が交差して出来た模様だった。

このカマキリが、気のせいがちょいちょいこちらを向く。
緑色した水玉のような大きな目の中にある小さな黒い点で、何か言いたげに見上げてくる。

なんだ?

昼前に家の側にある樹木に逃がしてやった。
しかし、夜になってもカマキリは同じ場所にいて、近づくとやっぱり見上げてくる。

カマキリの俗名は「拝み虫」。
カマのような大きな前足を揃えて立っている様子が、拝んでいるように見えるかららしい。
まるでどこからかの使者みたいに思えてくる。

数日後は親類の命日。

※iPhoneで録画。

ドガ展/ゴッホ展/上村松園展

2010.10.27.

degas.jpg好きで行っているのだけれど、ここのところ、展覧会へ行く事が多い。
まず・・・

「上村松園展」(東京国立近代美術館でやっていたが、現在は終了し、11月2日から京都国立近代美術館で開催)

松園といえば、美人画だ。
「雅で透明感のある、美しさの中に女性の凛とした尊厳が・・・」というのが松園の一般的なイメージだろう。「序の舞」はその代表作。だが、興味があったのは、(その作品群に対して異端の意味も含めて有名だが)「花がたみ」「焰」。
嫉妬や切望に狂った女を描いたもの。
これだけを観たくて出かけた。
正直、美人画には興味がなかった。
しかし、実際に観て、その考えがあさはかだったことを痛感した。

能を題材にした「草紙洗小町」は能面を、面ではなく、実際の人間に置き換えて、極力シンプルに描いていて、その端正な佇まいは神秘的で、不思議な美しさを醸し出していた。
削って削って最小限の線と色を用いながら、その裏から有り余って溢れ出るというより切り込んでくるような存在感は、絵画への情熱に溢れる松園が人生を歩み、情熱をも超越した技量と精神がなし得た作品だと思った。
ただただ、脱帽・・・。

その他の美人画も印刷物では到底感じる事の出来ない色彩と線へ対する誠実さと厳しさ、それ故表現できている優しさがあった。

そうして眺める「花がたみ」も「焰」も、狂ったゆえの女むき出しの美しさがあった。あれもやっぱり美人画だ。
伝統をなぞっただけではない、松園オンリーの美人画にやられた。

「ゴッホ展」(国立新美術館〜12月20日、以後、2011年に九州、名古屋を巡回予定)

今年はゴッホ没後120年だそうだ。
今回の展覧会では、年代を追ってゴッホの作品が陳列されていて、彼の絵の変化を時系列で見る事が出来る。
ゴッホの絵は好きだけれど、正直、初期の作品は良いとは言いがたい。
若い頃のゴッホは、農夫を数多く描いたミレーの作品を数多く模写しているが、むしろ下手と言うしかないものもあった。
でも、これは当然の事で、はじめから上手い人はいない。ゴッホはほぼ独学で絵描きを身につけた人なのだ。

彼の作品がガラッと変わるのが、30代前半にパリに移住し、印象派に出会ってからだ。
有名な「ひまわり」のように、色彩豊かで、あの点描画に似た画風を手に入れる。

その変わりようを見て、自分に最良の表現方法を見いだすことの大切さを感じた。

作風が変わったパリ以降、アルルなどでの作品は、良いとか美しいではなく、凄みを増していく。
特に耳を切り落としてしまい、療養院(旧修道院)で描いた花や庭の絵の前ではしばらく動けなくなった。

真に凄い物を描くには、精神が病んでしまうくらい「創る」事へ執着しなければ出来えないんだ。

感覚としてだが、ゴッホは「天才」というより「努力家」な気がする。
そこがとても魅力的だ。
今、ゴッホから弟のテオに当てた書簡集を読んでいる最中。

「ドガ展」(横浜美術館〜12月31日)
バレエの踊り子たちを数多く描いた事で有名な画家だ。
画像を貼付けたチケットの半券は、その代表作「エトワール」をあしらったもの。
写真がまだ珍しく、使用方法がもっぱら外に限られていた当時、このように「決まったポース」ではない、踊り子が着地する寸前のような瞬間を的確に捉えるのはそんなに容易いことではなかったはず。鋭い観察力があったのだろう。
また、舞台にいるはずのない黒スーツの影はパトロンを意味している。
当時、舞台裏はブルジョワの男たちが遊び相手を選ぶ場だったという。踊り子の首に巻いている黒いリボンもパトロンがいる証だと聞いた事もある。
ドガは舞台裏に出入りする男たちやそれを許す社会への皮肉も込めて描いたのだろうか。

