ザックの中の舟

第一章 出発

Mck001.jpg ガラガラゴロ。ググググガラン。
 カナダ最北部のノース・ウエスト・テリトリーズを北上するバスを乗せたフェリーは、エンジンを唸らせながら流れの速い川を進みはじめた。フェリーには、バスの他にも乗用車が数台乗っていたが、どれも長いダートの道を走って来たので泥まみれだ。バスの最後部に座っていたぼくは、ひとつ前の席で泣いているデネ(インディアン)の赤ん坊に愛想笑いをして、勢いよく甲板に飛び出した。
 視界が一挙に開ける。頭上は快晴。足元は水。対岸の森は、薄っぺらい黒い線にしか見えない。川とは思えないほどの巨大な水の塊が、音もなく下流へと押し出され、日だまりの向こうに消えてゆく。そこは幅二キロの大河の上だった。
 マッケンジー川だ。
 川は、このすぐ上流にあるグレート・スレイブ・レイクからスプルース(エゾ松の一種)の原生林を流れて北極海に出る。その長さおよそ千六百キロ。沿岸には大小九つの集落が点在し、デネやイヌイットが暮している。ここでは、白人は少数派だ。ぼくは、このマッケンジーを、沿岸で最北の町イヌビックまでカヤックで下る。
 二年前の成田上空を思い出す。ぼくは、ニュージーランドの片田舎ばかりを歩き廻って、一年ぶりに日本へ戻って来た。エアー・パシフィックのジャンボは霞ケ浦の上空を急角度で左に旋回していた。楕円形の窓いっぱいに典型的な日本の景色が広がる。田んぼの中を貫くのは川ではなく、見事なまでに直線化されたコンクリート詰めの溝。丘陵は削られ、ゴルフ場が点在する。不法投棄と思われるゴミの山。そこには、いじられたというより痛めつけられた大地があった。ぼくは、単純にこの光景を「醜い」と思った。そして、こう決心した。
 マッケンジーへ行こう。
 もう一度外に出て、日本より、ニュージーよりでかい大陸の自然を見たくなった。そして、その有史以前とほとんど変わらないという広大な森の中で暮らす人々に会いたかった。そこには、ぼくの知らない時間と空間があるように思えたのだ。
 そして、ぼくは、ここにいる。
 そう思うと、体中に力がみなぎり、胸が破裂しそうな感覚に襲われた。悪くない。
 人口約一万三〇〇〇人のノース・ウエスト・テリトリーズ最大の都市、イエローナイフで地図やクマ除けスプレー(強力なペッパーが出る)などを買い揃えたぼくは、再びポンコツバスに乗り、六月一〇日朝五時、マッケンジー川の流れ出しにある小さな町フォート・プロヴィデンスに到着した。
 町から上流三キロのところにあるキャンプ場にテントを張っていると、蚊が頭の上に群がって視界が霞んだ。ノース(現地では、カナダ北部をそう呼んでいる)の蚊の噂は以前から聞いていたが、その数としつこさには参った。個々の大きさは日本のそれと大差ないが、「血を吸ってやる」という意気込みが違う。Tシャツや薄手の服を着ていても、平気でその上から血を吸う。しばらく外にいると、刺されたところが熱くなって頭がボーッとしてきた。外で朝のお茶を一杯やりたかったが、さっさとテントの中へ逃げ込んだ。これから、一ヶ月以上も川を下りながらキャンプをするというのに先が思いやられる。町が目を覚ますのを待って、食料の買い出しに出かけた。
 フォート・プロヴィデンスは、一八六一年、まだ未開に等しかったノースでいち早くカトリックの教会が建てられ発展した人口約六〇〇人のデネの町だ。町は、川から一〇メートル以上ある崖の上にあり、動く地面のように静かに流れるマッケンジーを見下ろしている。切り立った土手の上では、老人たちがベンチに座り、たばこをふかしながらひなたぼっこをしている。どこか日本の風景と重なる。
 彼らのひとりに「ストアーはどこ?」と聞くと、すぐ後ろにある倉庫を指さした。その窓ひとつない高床式の建物がノーザンだった。ノーザンとは、旧名ハドソン・ベイ・カンパニーといい、デネやイヌイットから動物の毛皮を買い取っていた交易商社で、その起源はカナダ政府が設立する以前の一九世紀初頭までさかのぼる。経済面、文化面において、カナダ北部では欠かせない存在だ。
 ぼくが老人に店の場所を尋ねたことで、彼らとの緊張感が解けたのか、子供たちがわっと集まって来た。子供たちの質問はチンプンカンプンなものばかりだった。
「ブルース・リーに会ったことある?」
「ジャッキー・チェーンは強い?」
 いくらぼくが日本人だといっても、彼らは中国人としてしか認識できないのだ。アジア人はみな中国人だと思っている。こっちも図に乗って「アチョー!」と叫んでみせると大喜びだった。ぼくのようないい加減な奴がいるから、こういった誤解がいつまでも解けないのだろう。
 ノーザンに入ると子供たちもイモづる式に店になだれ込んできた。店には食料から日用雑貨までひととおり揃っている。しかし、野菜や果物といった生鮮食品は傷みが激しいものばかりだった。南の町では売り物にならない代物ばかりだ。それでも彼らはこぞって買っていく。狩猟民族の彼らには「栽培」という概念はない。
 ぼくは、米やパン、缶詰めなどを買った後、ウィルダーネス・トラベル・レジストレーションの手続きをしにRCMP(警察/Royal Canadian Mounted Policeの略)に立ち寄った。これは、旅行の日程、所持品の明細、遭難時の捜索希望の有無を書類に書き、ぼくが次の町へ着いたときに、そこのRCMPへ無事到着の報告をするという、川を下る旅人のための管理システムだ。
 RCMPのドアを叩くと白人の若い警官が出てきた。彼の名前はケン。僻地を好んでノースばかりを勤務して歩いているという。「もうすぐハドソン湾にある小さな村へ転勤になるんだ」とうれしそうに言いながら、ケンは、レジストレーションの紙をぼくによこした。
 ぼくは、ケンに頼んでRCMPの向かいの芝生にテントを張らせてもらうことにした。キャンプ場から町までは歩いて三〇分もかかるし、カヤックを川に降ろせるような場所もなかった。それに、あの蚊の多さには閉口する。ケンはパトカーでぼくの荷物を運んでくれた。
 ぼくがキャンプ場を嫌うわけはもうひとつあった。ぼくがテントを張った場所の近くに、ドラム缶で作ったベアー・トラップがあったのだ。その中には、血の滴った肉がぶら下がっていて、横のボードには赤いペンキで「危険!」と書かれていた。わざわざクマを呼ぶトラップの近くに寝ることはない。
 RCMP前の原っぱは、一面にタンポポが咲いていて見晴らしもよく、一見、申し分なかった。しかし、ひとつだけ後悔したことがある。蚊が、キャンプ場より多かったのだ。
 翌日、ぼくは、バーナー・ボネルージュというデネの男を訪ねることにした。この人は、ぼくがイエローナイフで世話になったランディーという男のいとこで、「プロヴィデンスに行ったら会いに行くといい」と教えられていた人物なのだ。土手でくつろいでいる老人たちに彼の家を聞き、昼時に訪ねると、それらしい家の前でドライ・ミートをしゃぶる家族がいた。
「この辺にバーナー・ボネルージュの家はありませんか?」
「ここだ。おれがバーナーだ。」
 恰幅のいい中年の男が、ゆっくりと立ち上がり、そう答えた。
 早速、ランディーの話をする。すると、二、三分考えた後、やっと彼が自分のいとこであることを思い出した。デネには、親戚が実に多い。兄弟が十数人というのはザラだ。なかには、「十五人くらい」と曖昧な答えをする者もいるほどだ。
 バーナーは、三日前に自分で撃ったムース(北米産ヘラジカ)のドライ・ミートを勧めてくれた。噛むと鹿特有のほんのりと甘い味がして、なかなかうまい。「これからマッケンジーを下る」というと、バーナーはブッシュでの注意をいくつか教えてくれた。「前方に黒い雨雲が見えたら四時間後に雨が降る」とか、「クマに出会ったら石と石をぶつけて音を出すといい」など。他にも、道端を歩いていると、デネの若者が近寄って来て「川をやる」というと「いくら白夜でも漕ぎっぱなしはよくない。かならず陸に上がって休め」などとアドバイスしてくれる。ここの川下りは、日本規模の小さな杓子では計りきれないものばかりのようだ。彼らの助言は肝に命じておこう。ブッシュでは、助けてくれる人は誰もいない。頼れるのは自分だけだ。
 バーナーは、別れ際に「カヤックの上で食え」と、ドライ・ミートをビニール袋いっぱいにくれた。それから、ぼくはデネの家をハシゴして、お茶を飲み、飯を食べた。
 ぼくは、このフォート・プロヴィデンスで手に入れようと思っていたものがあった。マッケンジー川流域には二種類のクマが生息している。ブラック・ベアーとグリズリー。ここは、人間の土地というより、彼ら野生動物の領域なのだ。そこに単独で入っていくのだから、自分の身を守る手段が必要になる。そこで思いついたのが、銃を手に入れることだ。しかし、銃を買うにはライセンスがいる。ぼくには、それがない。それでも欲しいとなると、不法に入手するしかない。デネたちに「川下りに銃は必要か?」と聞くと、答えはまちまちだった。ある男は「本流には、めったにクマは出てこないから銃はいらない」といい、ある者は「ブッシュにひとりで入るのなら銃は必要だ」といった。ぼくは迷った。これまで、銃は触ったこともない。でも、持っているだけで、心にゆとりができる気もする。結局、ある意見がぼくを決心させた。「二、三年前に銃に関する法律が改正され、取り締まりが厳しくなった。見つかるとヤバイ」というのだ。違った意味でビクビクするのもいやなので、銃のことはきっぱりと諦めた。
 六月一二日、いつものように快晴。今日、出発することにした。RCMPにトラベル・レジストレーションを出しにいく。すると、ケンが忙しそうに私服姿で動き回っていた。どうしたのかと聞いてみると、今日、ハドソン湾へ移るという。お互いの健闘を祈ってさよならをいった。
 ぼくは、カヤックを川に降ろし、荷物を積みはじめた。使うカヤックは、ゴムとナイロンでできた船体布の中に木製のフレームを組込んだ折畳み式のもので、全長四メートル五五センチ、幅七八センチの二人艇だ。これをひとりで使う。所持品の内容は、パドル二組(ひと組は予備)、テント、マット、寝袋、シュラフ・カバー、衣服、レイン・ウェアー、釣具(ルアー、フライ各一式)、カメラ、フィルム、防虫ネット、ライター、食料一週間分(米、パン、缶詰、クッキーなど)、食器、バーナー、ホワイト・ガソリン(バーナー用)、薬、ラジオ、ハーモニカ、本一五冊、地図、コンパス、GPS、カート(カヤック収納移動時に使用)。これらを防水バック四つ、ゴミ袋一つ、ザック二つに入れてカヤックに押し込み、デッキに縛りつける。飲料水は、川の水を使うので持たない。パッキングだけで二時間かかった。昼過ぎの高い日差しに汗が吹き出す。
 出発前に、河原にマッチを数本埋めて旅の安全を祈った。これは、デネから教わった伝統的なお呪いで、人間界以外の土地に入ることを大地に許しを請い、なにも汚さないことを約束する。自然と野生動物に敬意をあらわす。そのかわり、自分の無事を見守ってくれるよう祈るのだ。クマやオオカミのいる土地に銃も持たずに入ってゆくぼくには、これを「古臭い習慣」と笑い飛ばすだけの自信も余裕もない。ぼくは、真剣に祈った。
 午後一時、ぼくは自由の喜びと不安とで体中の皮膚をヒリヒリさせながら岸を離れた。ケンの後任の警官が、パトカーのクラクションを短く鳴らして手を振った。
はじまりだ。

第二章 水と空 Fort Providence ~ Fort Simpson

Mck007.jpg フォート・プロヴィデンスの岸を離れると、カヤックは時速七、八キロの速さで流れ、町はあっという間に島影に消えた。はじめは、一キロちょっとだった川幅も島を越すたびに、二キロ三キロとみるみる広がっていった。ここから河口までおよそ一六〇〇キロ。日本の最長河川、信濃川でも三六五キロだからケタが違う。イヌビックまで下りきる自信なんてどこにもない。ただ、「やってみたい」「面白そう」という好奇心だけでここまで来た。どうなるかは誰にもわからない。しかし、もうぼくは川の上にいるのだ。本や地図の上で空想している時間は終わった。ぼくにできることは、たったひとつ、「やる」だけだ。かといって、根つめて漕いだのでは、こんな長い旅は体がもたない(体力もないし)。ぼくは、焦らず、漕がずに流されることにした。
出発して、三時間ほど下ると両岸が見えなくなった。ミルズ・レイクに入ったらしい。水の上は空。空の下は水。四方八方、その他には何もない。ぼくは、この無限とも思える水と空の間で、笑いが止まらなくなった。自分でも意外だった。普通なら「感動」とか「恐怖」という言葉で表現されるのだろうが、ぼくの脳味噌許容量を越えたこの前代未聞のデカさが、つい、うすら笑いを浮かべさせたのだ。しかし、次の瞬間には圧倒的な無力感がぼくを襲う。まるで、ぼくはゴミ屑だ。
地図を見ると、湖の北岸は、流れ込みで大きく北へ膨らむ。それに対し、南岸は、ほぼ一直線に流れ出しへとのびていた。ぼくは、最短距離のとれる南岸沿いを漕ぐことにした。こんな湖の真ん中で、強風に会って沈(転覆)でもしたらえらいことだ。マッケンジーの水温は常に低く、川に落ちたら一五分たらずで低体温症になり、体が痺れ、動けなくなってしまう。つまり、死ぬ。
水量が多いのだろうか、岸沿いの灌木は水の中まで浸かっていた。地上の起伏はほとんどなく、見える樹木は水辺の二、三列で、後は木の先端部が剣山のように見えるだけだ。空と湖の間に見える樹林線はとても薄っぺらく、ひとつひとつの変化が大きすぎる地形は景色を単調にしていた。いくら漕いでも進んでいるという実感がわかない。水は全くの静水。漕いでも漕いでも、景色が変わらないのは辛い。しばらくすると下から風が吹きだした。進むスピードは更に遅くなる。
しまった・・・
はやくも、そう思いはじめていた。ぼくには、どこか、マッケンジーという勇ましく壮大な響きをもつ名前に酔いしれていた節がある。いま、現実という自然が、「甘い!」とそんなぼくの顔面を思いっきり叩いているのだ。これが、ぼくのあさはかな点だ。物事を深く考えず、面白そうというだけでことを始め、あとからその大変さに気づく。しかし、もう遅い。前を向いて漕ぎつづけるしかないのだ。
湖に突き出た岬で、ふたり連れのデネのハンターに会った。彼らはビーバーを仕留めたところで、そいつを食べるために火をおこしていた。ボートの上には皮を剥がれたばかりの肉がなまなましく転がっている。このあたりにいいキャンプ地はないかと聞くと「対岸まで行かないとないよ」とぶっきらぼうに言われた。なんだか気後れしたぼくは、あまり話もせずに岸を離れた。しばらくすると腹が減って、ますます漕ぐ気がなくなった。さっきの男たちにビーバーの肉をたかればよかった。
テントが張れるような平らな岸が見つからないまま、午後九時過ぎ、わずかな灌木の切れ目を見つけ、岸に上がった。この辺りは北緯が高いため、夏の間は二四時間太陽が沈まない白夜になる。日没を気にしなくていいのはありがたい。岸はバーチ(カバの木)の森が水辺まで迫っていて、テントは狭い木々の間に張るしかなかった。そそくさと飯を炊き、日本から持ってきた鰹昆布で食べる。すさまじい数の蚊が、飯を食べているぼくの口や鼻に飛び込んでくる。その量はプロヴィデンスの比ではない。ぼくは、食料の入った袋を一五メートルほど離れたところに置くと、テントに飛び込んだ。食料をテントから遠ざけるのは、クマに襲われないためだ。食べ物をテントの中に入れておくと、その匂いを嗅ぎつけたクマが入ってくることがある。ぼくは、森の中から聞こえてくるすべての音にびくつきながら、うとうとと浅い眠りに落ちていった。テントのまわりでは、蚊の大軍がブーンという低い羽音を唸らせている。
翌日、小雨の中を出発。昼過ぎにようやく北岸が見えてきた。これで湖を抜け出した。しかし、川幅は三キロもあり、相変わらず、進んでいる感覚はない。
地図には、湖の流れ出しから二五キロほど下流に人工物が建っているアックス・ポイントというところがある。目下の目標をそこにおいた。しかし、これがなかなか見つからない。アックス・ポイントを見つけられないまま、午後八時、テントを張るため岸に上がった。今日も、昨日と同じようなブッシュの中で蚊の応酬が凄い。ぼくのテントの入口は、ポリエステル・シートとメッシュ地のものの二枚でできているのだが、この日、テントに入るとメッシュ側のファスナーが壊れていた。閉めた後から開いてしまうのだ。このテントは六年間使っているが、こんなことは初めてだ。これから先が長いというのに、まったく頭にくる。天候が悪く、気温も下がってきた。吐く息が白い。
三日目。目が覚めて外を見ると、あたり一面、濃霧に包まれていた。二、三〇メートル先が見えない。「これじゃ下れないな」と思いつつ、朝食にイチバン(サッポロ一番のこと)を食べているとにわかに青空が見えはじめた。意味もなく、急いで出発する。GPSを取り出して現在地を調べてみると、アックス・ポイントは、はるか二〇キロ上流で通り過ぎていたことがわかった。注意深く探していたのに、それらしいものは全く見当たらなかった。どうしたことだろう。
ここ二日間は、一日平均五〇キロ近く下っている。しかし、五〇万分の一の地図を使っているので、地図上では一日一〇センチづつしか進んでいないことになる。日本では、五万分の一の地図を使っていたので、地図と実際の距離感がまだつかめない。
漕ぎだすと、空はいよいよ青く晴れ渡ってきた。風もない。
左から流れ込んでいるビーバー・リバーに入り、カナダで初めての釣りをする。この支流は、マッケンジー本流の味噌汁色の泥水とは違い、ほうじ茶のように澄んだ茶色をしていた。合流点付近に群生している水草に沿って、二七ドルで買った格安ルアー・セットを投げる。一投目、二投目、何もなし。「支流では入れ食い」と、ものの本には書いてあったがハッタリか。三投目、こともあろうに根がかり。
畜生。