そして、個人的に驚いたのは、この絵が油絵ではなくて、パステルで描かれていることだ。
パステルといえば、クレヨンのような画材で、重ね塗りが出来るのが特徴。
しかし、色をませ合わせることが出来ず、薄くのばして色を重ねるなどの方法が一般的だと思う(詳しくないが)。
そこを、ドガは線やギザギザを描く事で下の色が透けて見えるようにしながら描いて、こんなに重厚で存在感の合える絵に仕上げていた。
油絵というと、どこか仰々しくて敬遠してしまうが、クレヨンやチョークのような形状のパステルには前々から興味があったので、面白かった。

ドガは、絵の他に立体も手がけている。
生前、唯一世間に発表した少女の踊り子像があるのだが、それは本物のスカートをはかせ、本物の人毛が植え付けられているなどして酷評されたらしい。その後、一切立体は発表しなかったが、死後、自宅を調べると150点もの蝋彫刻が発見された。その多くが踊り子のものだったという。
晩年、目が不自由になっていたというから、色を見分けられなくなり、手の感覚がものをいう彫刻に創作の場を移していったのだろうか。

ゴッホとは違うが、ドガも、ある意味恐ろしいまでに踊り子に執着していたといえるだろう。
そこには、人に言えないようなコンプレックスもある気がして、そっちも方も気になるが・・・。

この展覧会では、立体も見る事が出来る。
また、ドガ展以外も、美術館の所蔵品展として、ダリや小倉遊亀などの作品もあり、想像以上に楽しめた。

実験、EOS5D MarkⅡ動画アップ

2010.10.19.

CANON EOS5D MarkⅡで動画を録ってみた。手持ちで録画したので、ぶれまくっているはご愛嬌。内容は、先週末に浅草の浅草寺で行われた、小鹿野こども歌舞伎の「口上」。
 なかなか奇麗に映っている。オマケ機能としては十分だ。しかし、ピントは手動になるため、固定して使うのがほどんどになるだろう。それでも工夫次第では面白い物が録れる気がした。
 それにしても愛らしい。

墨で絵日記

2010.10.06.

IMG_0134.JPG10月に入って、和紙の手帖に絵日記をつけはじめた。意のままに筆を使えるようになるには、毎日描くことに限ると思ったからだ。
小さな手帖で、小さな絵だが、それでも「こうすれば、ああなる」「こうしたいのに、ああならない」と思うところが多い。
墨で書く字は、習字を習っていた小学生の頃の方が旨かった気がするけど・・・。


『田中一村 新たなる全貌』千葉市美術館

2010.08.29.

isson.jpg千葉市美術館の『田中一村 新たなる全貌』展(9月26日まで)へ行ってきた。

田中一村といえば、生命力溢れる奄美大島の自然を陰影のある独特なタッチで描いた日本画家で知られている。
「神を描いた田中一村」(小林照幸著:新潮文庫)を読んでからずっと気になっていた。
奄美大島には、一村の美術館があるが、奄美へ行ったことがないので
「いつか東京で展覧会があればいいのにな」
と思っていたのだ。

そして、今回、千葉市美術館での開催を見つけた(一村は千葉に住んでいたことがある)。

一村は、生涯独身で個展をすることもなく、奄美大島で染物職人の仕事をしながら、黙々と絵を描き続けて日の目をみないまま死んだ「孤高の画家」と一般的に称されている。芸術家として「絵こそ全て」というような信念を貫いた生き方は魅力的だ。しかし、今回の展覧会は、そのイメージに囚われず、淡々と年代を追って作品を集め、陳列されている。そうすることで、かえって作品郡が持つ魂の強さ=彼の生命感がにじみ出ているような気がする。