釣りをやっていて、根がかりほどイライラするものはない。なんとかうまくルアーをはずそうとラインを慎重に引っ張っていると、ゆっくりとラインが走りだした。竿を立てると絞られた穂先が小刻みに震える。釣れていたのだ。上気しながらあげてみると、五十センチ大のノーザン・パイク(川カマス)だった。飯を食べたばかりだったのでリリースしたが、そいつは、いつまでもカヤックの側をうろついていた。それから、文字通りの入れ食いになった。釣れるたびにパイクのサイズは大きくなり、ぼくの格安ルアーセットの四ポンド用ラインでは簡単に切れてしまう。結局、ルアーを三つも獲られてしまった。このままでは、ルアーが全部なくなってしまうので、一時間ほどで切り上げた。今回の釣りは単なる遊びだけではなく、大事な狩猟手段でもある。次の町でもっと強いラインに替えなければならない。
本流に戻ると、相変わらず川幅は広がり、この辺りでは四キロになった。川は緩やかに蛇行して流れるが、ベンド(曲がり角)から次のベンドまでがスゴイ距離なのだ。一〇キロ二〇キロの間隔は当たり前。二〇キロといえば、日本の川でぼくが一日に進む距離とほぼ同じだ。ベンドをひとつ越えると、波ひとつない滑らかな川面の遥か向こうに次のベンドが見えてくる。今まで、ぼくは水温の低さを警戒して岸寄りに漕いでいたが、思い切って川の真ん中を突っ切り、最短距離で進むことにした。くねくねと岸沿いに進むのと真ん中を突っ切るのとでは漕行距離が大きく違ってくる。二〇分ほど漕いで、やっと川の中央に出た。はじめは、「ここでひっくりかえったら・・・」と考えるとゾッとしたが、次第に、風や波さえなければ心配はいらないことがわかった。要は、気の持ちようだ。マッケンジーのあまりの大きさに圧倒されていただけなのだ。しかし、岸を離れると景色はいよいよ動かなくなった。
視界いっぱいに広がる青空の片隅にぽつんと黒い雲があり、雨が降っているのが見える。それは、バーナーがいった通り、四時間後に目の前に迫ってきた。天候確認のためにラジオを持ってきたが必要なさそうだ。雨は、三〇分ほどで通り過ぎた。
午後八時、トラウト・リバーの上流にさしかかる。すると、四角い人工物が、木を切り倒した左岸の土手に見えた。ぼくは、その人工物の方へバウ(舳先)をむけた。
岸に上がってみると、土手の上に見えていたのは建築中のログ・キャビンだとわかった。その奥には小さな小屋がふたつ建っていたが、どちらも鍵がかかっていて人はいなかった。今日は、ここの河原でテントを張ることにする。プロヴィデンスを出てから、はじめて開けた場所でキャンプができる。茂みの中から突然クマが出てくる心配もない。草のない砂浜には蚊もほとんどいなかった。都合よく、岸には薪が積んであったので、それで火をおこし、飯を炊いた。のんびりと川を眺めながら缶詰めのビーフ・シチューをすすっていると、心から安らいだ。人間が手を施し、作り上げたものに触れて安心したのだろう。
食事を食べ終わるころ、下流からモーター・ボートが爆音をたててやってきた。ボートには、デネの老夫婦と子供、白人の子供が乗っていた。ぼくは、ここのオーナーだと思って聞いてみた。
「こんにちは。ここでキャンプしても構わないかな?」
「いいわよ。どこにでも、好きなところでしなさい。カナダはフリー・ランドよ。」
と、恰幅のいいおばさんが、やけに高い声でいった。
「ここに住んでるんじゃないの?」
「いいや。すぐ下のトラウト・リバーの河口にいるんだ。ここは、スプリング・キャンプ用のキャビンで、今は誰もいないよ。」
と、細身のおじさんはいい、「気を付けてな」というと大声で笑いながら上流へ行ってしまった。
他にも猟に来ていた中年の兄弟に会った。人間が少数動物の部類に入るような土地で人に会うというのは、やはりほっとする。漕行一〇時間の疲れも、なんだかふっとんだ気がした。
夜半近くになると、快晴だった空が赤く染まりはじめた。北北西に這った赤い光の帯は、頭上にいくにしたがって、闇の濃紺ににじんでゆく。川面の焼ける色は空より少し紫がかり、水面は完全に静止し、巨大な板となって広がっている。こんなに大きな夕焼けは見たことがない。こんなに高く、広い空を見たことがない。ぼくは、体の中で何かが溶けだすのを覚え、むせかえった。こんな景色をひとりじめしているなんて贅沢だと思った。これから、太陽は水平線のすぐ下を横に移動して、そのまま朝焼けになる。
毎日同じ動作をくり返すパドリングは、ぼくの体をこわばらせていた。寝る前にストレッチをして体をほぐし、テントに入る。
四日目。ドボンという水の音で目を覚ました。外を覗くと、ビーバーが二匹、岸のそばを泳いでいた。銃があれば確実に狙える距離だ。惜しい。昨日は、テントに入った後、気温が下がると蚊が多くなり、壊れたファスナーの隙間から入ってきた。モスキート・コイルを焚いても、荷物の下に潜り込み、忘れたころに耳もとで優しく囁いてくれた。四時間しか眠れなかった。ちいさくて、ふわふわした厄介なやつだ。
パッキングがすんだ後、東京の友人が作ってくれた自写用カメラ・スタンドをカヤックに装着した。これは、四本のステンレス棒で組んだ櫓をカヤックの先端に付け、その上にカメラを取り付けるステーを置き、タッパを応用した防水カバーで覆ったものだ。カメラはリモコン付きのものを選んだのでワイヤー類はいっさい使っていない。タッパには、断熱材として銀色のテープが貼られているのだが、これが外から見ると怪しいアンテナに見える。マッケンジーに来る前に、長野県の千曲川を下って、このスタンドを試用してみたのだが、会う人会う人から「これは一体何だ?」と質問を受けた。ぼくがちょっと上目づかいで「これで宇宙人と交信するのさ。フフフ」とにやつくと、むこうから離れていった。しかし、この装置には、決定的な欠点があった。問題があったのは、スタンドではなくカメラの方で、セットしてから一〇分ほど放っておくと自動的に電源が切れてしまうのだ。だから、しばらく写真を撮るのを忘れていると電源が切れ、再びセットしに岸に上がらなければならなかった。それを防ぐには、一〇分以内に一回、写真を撮り続けるしかない。だから、同じ場所で何枚も続けて撮ったので、この装置で撮った写真は、ほとんど同じものが出来上がった。
午前一一時、出発。トラウト・リバーの河口を横断する時、遠くから「日本人が出発したよ!」という女の大声が聞こえた。岸のほうに目を凝らすと、森の中にキャビンが二件見えた。昨日のおばさんだろう。
川は、トラウト・リバーの約一〇キロ下流にある小島を過ぎると、急に細くなり、流れが速くなった。川幅は一キロたらずになり、流れも時速一〇キロ前後はある。両岸に切り立った崖が、気持ちいいほど速く後方へ消えてゆく。ここに来て、やっと「進んでいる」という実感が湧いてきた。
午後七時、ジーン・マリー・リバーに到着。岸に上がると雨が降ってきたので、慌てて土手の下にテントを張って潜り込んだ。たった四日ぶりではあったが、人がいて、家があり、煙突から煙が立ち上るのを見るととても落ち着く。好んで、人のいない浩々とした北の川を下っているというのに、はやくも、ぼくは疲れ果て、人恋しくなっている。情けない。先は長いというのに、大丈夫だろうか。
ジーン・マリー・リバーは人口約七〇人。店はJ.M.R.コンビニエンス・ストアーが一件あるきりで、ほかには、小学校とオフィスといわれる役場出張所のようなところしかない小さな村だ。簡単な食事をすませた後、オフィスに無料のシャワーがあるというので浴びにいってみると、出て来たのは冷たい水だった。もう、裸になっていたので、引っ込みがつかず、そのまま我慢して体を洗った。テントに戻る途中に雨が降りだし、ぼくは、さっさと寝袋に入って寝てしまった。
翌日、起きると雨はまだ降り続いていた。外で火をおこし、ラーメンを食べていると、時折、土手の上から人がこちらを見ている気配がした。しかし、テントまでは誰も降りてこない。まれに、好奇心を押さえ切れなくなった子供が声をかけてくるくらいだ。デネたちは、愛想で人と付き合ったりしないと聞いたことがある。こんな時は、自分から飛び込んでゆくにかぎる。はじめての土地で、見知らぬ人に気兼ねなく話し掛けて仲良くなるということに少しの抵抗もないわけではない。むしろ、その反対だ。しかし、そんなことをいっていたら、食って、漕いで、寝るだけの味気ない川下りになってしまう。そんなつまらない旅をするくらいなら、家で寝ながらテレビでも見ていた方がましだ。半分の好奇心と半分の勇気で、ぼくは土手を登って村に入ることにした。
プロヴィデンスで会ったバーナーがいっていた。
「オレのいとこがジーン・マリーにいるから訪ねてみな。」
ぼくは、その人を探してみることにした。村の通りに出てみるが、発電機のけたたましい音だけが響きわたり、人影は見当たらなかった。それでも、村を一周してみようと歩いていると、道端の小屋に誰かいる気配がした。ぼくが木の戸を叩くと、中から三人の男が出てきた。彼らは、狩りの道具を手入れしているところだった。バーナーのいとこのことを聞いてみると、その人は下流のフォート・シンプソンに引っ越したとのことだった。