展示は小学生のころの絵からはじまるが、筆さばきは大人顔負けで、実際に「神童」と呼ばれていたようだ。
その頃から線を細かく書き込み、コントラストのハッキリとした画風を持っていたようで、幼少の若さがもつ力強さがあるうちはいいが、こなれてくる年頃になると、どこか「くどい」印象に変わった。

それが、やがて
「襖絵っぽいなぁ・・・」
と思うようになったら、その後に、襖絵を請け負っていた時代のコーナーがあって頷けた。

けれど、奄美大島という南国に行ったことで、彼の画風は風土と見事に一致したと思った。
奄美の一村は自分で探し求めていたものを奄美で見つけたのだろうと納得させてくれるほど全てが調和しているように見えたのだ。
「くどさ」が「力強さ」に変わっていた。
あの有名な「アダンの海辺」やアカショウビンが描かれた、生命力溢れる作品たちがそれだ。

絵が上手いとか下手とかとは別に、自分に合った題材との出会いが作家にとってとても大事な要素と痛感した。

一村は、それを命がけで探し出した。

生前は日の目を見なかったけれど、その意味ではとても幸せだったのではないだろうか。
画家冥利に尽きると思う。

しかし、個人的に一番素敵だと思ったのは奄美大島での作品ではなく、襖絵時代の「燕子花図」だった。

紙に描かれているのに、透けてくる光を覚えた。
花弁の青紫と濃い緑というとても混ざり合いやすいふたつの色を、恐れることなくてんこ盛りで使い、重ねるが、そこに絶妙な濃淡が生まれ、見事に凛と咲くカキツバタを表現している。
まるで教会のステンドグラスを観ているように心を洗われた。
有名な琳派のそれよりも美しいと思う。

ただ、悲しいことに、いつも自分が一番気に入った作品はポストカードにもなっていないことが多い。
今回もそうだった・・・。

鏑木清方と鎌倉

2010.08.26.

7rimihama.jpg昨夜思いついた、鎌倉へ。
家から1時間20分で行けるので意外に近い。ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでいたらあっという間だった。
北鎌倉から歩き、建長寺へ寄る。ここは小学生の頃来て、山門のでかさに感動したところ。今見てもでかいが、あのときの衝撃には及ばない。本尊の地蔵菩薩は味があります。仏殿のまわりに甕が置かれ、きれいに蓮の花が咲いていた。熊野にいた時、オオガハスをもらって同じように育てていただが、結局花を咲かせなかった。なぜだ?
烏天狗(像)がたくさんいる最深の半僧坊まで登って汗だくになる。

今回の本命は、鏑木清方記念美術館。
明治、大正の気風を美しく日本画に描いた画家の自宅を美術館にしたところだ。
今日から収蔵品展「鏑木清方と官展 第一期」(~9月26日)をやっていて、ハコは小さいが、内容は充実していて見ごたえがあった。
「築地明石町」というカッコイイ作品があるのだが、これの下書きが展示されていた。
着物を着た女性が胸のところで右袖を抑えて振り返っている図なのだけれど、下書きの段階で、細かく完ぺきな構図で描かれていた。そして、絵の大きさに驚いた。人物の大きさだけで、実際の人間くらいになるのではないだろうか。こんなにでかく描けたら気持ちがいいだろうな。
もうひとつ、「はれゆく村雨」というふた組の屏風で描かれた作品があるのだが、この下書きで宙にウサギの落書きがしてあったのに笑えた。
これらは、精密に描かれたものだが、またよかったのが、本人が「卓上芸術」と呼んだ、軽いタッチで書いた絵日記風のものに魅かれた。中には、和紙全体の1割程度しか墨を落としていないのに、紙全体に物語が見えてくる不思議な世界。あんな絵を描いてみたくなった。だが、描かない事って意外に難しい。
その他、アジサイやリンドウなどの花の絵も簡単なタッチなのに艶やかで、なかなか目が離せなくなってしまうほどの筆力がある。
何度も見たくて、何周もしていたら、警備員さんに怪しまれて後を付いてこられたほど。
清方は、確か我流で描いていた人だ。叩き上げで、これほどの高みに到達することは並大抵ではないけれど、個人的に希望が持てる(笑)。

オマケに江ノ電に乗って海岸へ(Photo with iPhone)。
今日は波が高いせいか海水浴客はまばらだった。一時間ほど、海をボーっと眺めてOFFにしてると、日焼け止めを塗るのを忘れてむき出しにしていた足(膝下)がくっきり赤くなってしまった・・・。

世界の核実験回数”2053”

2010.08.21.

1945年7月、アメリカがニューメキシコ州で核実験に成功。
同年8月、広島と長崎に原爆を投下。

長崎の原爆資料館を見学したときのショックは今も忘れない。

1996年、国連で包括的核実験禁止条約が採択される。
1998年に爆発を伴う核実験が停止されるまで、世界が核実験を行った回数は、

2053回

2009年のデータでは、8国が核兵器を保有している。
しかし、それ以外にも原発を持つ国を入れれば、その数は何倍にも膨れ上がる。
日本も例外じゃない。

フランスの川で泳いだ時、すぐそばで原発の煙がモクモクときれいな青空にたち昇っていた。
あんなにきれいな自然なのに、安心なんてひと時も出来やしなかった。

「便利だからいいじゃん」
「効率よく発電できる(という声もある)」・・・

程度の問題で片付けるにはあまりにも危険がありすぎる。

高い頭脳を自慢する人間なら、その得意の技術を駆使して、核を使わないですむパワフルなクリーンエネルギーを作れないものだろうか。

世界の核実験がいつ、どこで行われたか、視覚と聴覚で感じることが出来る必見動画。



猫が屋根の上でノビている・・・

2010.08.16.

cat_on_the_roof.JPG今日、東京の日中最高気温は36度だったらしい。気象庁発表の気温は日陰で風通しのいい場所のものだから、路上なら40度はいっていたに違いない。家の中でも34度だった。
3回行水をした。
3度目の時、窓から外を見ると、猫が屋根の上でノビていた。
人間だって唸ってるんだ。毛皮を纏って、皮膚呼吸出来ない彼らにはたまらない暑さだろう。

この前、ガリガリ君を買ったら当たっていた。
だが、こういうものは当たってみると、たいてい、本当に食べたくはないどうでもいい時に変えてしまうことが多い。
その当たり棒もそうして交換してしまった。
使うべき日は、今日だった・・・。

世界中の爆弾を花火にして打ち上げちまえ

2010.08.08.

itabashi_fireworks.jpg週末、花火大会へ行ってきた。

打ち上げ花火の数、11,000発。

美しい夜空の花を見上げながら、

あ~、世界中の爆弾が、全部花火になっちまえば、(とりあえず)どれだけみんなハッピーになれるんだろう・・・と考えてしまった。

明日は原爆が長崎へ投下された日。

見えないものを描く、シャガールとブリューゲル

2010.08.07.

chagall&bruegel.jpg木曜日、谷中に用事があって出かけたついでに、すぐそばにある東京芸術大学大学美術館で開かれていた『シャガール ロシアンアバンギャルドとの出会い 交錯する夢と前衛』展を見てきた(10月11日まで)。

公式サイト
http://www.fujitv.co.jp/events/chagall/

シャガールの絵(写真上)は、愛も苦しみも含めて自由で、色彩が美しく、昔から大好物だ。大学の時、シャガールのリトグラフを展示即売している会場で小さなテーブルほどのシャガール本が置いてあったので観ていると、絵から光を放っているような不思議な作品を観て感動した。それは、キャンバスに描かれたのではなく、ステンドグラスで、エルサレムの病院かなにかにあると知って以来、行ってみたい場所のひとつになっている。

シャガールの絵には、しばしば、ロバや鶏が登場する。それらは出身であるロシアの村に身近にいた動物たち。彼は、家畜たちをあたかも人間のように描く。
そうした人間以外の動物たちは、彼にとって生命の象徴だったのだろうか?
最近、牛や山羊、鶏といった家畜に触れる機会が多いのだけれど、人間以外の命と一緒に生きることって、とても大事な気がしている。
都会のような人間ばかりのところにいると、地球は人間だけの所有物と思いがちだ。たとえ、他の動物の存在を知っていても、分かち合って生きていなければ、人間以外の生き物の命の重みは理解できない。
シャガールの絵には、そうした家畜たちが魂や意思を持って登場する。
それが一定の比喩なのかどうか分からないけれど、家畜たちを描く事で、彼の絵は不思議な世界観と優しさを創り出している気がする。