丁度一〇年前、野田知佑さんがここを下っている。その時のことを書いた本を持っていたぼくは、彼らにジーン・マリーの写真が載っているページを見せた。すると、三人の中で一番若い男が「あ。これ、オレだ。」といった。その写真には一〇歳くらいのやんちゃそうな少年が写っている。そして、ぼくの目の前には二一歳の青年が立っていた。たしかに、面影がある。しかし、野田さんのことは覚えていなかった。彼の名はボリス。彼ら三人は兄弟で、一番上がアンガス、二番目がリチャードという。写真で話がはずみ、リチャードが持っている空家を自由に使っていいことになった。そして、アンガスとリチャードは、ぼくがトラウト・リバーの河口近くで会った二人連れのハンターだったこともわかった。あのときは、サングラスを掛け、帽子を被っていたのでわからなかった。まったくヒトが悪い。ぼくはリヤカーを借りて、テントごとリチャードの空家に引っ越した。その家は、こんな深い森の中にあるとは思えないほどきれいな白壁の家だった。大きなダイニングとベッド・ルームがあり、クッカーも使えた。しかし、一番ありがたかったのは、固い壁と固い屋根に囲まれて、風や動物も気にしないで眠れることだった。この日から、アンガス兄弟との生活がはじまった。
アンガスと川に仕掛けた網をカヌーで見に行く。網は、支流がマッケンジーに合流している辺りにさしてあり、たぐってみるとパイク、ピックル、ホワイト・フィッシュ、サッカーなど、マッケンジー特有の魚がたくさん獲れた。それを彼のスモーク・ハウス(薫製小屋)に持っていき、フライにして奥さんの焼いたパンと一緒に食べる。どれも、あっさりとした白身魚でなかなかうまい。これなら、食料として十分食べていける。
そして、感心したのが、アンガスの建てた作業小屋やスモーク・ハウスだ。作業小屋はがっしりとしたログ・ハウスで、スモーク・ハウスは八角形の個性的なものだった。自分で家を建ててみたいぼくはとても興味をひかれ、どこかで建築の勉強でもしたのかとアンガスに聞いてみた。そして、彼の答えを聞いて、ぼくは自分の頭の硬さを痛感した。
「いや。勉強はしてない。ただ、建てるだけ。」
「設計図は?」
「ない。ただ、建てるだけ。」
「じゃ、どうやって建てるの?」
「全部、頭の中に入ってる。」
といって、彼はこめかみを指で突っついた。
そうだ。そうなんだ。ぼくも含めて日本人は、何かをしようとすると、まず、学校や塾など「どこかへ習いに行かなければイケナイ」と思い込んでいるところがある。しかし、ここでは、家づくりも含めて、身のまわりのことは自分でやるのが当たり前なのだ。金を出せば、電話一本で何でもやってくれる都市の生活とは違う。たしかに、彼らの作るものは実用一点張りのものばかりだが、ぼくは生活の原点「あるもので作る」という大切さを実感した。そして、まず、やることだ。
それから、ぼくは毎日、本を読んだり、釣りに行ったり、デネの家でテレビを見たり食事をしたり、オフィスへ行きコーヒーを飲んだり、リチャードが母親のために建てているサン・ルームづくりを手伝ったりと忙しくすごしていた。
ある日、いつもブッシュでの暮らし方ばかり聞くぼくに、アンガスが一冊の本を貸してくれた。それは、プロヴィデンスに在住している長老たちの半生をまとめたものだった。巻頭に出ているふたりはアンガスの叔父叔母らしく、バーナーの母親も載っていた。内容は、彼らの若い頃の苦労話が中心だった。その苦労話は各自多彩だったが、文末では、ほぼ一貫して、こう結ばれていた。
「もし、若者たちが私のところに来て耳を傾けるなら、いろいろなことを教えてあげられるだろう。しかし、若者は、誰も私の話を聞こうとしない。」
カヌーはモーター・ボートになり、弓は銃に代わった。それらを取り入れることは物質的な進化であり、いいことだと思う。しかし、長老たちには「地のむこうからやって来た物質社会に飲み込まれていく少数民族となってほしくない」というプライドがある。この二つの歯車は、うまく噛み合うことはないのだろうか。若者たちがブッシュでの生活に見向きもせず、物質主義の町の暮らしに移ってゆくなか、彼らの嘆きは響かず、現代文明の影で消えていくしかないのだろうか。これは、「仕方のないこと」といってしまえば、そうなのかもしれない。日本とて、日本古来の生活をしている人はいない。しかし、ぼくは、「それでいいのか!」と強く感じる。
また、長老たちには、英語をしゃべれない人たちも多い。それに対して、ほとんどの若者は英語しか話さない。民族の言葉には、そこにしかない考え方やニュアンスがあると思う。それを失うことは、民族の文化そのものを失うことに等しい。昔、日本政府がアイヌにとった政策をみれば分かるだろう。言葉をとりあげられた民族は、その文化を急激に衰退させていく。戦時中に韓国やポリネシア諸国にとった言語政策も同じだ。言葉は生きているのだ。
こうした生活習慣の急激な変化や言葉の断絶が、この世代の断絶に拍車をかけている。これは、デネだけではなく、世界の少数民族問題にあてはまることだ。
サン・ルームを建てているリチャードを手伝っていると、ボリスが自分の野球グローブにボールを叩きつけながらやって来た。それが、いかにも「オレ、野球してーよー」という感じだったので、ふたりでキャッチボールをすることにした。ボリスは、喜んで、ぼくのために学校から左用のミットを借りてくれた。村のすぐ横にある飛行場を越えた原っぱで、ぼくらはお互いの投球を批評しながらボールを投げた。久々にするキャッチボールで汗がどっと出たが、夕暮れの冷たい空気が気持ちいい。一時間ほどすると、蚊が湧いて来たので切り上げる。その足でボリスの家へ行くと、彼自慢の女性遍歴アルバムを見せられた。そこには、高校以来の彼女がすべて載っていて、その数は両手をゆうに越えている。それは、人生の醍醐味とかそうゆうものかもしれなく、羨ましい面もあるが、もっと驚いたことは、彼に四歳の子供がいることだった。彼が一七の時の子供だ。しかし、デネには、こういうケースがよくあるらしい。年齢に関係なく、子供ができたからといって結婚しなければいけないという考えはないようだ。中年層のデネでも、ただ同棲している人は多い。腹違いの兄弟もたくさんいる。かといって、彼らは全く気にしていない。男女関係、結婚に関しては、かなりおおらかだ。
ジーン・マリー・リバーで五日すごしたぼくは出発することにした。アンガスとリチャードは「今度は冬に来い。一緒に狩りに行こう」といい、ボリスは「下ってるときは退屈だろ。これでも聴けよ」とミュージック・テープをくれた。
川に出て、しばらくすると、向かい風が吹き始めた。前方に黒い雨雲が見える。それとは対照的に、後方はきれいに晴れ渡っている。ぼくは、漠然と前を見ながらカヤックを漕いでいた。そして、あることに気が付いた。川の色だ。厚い雲の下の川面はどんよりとした灰色で、青空の下は鮮やかな蒼色をしている。実際のマッケンジーは味噌汁のような茶色だ。しかし、上から見る川の色は、空の色だった。ぼくは川下りをするようになって六年になるが、川の色が空色だったとは気付かなかった。
川旅では、こういった普段とは違う角度でものが見え、はっとすることがよくある。日常に埋もれて見えなかったものが見えてくる。そして、川の上には、町とは違う時間が流れているのではないかと思えてくる。水という流動的な川の上と人工的な町とでは、時間や空間の感覚が全く違うのだ。これは、人間が太古から持っていた野生の感覚なのかもしれない。ぼくの友人がよく口にする「忙しい」という字は「心を亡くす」と書く。そういう人はマッケンジーに来るといい。ここでは、四六時中、自分と向かい合うことになる。マッケンジーでそれができない人は、重度の文明依存症だ。
途中から、左岸に高さ五メートルほどの残雪が帯になって延々と続いていた。地元の人によると、今年、川の氷が解けだしたのは六月のはじめだという。この残雪の帯、水温の低さをみればうなずける。時折、音をたてて巨大な氷の塊が川に落ちてきた。岸から離れて漕ぐ。
左から大きなリアード川が合流すると、マッケンジー流域で一番古い町、フォート・シンプソンが見えて来た。あの町には酒がある!カヤックを漕ぐ手にも力が入る。

第三章 嵐の曲がり角 Fort Simpson ~ Willowlake River

Mck011.jpg 午後七時過ぎ、フォート・シンプソンの町外れにある船着き場に上陸。船着き場は、川の泥でぬかるんでいて、テントが張れるような平らなところはなかった。一五メートルはある高い土手を登ると大きなグランドの前に出た。グランドの芝生はきれいに刈られていて、キャンプするにはうってつけに見えた。通りがかった男に町の様子を聞いていると、明日、このグランドでデネたちが踊るドラム・ダンスがあるという。ドラム・ダンスとは、デネの伝統的な民族舞踊で、見知らぬ者同志が出会ったときに親睦を深めるための踊りだ。実は、ジーン・マリーでリチャードからこのダンスのことを聞いたぼくは「是非、見てみたい」と思い、日にちを合わせて来たのだ。しかし、催し物があるのでは、そこにテントを張るわけにはいかない。仕方がないので、草の深い道端にテントを張って、町に出ることにした。とにかく、はらぺこだ。