そして、シャガール展を観ているうちに、少し前に渋谷のBUNKAMURA ザ・ミュージアムで観たブリューゲルの絵(写真下)を思い出した(『ベルギー王立図書館所蔵 ブリューゲル版画の世界』8月29日まで)。

公式サイト
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/10_brueghel/index.html

ブリューゲルはバベルの塔を描いた画家でよく知られている。
ブリューゲルの絵には、人間ではない空想上の生き物が数多く描かれている。
それは、鳥や魚から手足が生えたり、中には元が何なのか分からないような生物も多く、擬人化した動物というよりは、怪物そのものだ。
そして、グロテスクな風貌で人間の愚かな行いを諌めるような行動を見せる。
じっと見ていると日本の「地獄絵」を連想したほどだ。
確かに、ブリューゲルの絵は「バベルの塔」と同じようにある種の宗教画であり、その絵を観ることで、道徳心を刺激するような意図が感じられる。
同じ空想的な絵でありながら、シャガールのような、自分の生い立ちや愛情から生まれたものとは対極的だ。

ブリューゲルは16世紀の画家。
シャガールは20世紀の画家だ。

同じヨーロッパでも4世紀もの隔たりがあり、個性も全然違う。
でも、観た物を観たように描く写実とは別の、人の内面を引きだす絵は面白い。

今までは、シャガールの透明感のあるブルーが好きだったが、
今回は、深く、強烈だけれど、やはり透明感のある赤に惹きつけられた。
絵は、観る人の心理状態でも、受ける印象をどんどん変える。
だから、面白い。

Documentary 3 Films インプレ(観た順)

2010.08.05.

tango.jpg『ミツバチの羽音と地球の回転』鎌中ひとみ監督(日本)
ストーリーは、瀬戸内海に浮かび、向かいの島に原発が建設中の祝島(山口県)と、環境対策が日本の約20年先を行っているといわれるスエーデンが紹介されている。

祝島は、過疎化が進む半農半漁の島で、原発建設に反対する青年を中心に取材されている。電力会社の原発建設の面目はCO2削減のシンボル。確かに、原発は他の発電に比べ、少しのエネルギーで大量発電できる。しかし、そこで作られた膨大なエネルギーは二酸化炭素の代わりに猛烈な熱を発生させ、その冷却に海水が利用されるという。それはつまり、冷却に使われて温水になった大量の水が瀬戸内海に放水され、海水温を上げてしまうという計算もある。その数度の上昇が、海の生態系を変えてしまうことは、この海域を研究の場にしている大学教授たちが指摘している。それは、同時に、島の漁に大打撃を与えることも意味している。
それ以前に、もし事故が起これば、隣の祝島の産業は壊滅するだけでなく、島民の命そのものが危険にさらされる問題になる。
電力会社は、億単位の保証金を出すことで島民の了承を得ようとしながら、並行して、県の建設許可をとって建設を進めている。
スクリーンには、漁師たちの日常や祭りの晴れ舞台と共に、原発建設反対の攻防の姿が淡々と映し出されていく。

一方、スエーデンは、失業率が国内でも最高レベルだった小さな村が「持続可能な社会」を目指し、周りにある環境を活かして立派に村の経済を立て直した姿や、電力が自由化されて個人が納得できるクリーンエネルギーを選択する様子が紹介されている。
スエーデンでは、1980年の国民投票で脱源発が多数を占め、2005年までに2基の原発を停止している(京都議定書以降、二酸化炭素排出量削減の目途が立たず、再び、原発支持の世論が強くなって来ているようだが・・・)。そして、環境裁判所(という名称だったっけな?)というセクションが国にあり、すべての開発事業は、ここの承認が必要となっている。つまり、端的な経済効果よりも長期的な環境への影響を優先にした法律を元に、その開発事業が問題ないかを判断するのだ。
ふたつの国のエネルギーに対するかけ離れた立場が、否応なしに、祝島の受難を際立たせる。
先月、この祝島からほど近い島に住む漁師さんを取材した。原発建設について聞いてみると、その島は保障対象ではないので、ほとんどの漁師は他人事と思っているようだとのことだった。もし、何か事故があれば、自分たちも直接的な被害を被るのにだ・・・。
だが、ぼくらは彼らをあざ笑う事は出来ない。
なぜなら、同じように苦渋の涙を飲んで出来た原発で作られた電気を、ぼくらは貪り食って生きているのだ。この文を書いているパソコンだって、少なからず原発の電気を使っている。
無知、無関心は、時に罪でさえある。

自動車は、枯渇燃料のガソリンから電気へシフトしようとしている。しかし、技術的にはもっと早く開発が出来たに違いない。
フランスでは、既に何年も前に空気(コンプレッサー)で走る車が開発されている。これに限らず、新エネルギーを使った製品がなかなか普及しないのは、巨大な利権としがらみが邪魔をするからだろう。
出る杭は打たれる。
日本の風力発電は、全体の1%にしか満たない。
本当に優れた新しいものがスムースに介入できる開かれた世界を作る。
そのためには、多くの人がそのことについて知ることが欠かせない。
そう痛感させられる映画だ。

公式サイト
http://888earth.net/index.html

『モダンライフ』レイモン・ドゥパルドン監督(フランス)
傾斜地ばかりで土地が痩せ、過疎化が進む南仏の農村に住む人々を10年以上撮影した作品。監督はマグナム会員の写真家でもある。
昔ながらの農夫の生き方を貫く兄弟老人と、新しく農場のオーナーになった中年夫婦の葛藤と対立(奥さんは街から嫁いできた)。
ひとりきりで暮ら男。
牛2頭を大切に育てつづけてきた老夫婦。
集落で一軒になりながらも農場を続ける若夫婦と子供たち。

少年が「将来何になりたい?」と聞かれ、「お父さんと同じ!」と健気に答えた。
すると、お母さんが「農業はこの先、消えてしまう仕事なのよ」と諭すように静かに言ったのが印象的だった。

カメラは、彼らを、ただ淡々と回を重ねて撮っていく。
だからこそ、彼らが普段感じている日常が浮き彫りになる。

観ている最中、いったいどんな締め繰り方をするのだろう・・・と楽しみ(ちょっとだけ不安も)にしていた・・・。
が、これが残念だった。

監督は、ただ、詩的に自分の思いを語っただけで、観終わった後、気持ち悪くさえなった。
この映画は誰のために撮られたものなのか。
誰が主役なのか。
監督はそれを分かっているのだろうか。
まるで、自分のために撮ったとでも取れかねない終わり方なのだ。
とても興味深く、ある意味、魅力的な人々を捕えているだけに、悔しかった。

作品としては残念至極だが、スクリーンの中の人々はとても魅力的だ。
勧められる一本かどうかは、微妙・・・。

公式サイト
http://www.espace-sarou.co.jp/modernlife/

『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』ミゲル・コアン監督(アルゼンチン?)
<上の写真>
タンゴの故郷、アルゼンチン、ブエノス・アイレスで1940年~1950年代に活躍したミュージシャン22人が集まり、夢の共演が実現されるまでの姿を追っている。
プロデュースするのは大変だったに違いないと思わせるような、個性的なメンツが顔を並べる。
ある歌手は、
「歌う事だけで生きてきたんだ。昔、妻に頼んで有り金全部はたいてもらい、2万ペソで馬券を買った。馬は勝ち、5万8千ペソでシボレーを買った。だが、木が倒れてきて、その下敷きになって車はおじゃん。あぶく銭のお陰で幸せと怒りの両方を味わったよ」
と自分の失敗を笑う。
そんな破天荒な老人が、バンドの音にのって口を開くと、なんとも深みのあるいい声で歌う。
一方、女の子には目もくれず、歌で身を立てることだけを考えて歌い続けたと話す男の声は、純粋で、どこまでも伸びていくような美しい歌を奏でた。
簡単に音が出る。しかし、演奏する者ごとに、全然違う音色になるんだ。というバンドネオンがアルゼンチンタンゴ独特の哀愁を漂わせる。