テントを張り終わると、もう八時をまわっていた。この時間に、町の店が開いているかわからない。それでも、バーくらいはやっているだろう。イエローナイフを出て以来、酒は一滴も飲んでいないのだ! デネやイヌイットの町では、酒を売らないところが多い。ノースでは、酒のない町を「ドライ」と呼んでいるが、これには理由がある。昔、酒を飲む習慣がなかったデネやイヌイットたちは、アルコールを分解する要素が欠如しているのか、みんな酒癖が悪い。ところが、ビールだろうがウイスキーだろうが、なくなるまで一気に飲み干す。あげくの果てには、大喧嘩をはじめて終止がつかなくなる。だから、多くの町では、町議会で酒を売らないことに決めているのだ。しかし、デネと白人が共存するフォート・シンプソンでは、バーも酒屋もある。ぼくは、バーのドアを開けるとカウンターを叩き、開口一番「ビール!」と叫び、一気に飲み干した。ビールは、ジリジリと音をたてて喉を走る。店に入り、一本目のビールを飲み終わるまで三〇秒とかからなかっただろう。それから、何本か立て続けに飲み、今まではっきりしすぎていた頭を、ほどよく潤わせた。
その足で、ジェームズ・ポーター・ストアーへ行き、ハンガーガーを腹につぎ込んだ。この店は、夜中の二時まで開いている。ジェームズ・ポーターは、一八〇四年、マッケンジー川流域で最初に出来た交易所だというから由緒ある店なのだろうが、木造平屋の普通の商店だった。もう遅い時間だというのに、小学生くらいの子供たちが粉ジュースを買って飲んでいる。一日中、日が沈まないのだから「寝ろ」といっても無理な話だ。もし、日本のPTA団体が視察に来たら卒倒することだろう。
翌日、RCMPに無事到着したことを報告しに行く。ウェブという警官が対応に出て来た。
「ウィルダーネス・トラベラー、トモヒコ・ヨシダ、只今到着しました。」
手続きがひと通りすんだ後、酒屋や観光案内所の場所を聞いていると、ウェブは、
「よし、教えてやるから表に出ろ。」
といい、ぼくをピック・アップのパトカーに乗せて、町を案内しはじめた。酒屋の前を通りながら、ウェブはいった。
「トモ。酒屋の開店時間は限られてるんだ。平日の午後五時から七時まで。ひとりが一日に買える酒の量も決まってるんだぞ。ウイスキーなら一本、ビールは一パック(六缶)、ワインは二本までだ。」
「まったく、つまんない決まりだな。外人は除外するべきだよ。」
「はははは。そりゃいい。で、トモは何を飲むんだ。」
「ウイスキー。」
「ウイスキー!ファイアー・ドリンクか。」
とウェブは目をぱちくりさせている。デネのウェブは、そんなに酒が強くないのだろう。ぼくは、ビール党だが、こういう僻地の長旅では、ビールを持っていてもすぐに底をついてしまう。焚き火の前でワインではしまらない。すると、自然にウイスキーに手がのびる。ウェブとは、町に一件しかないレストランで、また会った。ぼくは、久しぶりにいいものを食おうとメニューで一番高いものを注文した(ハンバーグ・ステーキだけど)。ウェブは、ぼくを見つけると同じテーブルに座った。
「トモ。フォート・グッド・ホープには寄るつもりか?」
「うん。」
「だったら、マスズミを訪ねるといいよ。彼らには日本人の血が流れてるんだ。一時期、日本の家族との連絡がとだえていたらしいが、最近、またマスズミ家のひとりが連絡をとっているらしいよ。狩りや魚漁に熱が入っていて、とても仕事熱心な人たちだそうだ。」
ぼくも、ヒロキ・マスズミのことは本で読んだことがある。こんな北の果てにひとりの日本人がいたのだ。しかも、戦前に。なにしろ、フォート・グッド・ホープは、いまでも外部から通じる道もない陸の孤島なのだ。そんな森深い村に彼の血をひいた人たちが、今尚、生きている。是非、会ってみたい。
ウェブは、ハンバーガーを食べ終わると「時間だ」といって出ていった。今日は、ドラム・ダンスのある日だ。警察官は忙しい。
レストランを出たぼくは、ノーザンで食料を補充した後、河原で本を読み、酒屋が開くまでの時間をつぶした。開店時間に店へ行くと、ちょっとした人だかりができていた。店の中では、みんな一列に並び、レジで何を買うか店員に注文している。酒はすべてカウンターの後ろにあり、客には手が届かないようになっている。ぼくは、C.C.(カナディアン・クラブ)を一本買った。本当は、もう一本ほしいのだが法律なのだから仕方がない。明日には、この町を出るつもりだから、ここから約七〇〇キロ下流のノーマン・ウェルズまでは酒が手に入らない。その間にある村はすべてドライだ(といっても村は二つしかないが)。
帰りにKFCでフライド・チキンを買ってテントへ戻る途中、路上でぼくを呼び止める声がした。振り替えると、ジーン・マリー・リバーで会ったことのある男が立っていた。彼は、隣にいた兄をぼくに紹介した。ひと通り旅の話をして、ぼくの知っている男は立ち去ろうとしたが、兄の方がぼくの肩に手を回してきた。
「面白いやつだ。オレは、こいつが気に入った。しばらくこいつといることにしようぜ。」
ぼくは、その男に何かきな臭い匂いを感じた。しかし、弟の方は知った奴だ。ぼくは適当に笑って合わせた。弟は、少し困ったような顔をしたが、一緒にぼくのテントの方へ歩きだした。すると、途中からどんどん若い女の子がくっついて来る。中には、かわいい子もいる。それは、うれしい限りだが、やはり何か匂った。そして、川を見下ろす土手に出ると、彼らはお互いを隠しあうようにしてマリファナを吸い出した。
「トモ。おまえも吸えよ。」
「いらないよ。」
ぼくは、しょうがねえなと思いながらフライド・チキンを食べはじめた。油で手をべたべたにしていると、兄の方がぼくにいった。
「トモ。おまえのテントをかせよ。そこでこいつ(マリファナ)をやろうぜ。女の子もたくさんいるからよ。へへへ。」
しまりのない面をしてやがる。
「あのな!おまえがマリファナを吸うのは勝手だけどな!オレのテントを使わせるわけにはいかねえぞ!それ以上吸うんだったらどっかへ行ってくれ!」
男は、ポカンとした顔でいった。
「おまえ、たばこも吸わないのか?」
「ああ。」
「おまえ、ひょっとして、いい子か?」
このちょっと間の抜けたというか、ひとを小馬鹿にした質問に少しひるんだが、なにかいわないといけないと思い、出た言葉がこれだった。
「かもな。」
男も女も、ぼくの返事に笑って、町の方へ帰って行った。ぼくは、このことを、特にいやな出来事だとも思わなかった。ただ、うさんくさかった。
グランドにある円形型の集会所では伝統的なデネの民族衣装やそれを今風にアレンジしたドレスのファッション・ショーが行われた。つづいて、最近、選挙があったらしく、次期フォート・シンプソン・チーフの発表があり、選ばれたデネの女性が就任挨拶をした。ぼくは、観衆の中に混じってダンスがいつ始まるかと待ち構えていた。ところが、ついに、ドラム・ダンスは、行われなかった。みんなが帰ってゆくグランドで警官をつかまえて「ドラム・ダンスはないのか?」と聞くと「んん。あるとは聞いていたんだがね・・・」という有り様。だからといって、怒ってはいけない。これがノースなのだ。その後、ある白人にこの事をいったとき、彼はこんな話をした。
「オレがシンプソンで友人と待ち合わせをしたときのことだ。まだ、時間があったんで、カフェに入ってコーヒーを飲んでいた。しかし、いくらたっても約束の時間にならないんだ。おかしいなと思って、店の時計をよーく見てみたら、そいつが止まってやがった!そんで、時計の下になんて貼り紙がしてあったと思う。“NORTH TIME”」
この話が本当かどうかは別として、ノースの土地柄をよく表わしている。万事、ゆっくりと曖昧にことが進んでゆくのだ。マッケンジーの流れのように。
翌日、午前九時出発。本流と同じくらい大きいレアード川が合流したので、流れは速い。しかし、水は更に濁って、ウルトラQのオープニングのように粘土質の水がグルグルととぐろを巻いている。飲んでみると、少し苦い気がした。奇麗な支流でも見つけない限り、この水を飲むしかない。はじめは煮沸消毒をしてから口にしていたが、このごろは直接飲んでしまっている。
シンプソンを出て二日後の昼、ぼくはカムセル・ベンドの上流約二〇キロの川面にいた。今まで西に流れていた川は、ここで山脈の壁にぶつかり、方角を北に変える。ぼくは、カヤックの上でマフィンとオレンジを食べた後、本を読みながらうとうとしていた。そして、小さな北風が通りすぎ、ちょっと川面が陰ったなと思うと、急に風が強くなってきた。岸近くには質の悪い三角波が立ちはじめ、波の高さはあっという間に二メートルを越えた。上空に立ち込めた重い黒雲は、泥炭色のうねりを際立たせ、歯車の歯のように次々と盛り上がる波頭は、崩れて飛沫を飛ばした。左から流れ込むノース・ナハンニ・リバーで釣りをしようと思っていたぼくは、風下の南岸沿いを漕いでいた。何度となく強い波に押され、カヤックごと岸に打ち付けられそうになる。陸に上がろうとも思ったが、取りつくような場所もない。波にくしゃくしゃにされながら、咄嗟に思いついたのが「風上に漕ぐ」ことだった。風上。つまり右岸の岸影に入れば、風も波もさほど強くはないはずだ。ところが、この辺りの川幅は四キロ弱。風のない穏やかな日でも横断するには一時間近くかかる。しかし、ぼくの体は、考えるよりも早く、対岸に向かって漕ぎ出していた。沖に出ると、流れと風が九〇度に交差しているため、カヤックは風に向かって波を越えながら下流に流された。必死に漕いでも岸は近づかない。デッキの上を水が走る。川の中央まで来ると流れの芯に押され、前にも進めず、ただバランスをとるのが精一杯だった。こともあろうに一番荒れているところで身動きが取れない。やがて、肩はビリビリと痛みだした。それでも、ぼくにはモノ・トーンの慌景の中で漕ぐことしかできない。いったい何時間漕いだのだろうか。幸いなことに、ぼくが力尽きる前に嵐は弱まり、空には晴れ間も見えてきた。