生演奏でないのに、彼らの音色に、思わず涙が出た。
音楽で泣いたのは、大学生の時に行ったライクーダーのライブ以来、2回目。
ライクーダーと言えば、彼がプロデュースした、キューバの老ミュージシャンたちが集まって演奏した「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」が有名だ。あちらは、ヴィム・ヴェンダース監督の映画だが、残念ながら観ていない。ただ、その演奏が録音されたCDを持っている。
ブエナビズタの音には、老いても静かで明るいといったイメージがある。例えすなら、心地よい陽だまりのような温もりがある。
しかし、マエストロたちが奏でるタンゴには、くっきりとした光と影が感じられる。
タンゴの曲の長さは約3分。
その中に人生のどん底から抑揚まで、全てが織り込まれている気がするのだ。そして、突然、断ち切れるように迎える終焉。そこに「死」まで感じられて、痺れてしまった。

絶対、オススメの作品。
DVDになったら絶対買う(なるかな・汗)。
そして、映画では、ステージ本番の演奏はエッセンスだけの紹介になっているが、CDでは聴けるのだ。劇場で購入して、そのままヘビーローテイション中。

うむむ・・・アルゼンチンタンゴ習お!

公式サイト
http://starsands.com/tango/

ミクロアルプスとマクロアルプス

2010.08.04.

KitaTsubakuro_Iwagikyo.jpg先月28日から2日まで、取材で中央アルプス木曽駒ヶ岳(2955m)と北アルプスの餓鬼岳(2647m)~燕岳(2763m)に登って来た。
木曽駒ヶ岳は、ロープウェイでかなり上まで登れ、高山植物が咲く手氷河地形のカールを手軽に楽しむことが出来る。あいにくの天気になったが、女性のエベレスト世界初登頂者である田部井淳子さんと夫の政伸さんの同行だったので、バイタリティーに溢れる、とても興味深いお話を聞く事が出来た(詳しいことは『山と渓谷10月号』で)。

下山した足で、そのまま餓鬼岳~燕岳を縦走。
あまり知られていないルートだが、想像以上に楽しめた。燕岳は「表銀座」と呼ばれるほど北アルプスでもメジャーなルートにあるが、餓鬼岳はその北限にあり、メジャールートからは外れている。しかし、見事なナイフブリッジが・・・とこれも詳しいことは『山と渓谷2011年7月号』で(汗)。
こっちでは、丁度、「コマクサ」が満開だった。尾根に剥きだした花崗岩の砂礫地という最も厳しい環境にしか咲かない性格が「高山植物の女王」と呼ばれる所以となっている。
写真は、岩の手前にある突起上に小さく咲いた「イワギキョウ」。岩そのものが天然の花器のようで、その大きさと可憐な花とのアンバランスが粋に思えた。
燕岳周辺の花崗岩は、触ると想像以上にトゲトゲしていて下手すると手を切るが、見た目は丸みを帯びてとても優しげ。その巨岩峰は見れば見るほど想像力を掻き立て、いろいろな物に見えてくるから面白い。実際に、「メガネ岩」「イルカ岩」と、個性的な名前が付けられているものもあるが、個人的には岩の中に閉じ込められたペンギンや青空を仰ぐ布袋様も見えた。

北アルプスは想像以上にデカイ。
だが、大天井~槍~ワリモ~野口五郎~烏帽子~鹿島槍~白馬と、辿ることも不可能ではない。
一方で、足元には小さな高山植物が咲き、下界へ降りる前のトンボや無数の岩燕が空を舞っている。

山は、ミクロとマクロの世界が同居する地球のエッジ。

人はその両方に触れたがる。

「果てを見たい」

そうして、忘れていた地球と自分の尺度を身体と五感で取り戻し、現在地を知る。

それが山の魅力の真骨頂なのかもしれない。

ここでは、街で分裂気味な身体と心が「ひとつ」に戻る。

※燕岳からの下山中、田部井さん夫妻が登って来て鉢合わせになった。世間は狭いというか、お二人とも本当にパワフル。

泳がされても、泳がされなくても、泳ぐ!