再び川が穏やかになったころには、ノース・ナハンニ・リバーを通り過ぎていた。こわばった体を伸ばそうと天を仰ぐと、山脈のむこうから一筋の飛行機雲が現れ、あっという間に真っ青に開けた空を突っ切って、後方の水平線に消えていった。その速さに唖然とする。恨めしくもあった。きっと、イエロー・ナイフへむかうジェット機だろう。あの乗客からは、ぼくが見えただろうか。でっかい川に黒い点が見えただろうか。自分の無力さが浮き彫りになる。と、同時に、自分の手で進んでいるという実感もひしひしと湧いてきた。
疲れ果てたぼくは、カムセル・ベンドを曲ったところでテントを張った。地面は、ジメジメとぬかるんでいたので、大きな流木を敷きつめた上に火をおこす。飯を炊き、缶詰めで簡単な食事をとった。やっとひと息。ウイスキーを飲みながらハーモニカを吹く。ぼくが吹くいい加減な旋律も、ここでは心を和ませてくれる。これは気晴らしにもなるし、自分の存在を動物たちにアピールするにもいい。これからは、寝る前にハーモニカを吹くことにしよう。
翌日、小雨の降る中を出発。風も冷たい。プロヴィデンスを出て以来、はじめて見る山々は、頂を低い雲で覆われていた。それでも、単調な景色の中で久しぶりに見る地球の突起は、ぼくの目を楽しませてくれた。昼飯にと思い、何本かクリークに入って竿を出すがまったく釣れない。細いラインは、ジーン・マリーでアンガスに一四ポンド・テストの極太に取り替えてもらったので、どんな大物がかかっても心配ないのだが、あのビーバー・リバー以来一匹も釣れていない。缶詰めやラーメンだけの食事では味気ない。
昼過ぎに重大事件が起きた。これは、まだ、カヤックでの川下りで誰も触れていない問題だろう。それは、クソ。ぼくは、川の真ん中を漕いでいるときに急にこいつをもよおした。しかし、当然ながら狭いカヤックには排便システムなど搭載されていない。小便なら小さな容器を用意しておけば事足りるが、大の方はその度に岸に上がらなければならない。ところが、マッケンジーは川幅数キロに及ぶ大河だ。川の中央から岸まで漕ぐと二、三〇分はかかる。多少の個人差はあるにせよ、これを我慢するには相当の忍耐がいる。岸に着く寸前などは、もう余裕のヨの字もなく、鼻の穴をおっぴろげて、震えながらカヤックから飛び出す。この時も間一発だった。毎回、よく耐えたと自画自賛していたが、こんな自信ほど頼りないものはない。いい排便方法を知っているひとがいたら、是非、教えてほしい。
カムセル・ベンドを出てからというもの、絶えず向かい風の中を漕いでいた。昨日の嵐を漕いだ疲れが抜けていないようで、すぐに腕がだるくなってしまう。出発して五時間もたつと、漕ぐのもいやになった。さっさとテントを張ろうと、いい場所はないか探したが、増水している川岸にはめぼしいところが見当たらない。疲労と怠惰が心と体を押しつぶす。
午後七時頃、右手から流れ込む支流、ウィローレイク・リバーにさしかかった。河口の高い土手の上に民家が数件建っているのが見える。ぼくの五〇万分の一の地図にはなにも載っていない。廃村かとも思ったが、よく見ると煙突から煙が上がっている。どんどん近づくと、家から人影がふたつ飛び出して手を振りはじめた。ぼくは、無性にうれしくなって、その小さな人影に力いっぱい手を振った。

第四章 裂けたカヤック Willowlake River ~ Tulita (Fort Norman)

Mck015.jpg ウィローレイク・リバーの河口にある小さな集落に上がると、デネの子供ふたりが土手を駆け降りてきた。名前を聞くとキースとジョナサンといった。ふたりは小学生で、夏休みになってシンプソンから御爺さんの家に遊びに来ているという。ふたりとも、急な土手の荷物上げを手伝ってくれた。この集落は、川と同じウィローレイク・リバーといい、デネのふた家族一五人余りしか住んでいないらしい。おそらく、マッケンジーで一番小さなコミュニティーだろう。集落の真ん中にある刈られたばかりの芝生にテントを張ると、足元から千匹の蚊が湧いて出た。キースの家の前には、クッキング・ストーブ(薪を使った調理用ストーブ)が置かれていて、ありがたいことに、自由に使っていいことになった。キースが火を入れてくれたストーブで飯を炊き、お茶を沸かし、蚊の幕下で晩飯となった。早く休みたい気もしたが、人と話ができるうれしさに、ついつい遅くまで起きてしまった。
翌日、テントを覗きに来たキースに起こされた。まだ、疲れが抜けず、腕がだるい。キースとジョナサンが村を案内するというので、ついてゆく。家二件しかない村をどう案内するのかと思っていると、彼らは、どんどんブッシュの中に入っていった。しばらく行くと、森の中に一件、小屋が建っていた。三メートル四方ほどの小さな小屋で、屋根はキャンバス地のテントをそのままかぶせただけのユニークな家だ。前部には小さなポーチ(家から突き出た玄関)があり、子供たちが「ハロー」と叫ぶと、中から白人とデネの女性が現れた。白人の女性はリンといい、デネの女性はベティ・アンといった。彼女たちは、クリスチャンで、特にリンは村の相談役のような存在らしく、村人の悩みを聞いたりしている。紅茶をご馳走になりながら旅の話をしていると、自然とキリストの話題になった。はじめ、ぼくは用心していた。ときとして、宗教の違いは大きな摩擦を生む。しかし、彼女はぼくにそれを強いるわけでもなく、自分の身の上話として話したので安心した。やがて、ぼくたちは、すっかり意気投合してしまった。
ベティ・アンがぼくの髪を見ていった。
「トモ。あなたの髪、だいぶ伸びてるわねえ。わたしが切ってあげるわ。」
実際、ぼくの頭はボサボサののび放題だった。ぼくは土手の上のベンチに座らされ、即席の床屋が開業した。ベティ・アンは、櫛も使わずに指とハサミだけで器用にぼくの髪を切ってゆく。まわりでは、リンやキースが笑いながら見ている。不思議なもので、デネが切ると、雰囲気がデネのようになる。単純だが、ぼくも彼らの仲間入りをしたようで、その髪型が気に入った。
夕方、ベティ・アンのカヌーを借りて対岸のポイントへ渡り、釣りをしていると、ジョナサンの御爺さんがモーター・ボートで村に帰って来た。なんだか村が騒がしいので見に行くと、彼がムースを仕留めてきたところだった。巨大なムースは、既に特大のフィレ・ナイフでさばかれ、小さなスモーク・ハウスに押し込まれていた。中に入ると血の滴る赤黒い肉が周囲の空気を生暖かくしていた。口を半開きにしたムースの首に触ると、まだ、あたたかい。もし、東京の街角でこの光景に出くわしたらショッキングだろう。しかし、このときのぼくにとって、それは決してグロテスクなものではなかった。血も肉も生臭い匂いも、ここでは全てが「食欲」に直結しているからだ。
肉は、キースの家やリンの家にも分けられた。デネたちは、獲物を獲ると分け隔てなく皆に分け与える。独り占めすることは決してない。これは、一見、道徳的な行動に見えるかもしれないが、おそらく、収穫高の不安定な狩猟民族がとった最も安全な方法なのだろう。はじめて見るムースにぼくは興奮してしまい、ハエのように肉のまわりを飛び回って写真を撮っていた。すると、御爺さんはニコニコしながら大きな肉の塊をひとつ、ぼくにくれた。ざっと、二キロはある。とても一遍には食べきれないので、ぼくは、デネの昔ながらの方法で保存することにした。彼らは、上手にナイフで肉を切り伸ばして保存のきくドライ・ミートにする。小さな掘っ立て小屋でカバなどの木をいぶして薫製にするのだ。できあがるのに、だいたい二日かかる。この村でゆっくりすることになりそうだ。
ある日、川で洗濯をしていると、ジョナサンがやって来て「カヤックに乗せて!」とせがむので、川に出ることにした。ライフ・ジャケットを着せ、前に座らせる。そして、さっそうと川に漕ぎ出した途端だった。カヤックの中に、ものすごい勢いで水が入って来た。それはジワジワなどとのんきなものではなく、サーッと止めどなく入って来た。ぼくは、慌てて岸に戻り、カヤックをひっくり返してみた。すると、見るも無残にボトムが大きく裂けていたのだ!
カヤックの船体布は、デッキ部分が強化ナイロン、ボトムは型どりされたゴムのシートを張り合わせて出来ている。そのボトムの張り合わせ部分が右前方側面で約一メートル、左後方側面が約二メートルの長さでパックリと口を開けていた。ほかにも、こまかく裂けているところは数知れずあった。
もう、終わりだ! もう、川は下れない!
ぼくは、血が逆流するのを覚えた。辺りが霞む。
こうなった原因は、サイドに通ったエア・チューブ内の空気が太陽の熱で膨張し、強く張り詰められたボトムの張り合わせ部分が、その力に耐えられなくなったためだろう。それにしても、お粗末な代物だ。もし、この場にこのカヤック・メーカーの人間がいたら、ぶん殴ってやるところだ。
しかし、悪いことは重なる。なんとか気を取り直して、リペア・キッドを取り出してみると、キッドの袋に入れておいた接着剤のチューブが破裂していた。接着剤は、キッドごとカチカチに固まっていた。もう、いやになった。なにもかもいやになった。「もう、やーめた!」と放り出したくなった。
しかし、放り出してもなにも解決しないことくらいわかっている。ぼくは、悲観のどん底に落ち込んでいる自分を落ち着かせるため、しばらくなにもしないことにした。ぼくは、芝生の上にあぐらをかいて、川をぼんやりと眺めた。ゆったりとした流れを見ていると、幾分、自分の置かれた状況を冷静にみれるようになった。そして、三つの考えが浮かんだ。
一、なんとか修理する。
二、中古のカヌーを買う。
三、川下りを中止する。
ぼくは、一から順にやってみることに決めた。
落ち着いて、もう一度、リペア・キッドを見てみると、チューブの下の方はまだ固まっていなかった。しかし、これで足りるとは思えない。リンとベティ・アンのところへ相談しに行くことにした。
彼女たちのキャビンに行くと、丁度、夕食をとっている最中だった。ドアをノックするとベティ・アンが出て来て、いつものように話しかけてきた。
「トモ。元気?」
「最悪だよ。」
「どうしたの?」
「カヤックが裂けた。」
そういうと、ふたりは食べかけの皿から同時に顔をあげた。事情を説明すると、リンがいった。
「トモ。落ち込まないで。なんとかなるわ。わたしたちもボンドは持ってるし。それで駄目でも、ほかに方法はあるはずよ。それより、川の上でこんなことにならなくて、本当によかったわ。むしろ、そっちの方を感謝すべきだと思うわ。」
よく考えてみると、リンのいう通りだ。川の真ん中でこんな目にあったら、ひとたまりもない。
リンは、彼女がつくったムースのステーキとライスにベジタブル・ソースをかけたものをご馳走してくれた。温かくて、うまかった。ぼくも現金なもので、腹がいっぱいになると、多少、楽観的になれた。
食事の後、早速、カヤックを修理することにした。彼女たちも、裂けたカヤックを見たときは、しばらく黙り込んでしまった。しかし、やるしかない。まだ固まっていないボンドで、裂けたところを接着してゆく。すると、なんとかボンドの量は足りた。やってみるものだ。しかし、裂けた貼り合わせ部分は曲線にカットされているので、貼り直してもよれてシワが寄り、小さな穴ができてしまう。この部分は、川に浮かべたときに、水に浸るため、再びはがれる恐れがある。しかし、素人にはどうしようもないので、上から布テープを貼ることにした。そして、修理したカヤックは、ここの長老ジョージ爺さんの古い空き家に置かせてもらうことにした。外に置いておくと、直射日光でゴムが熱を持ち、接着部分が割れてしまうのだ。出来ることはやった。あとは、ボンドがうまく着いてくれるのを祈るだけだ。
その後、リンはぼくに日本語の聖書をくれた。こんなところで日本語の本に会うとは思わなかった。彼女は、自分の聖書を取り出し、何番のどこを読んでといった。ぼくはそれを自分なりにつたない英語に直して読んだ。はじめはうさんくさかったが、リンが選ぶ文章は、どれも、今、ぼくが置かれている境遇にピタリとあてはまるものばかりだった。その数々の文句は、ぼくを元気にしてくれた。聖書とはたいした教訓書だ。また、それを信じて疑わないリンの自信にも平伏する。
翌朝、寒さで目が覚め、寝袋の中で本を読んでいると、ベティ・アンがテントにやって来た。
「トモ。カヤックはもうチェックしたの?」
「いいや。まだだ。」
「これから、わたしとキースの家族でリグレーに行くんだけど、ボンドかなにか買って来るものある?」
リグレーとは、ここから七〇キロほど下流にある町だ。手持ちの接着剤もなくなったし、食料も切れかけていたので、一緒に行くことにした。
総勢七人でボートに乗り、ウィローレイク・リバーを遡り、ハイ・ウェイに出て、そこから車で一時間、ダートの道を突っ走った。車は、その日、リグレーから村に来た大工のパネル・バンを借りた。ぼくとジョージ、子供たちが荷台に乗った。正直いって、これから下るところを先に見てしまうのはいやだったが、そんなこともいっていられない。
リグレーは、人口約二〇〇人の閑散とした村だった。ベティ・アンたちはなにか用事があるようなので、ぼくは村で唯一の店、コープで降ろしてもらった。早速、接着剤をさがしたが、あまりいいものは置いていなかった。それでも、ないよりはましと、ボンドと名のつくものを三つと一週間分の食料を買った。コープの裏がベティ・アンの親戚の家だったので、みんなが帰って来るまで、そこで待つことにした。そこにいた中年の男はスレイビー語(デネが話す言語の一種)しかしゃべれないので、ジェスチャーで話す。テーブルの上にはボイルしたムース肉やポテト・サラダ、パンなどがあったので、遠慮なくいただく。デネたちは、だれでも家に入って来て、なんでも自由に食べる。旅をしている身にはありがたいかぎりだ。男は、ぼくが食べるのをニコニコと見ていて、コーヒーやらトーストを次々と出してくれた。その間に、いろいろな人が家に入って来た。みんな道路工事の出稼ぎに来ている男たちだった。
「オレはフォート・ノーマンから来て、働いてるが、ここでかみさんにする女もさがしてるんだ。しかし、だれも相手にしてくれねえ。」
「いつまで、リグレーにいるんだ?」
「こんどの日曜までだ。」
「それまでに見つかることを祈ってるよ。」
男は、耳が痛くなるほどの大声で笑いながら出て行った。
つぎに、ベティ・アンのいとこと名乗る男が入って来た。こいつは、顔がどこか写真家のロバート・キャパに似ていて、底抜けに明るい。ぼくが日本から来たというと、「いくら持ってるんだ?」「たくさん持ってんだろう」「金を見せてみな」と金の話しかしない。やはり、日本人はそう見られてしまうのだろうか。きっと、イエローナイフやエドモントンで、金をばらまく日本人観光客を見ているのだろう。ベティ・アンが帰って来ると、キャパは彼女に抱きつき、キスをしようとした。ベティ・アンは、本当にいやそうに体をねじって逃げ回った。あとで聞くと、キャパのなれなれしいところが死ぬほど嫌だと吐きすてるようにいっていたのが可笑しかった。
その晩、ぼくはリンの家にいた。また、夕食をご馳走になり、映画や家を建てたときの話をして、やがて、リンが若いころのことを話しはじめた。
「わたし、若い頃は宗教なんて信じなかったの。学校でもらった聖書なんかごみ箱にすてちゃった。高校のときは、自分の生き方に悩んで、神の声を聞こうと教会で三日も四日も祈りつづけたわ。でも、なにも聞こえなかった。だから、信じるのをやめたの。二〇代は、いつも、自分を満たすものはなんなのか考えてた。お金? 立派な家? それともかっこいい車? 結局、なにも見つけられなかった。生きる意味がわからなくなって、自殺しようとしたこともあったわ。そんなとき、ひとりのデネの老女に会ったの。その人がキリストの話をしてくれた。そのとき、わたしは、はじめてキリストを信じれたの。救われたわ。」
そして、彼女はキリストに会うまでの三三年間を「不毛の時代で、ただ時間を無駄にしただけ」といった。
「それはちがうよ。」
ぼくは、そう答えた。
無駄だと思えることでも、それが本当に「無駄だ」とわかることは決して無駄ではない。浪費することや間違うことも、後で自分を取り戻すことができれば、それは、なによりも確かで説得力のある「浪費」であり「間違い」なのだ。もし、彼女がなんの困難もなくバイブル通りに生きていたら、この間、ぼくが混乱していたときも心からは理解してくれなかったろう。バイブルを読んで頭でわかっているだけでは、ただデータを蓄積したにすぎない。
「だから、きみの三三年間は決して無駄じゃないよ。」
といった。彼女は少し考えてから深くうなずいた。彼女とは、こんな会話をすることが多かった。リンには、ぼくが、どこか頼りなくふらついた者に見えたのかもしれない。そんなぼくを見て、自分を回顧していたのだろうか。
ぼくたちは家を出て、彼女がつくったベンチに座り、マッケンジーを眺めながら話にふけった。そして、ぼくは、ふとこんなことを思った。
「世間て、マッケンジーみたいな大きな川なのかもしれないな。常に、流れは一定の方向に向かって進んでゆく。流木は、なすすべもなく下流へと流されてく。そんな流れの中で、ひとはなんの疑いもなく、あるいは、それを見ぬふりをして働き、金をつくってゆく。これといった目的もなしに。それは、ただ存在するだけのために。でも、ぼくは立ち止まって、自分の行きたいところを見つけ、それに向かって進みたい。もしかしたら、それは対岸にあり、あるときは、上流にあるかもしれない。流れに逆らうには大変なエネルギーがいる。それでも、ぼくは、ただの流木ではいたくないんだ。」
「その通りよ。」
思い浮かんだままを口にしていたぼくに、リンはそういってうなずいた。
「でも、そういってるぼくには、なにもないんだ。なにもつかんでないんだ。結局、ぼくはなにもしてないんじゃないかって思うときがあるんだ。自分の未来は、どうなっちゃうんだって。」
「なにいってんの。トモは、今、お金じゃ買えないことをしてるのよ。お金じゃ買えない財産をつくっているのよ。それに、未来に不安をもつのは当然よ。人生ってね、パレードみたいなものじゃないかな。自分はそれを見ている観客なの。パレードって、そこからは、何メートル続いているかなんてわからないし、自分の目の前の部分しか見えないでしょ。これから何が現れ、どうなってゆくのか。いつ、終わってしまうのかなんてわからないわ。だから、わたしは、天からすべてを見て知っている神に祈るのよ。」
ぼくは、この話が気に入った。人生をパレードになぞらえるなんて洒落てる。ぼくも、彼女の人生感に同感だ。ただ、ぼくと彼女の違いは、彼女の「神の導くまま」というのに対し、ぼくは、そのパレードを演出したいと思ったことだ。