2010.07.27.

summer_girl.jpg週末に琵琶湖で行われた小学生の遠泳会へ行ってきた。
全校生徒10人の子供たちが学年に応じて100m、300m、1kmを泳ぐ。低学年の男の子は目標の300mに挑戦し、遂には達成したが熱を出して寝込んでしまった。それでも、笑顔で満足気だった。上級生たちは、プライドを持って1kmを泳ぎ切った。
その後でも、写真のように湖に飛び込んで大はしゃぎ。
まったく、タフだ。
みんなに会ったのはこの春以来。
春は真っ白だった子も、今はこんがりきれいな狐色だ。
彼らは、一週間前に夏休みに入ったが、毎日、泳ぎの練習で学校に集まっていた(泳ぐのは湖だが)。そして、この遠泳会が終わると、いよいよ本格的な夏休みが始まる。
学校へ戻り、みんなで昼ご飯にお好み焼きを焼いて食べた。
だが、一度家に帰ると、また全力疾走で湖へ向かって行った。
泳がされても、泳がなくてよくても、結局、みんなは湖に飛び込む。

男の子が水の中で逆立ちしたかと思うと、小さな掌を差し出した。
黒くて小さな楕円形のもの・・・
「しじみだよ!」

この夏、湖で、みんな、もっともっと日に焼けるのだろう。
この夏、湖が、みんなを、もっともっと大きくするのだろう。

「異界」がくれる生の幅

2010.07.20.

kumonodaira_.jpg月刊誌『山と渓谷』で、地質学者と仕事をさせていただいた。雲ノ平という、猛々しい峰々が続く北アルプスの中で、スムースで優しげな山容を見せる「奥座敷」のような場所がある。なぜ、そんな場所が出来たのかを何万年単位で振り返り、想像も絶する大地の歴史を紐解いてくれた。
普段、自分が考える時空を遥かに超えた息の長いものに触れること、まったく違う思考回路を持った一流人と関わることは、魂のレベルで楽しくて仕方がない。
今回は、直接、教授に原稿をお願いして構成だけを担当したのだけれど、教授からもらった平面図から起こしたイラストのラフを貼り付けておく(上の絵。本番イラストは他のイラストレーターが担当)。
詳しいことは、現在発売中の8月号を見てほしいが、そのドラマチックな展開を楽しめることだろう。

どれだけ、自分とはふり幅の違う人間に出会えるか。仕事でも、プライベートでも、それが、人生を豊かにしてくれると思う。
時にはおもろく、時にはしんどくとも、時代と見る角度でどっちにでも転んでしまう善悪だけに囚われないで、自分が「これだ」と思った素晴らしき物事は丸飲みして出るサイコロの目で、笑って、泣いて、怒って、叫んで、噛みしめて、最期にもう一回笑えたらいいな。

リニューアル

2010.06.01.

IMG_2732.jpg去年からいじり出して、ようやくこのサイトをリニューアルできた。
見やすいものに変えようと決めてから半年以上経っていると思う・・・。
今回は、コンテンツを「Photos」「Picture」「Words」に分けたが、Photosを除いて、まだまだ内容が薄い。順次、いろいろなものを足して、あるいは新しいものに変えていく予定。

写真は、先月、雑誌の取材で訪れた長野県栄村の風景。背後に見えるのは千曲川と苗場山。こんなに新緑がきれいた所だったが、冬は3メートル以上の雪が積もり、過去には8メートルを超えた記録も持っている豪雪地帯。だからか、この辺は大きくて立派な屋根をした家が多い。茅葺屋根を塗炭で覆ったものなんだけど、赤や青、緑といったカラフルでかわいい家屋が点在していて、つい絵を描きたくさせる。今度は、スケッチでもしに行きたいな。。。。。なんて流暢な事はなかなかできないんだけど。

日本には興味深い所がまだまだある。世界にはもっと奇想天外なものがあるだろう。
自分のスタンスをガッチリ持って、その全部見たい!そんで、伝えます!