リンがキリストに感じる神は、ぼくにとっての自然なのかもしれない。こうして川を下って行く中で、自然はぼくにいろいろなことを教えてくれる。今、おこっていること自体がそうだ。宗教とは、そのひとが信じる生き方、つまり、ポリシーのようなものだと思う。それは、宗教と呼ばれているものに限らず「自分はこうあるべき」という信念そのものなんだ。リンと話しているうちに、そう思えてきた。こうして、ぼくは彼女に親しみを覚えていった。
翌日、カヤックに試し乗りしてみた。二〇分ほど支流を遡ってみたが、水は入ってこなかった。とりあえず、裂け目はふさがっているようだ。岸に戻ると、リンがやって来た。
「トモ。カヤックはどう? あなたが漕いでるのが家から見えたから来てみたの。」
「一応、大丈夫みたいだ。」
リンが、家で映画でも見ようというので、彼女のキャビンに行く。ベティ・アンは、今朝、壊れたジェネレーターを直す手配をしに、ヒッチハイクでシンプソンに行っていた。映画は、「チャイナ・クライ」というクリスチャンを主人公にした映画だった。映画を見た後、ぼくは、まえから気になっていたことを聞いた。
「リン。きみが、はじめてこの村に来たとき、村の人はどんな反応だった?」
白人である彼女が、デネの村にひとりでいるのだ。彼らは閉鎖的ではなかったか。知っての通り、ここでは、昔、白人は侵略者だった。
「トモは、ジーン・マリーでとても親切にされたといっていたわよね。でも、白人の場合は違うわ。確かに、わたしがここに来たとき、彼らはわたしを拒まなかった。でも、それは喜んで受け入れたのではなく、『いたければいてもいい』という感じ。もし、わたしが出て行けば『よかった』とみんな思うわ。二年、ここに住んでるけど、それはいまでも変わらないわ。」
ぼくは、驚いた。確かに、いまだ白人をきらうデネも多い。しかし、リンのように利発で人当たりのいいひとでさえ、心からは祝福されていないのか。それは、もう個人レベルではなく、侵略した側された側の意識が心の奥底に根強く残っているからなのだろうか。
ウィローレイク・リバーに来て六日目、カヤックも直り、体調も万全になったので、そろそろ出発しようと思っていた。しかし、ひとつだけ気掛かりなことがあった。それは、ベティ・アンが、まだ、シンプソンから戻っていないことだ。ぼくは、ここを出る前に、世話になった彼女にどうしてもお礼をいいたかった。今日、一日中リンのところで彼女を待ったが、戻って来なかった。仕方なくテントに戻り、遅い夕食を食べていると、突然、うしろの草むらから人影が現れた。それは、ベティ・アンだった。
「トモ。プレゼントよ。」
彼女は、スーパーのビニール袋をぼくにくれた。中を見ると、おおきなゴム用接着ボンドがふたつ入っていた。
「ちゃんとあなたのことを考えてたのよ。まだ、ここにいてくれてよかったわ。」
うれしかった。確かに、くれたボンドは必要なものだ。しかし、それ以上に彼女の心遣いが身にしみた。ありがとう。
それから間もなく、上流のヘイ・リバーからキースの叔父家族が七人来て、ウィローレイクは急ににぎやかになった。そろそろ、潮時だ。明日、ここを出よう。その晩、ぼくはリンとベティ・アンのために肉じゃがをつくり、ハーモニカで「ふるさと」を吹いた。これが、今のぼくにできる精一杯の感謝の気持ちだ。
翌日の昼過ぎ、ウィローレイクを出発。村中のひとが見送ってくれた。
リンは、ぼくを抱きしめて「イヌビックに着けるのを毎日祈ってるわ」といってくれた。
ベティ・アンは「この下流にある右の支流でグレーリング(鱒の仲間)が釣れるわよ」と教えてくれた。
彼女たちは、へこんだぼくを元気づけてくれた。村のひとにも舟に乗せてもらったり、銃を撃たせてもらったり、いろいろと世話になった。
「マシ!(スレイビー語で『ありがとう』の意味)」
と叫んで、再びマッケンジーに漕ぎ出す。土手の上で手を振る村人は、やがて黒い影になり、まばらになって見えなくなった。ウィローレイク・リバーは、今まで下って来た村の中で一番小さい集落だったが、とても大きなものをくれたような気がする。
川の流れはコンスタントに一〇キロ前後あったので、漕ぐのをやめた。本を読みながら下る。マッケンジーは川幅が大きく障害物も少ないので、日本の川のように絶えず前方を気にする必要はない。音もなく進む川は心地よい風をつくり、遠くに感じる森の気配はぐっと心を広げてくれる。カヤックの上は極上の書斎になった。
天気がいいのと羅列された文字のリズムで、うとうとしはじめたときだった。カヤックの底から、シュワシュワーと炭酸がはじけるような音が鳴りだした。不信に思い、耳をすます。すると、その音は、ますます激しくなった。原因をあれこれ考えているうちに、不信が不安にかわってゆく。ボトムを修理したところが、再び裂けだしたのだろうか。それとも、カヤック自体が溶けだしたのか。などと、ありもしないことまで考えだす。こうなると、もう駄目だ。ぼくは、岸に上がって、ボトムを調べてみた。しかし、どこにも異常はない。川に出る。また、音がする。ぼくは、体を屈めてじっと舟底を見詰めた。そして、ふと川面に目をやったとき、やっとわかった。その音は、川底から巻き上げられた砂の粒子がカヤックの底に当たって起きていたのだ。いたるところで湧水が川面を持ち上げているのが見える。この辺りは川幅が一キロくらいしかなく、急に行く手を狭められた流れが水面下で複雑にからみ合っているのだ。川の脈動。ものすごいパワーだ。マッケンジーの底力をかいま見たような気がする。この音は、その後も川が狭まったところで何度となく聞いた。
ウィローレイクを出て二日後、リグレーに到着。町外れの河原には、カヤッカーがひとり、キャンプをしていた。見ると、そのカヤックは日本製の一人艇だった。その男に声をかける。
「日本人?」
「ハイ・・・。こんにちは。」
唐突だった。彼は、プロヴィデンスを二一日に出たという。名前は佐平といい、大学院を出て、マッケンジーに来たらしい。それにしても、佐平とは時代劇に出てくるような名前だ。途中、彼はぼくの噂を聞いていたようだが、一〇日も前に出たぼくは、もっと先に行っていると思ったらしい。ぼくは、町で食料を買い足して、佐平と一緒に出ることにした。リグレーは、閑散としていて町に活気がなく、どうも好きになれなかった。
ぼくたちは、川に出るとお互いのカヤックをくっつけて流されることにした。ふたりとも夢中になって話をした。久しぶりに聞く日本語は、ビンビン脳に響いて心地よかった。
佐平がいうには、三人組のアメリカ人がリグレーまで下り、二人がギブアップしたという。ぼくは、その二人を笑う気も責める気もない。マッケンジーは、ハードな川だ。楽しいだけでは下れない。リグレーまではハイ・ウェイが来ている。本当にやめるのなら、この村が最後のチャンスだろう。ここを過ぎてしまうと、約一〇〇〇キロ下流のシゲトチェック(旧アークティック・レッド・リバー)まで道はない。ぼくも、ウィローレイクで一週間休養していなかったら、リグレーでギブアップしていたかもしれない。明日はわが身だ。
佐平は神奈川県に住んでいて、ぼくも大学生のころ同県の海老名市に住んでいたことがある。アパートの家賃や小田急線のことが話題にのぼる。マッケンジーでこんな話をするとは思わなかった。不思議なもので、浩々とした北の大河を漂っていても、日本人と日本語で話をしていると、そこには立派な日本人コミュニティーのようなものができあがる。人間ふたりが塵のようなちっぽけな存在でも、そこに立派な個別の世界ができてしまうのだ。これは、時として外部のもの、周囲のものとの距離を生むが、いま、そんなことはどうでもよかった。ただ、楽しかった。
佐平と会った次の日、七月に入った。日本は梅雨真っ盛りだろう。マッケンジーは、ここのところ晴天が続いている。この辺りは川がほぼ直線に流れているため、景色が完全に固まってしまった。
八時間流されて、ブラックウォーター・リバーの流れ込みにテントを張った。ろくに漕いでもいないのに、体がほてって暑い。一日中、強い日照りの中、日陰もない川の上にいたのだから当然だ。夕飯を食べ終わると、ぼくは素っ裸になって、川に飛び込んだ。それを見た佐平も続いて川に入る。
つめてー!
支流の水は本流より温かいというが、ぼくの玉袋は、浸かった瞬間に上がってしまった。それでも、冷水は、ほてった体にしみて気持ちよかった。久しぶりに体を洗う。もう、一週間以上洗っていなかっただろうか。しばらくすると、太股の感触が消えて来たので、岸に上がり、火をおこして暖をとる。ふたりで「タマがない!」といって笑い合った。疲れは蒸発した。
ぼくと佐平は支流という支流に竿を出した。ぼくは、あのビーバー・リバー以降、パイクを一匹しか釣っていない。投げたスプーンは、虚しくひとりで手元へ戻ってくるばかりだ。
ダハディンニ・リバーという大きな支流では、流れの真ん中でグレーリングが跳ね回っていた。ぼくらは、鼻息を荒くしてカヤックに乗り込み、ルアーを投げたが、まったく相手にされなかった。だらだらと本流へ流されていると、むかいの岸に低く動く影を見つけた。よく見ると、オオカミだった。白い毛に覆われたオオカミは、まだ若くみえた。いまは夏なので、ハーレムはつくっておらず、単独だ。しばらくこっちをじっと睨んでいたが、やがて、ブッシュのなかに姿を消した。
ぼくは、マッケンジーに来る前、ジャック・ロンドンの「白い牙」を読んでいた。そこには、人間を食べようとするオオカミが執念深く付きまとう話が出て来る。そして、「マッケンジー」という固有名詞も出て来るのだ。ぼくは、クマよりオオカミのほうが恐ろしいのでは・・・と、不安になった。その様子を横で見ていた友人がゲラゲラと笑ったほどだから、よっぽど情けない顔をしていたのだろう。そのオオカミがおいでになったのだ。本流近くでオオカミを見るのはめずらしいらしく、後でこのことをデネたちに話すと「ラッキーだったな」といわれた。釣果ゼロでも、こんなことがあれば悪くない。しかし、陸の上では会いたくない相手だ。
ウィローレイクを出てから六日目の午後七時過ぎ、トゥリタ(旧フォート・ノーマン)の村が見えて来た。船着き場で魚釣りをしている子供たちの声がかすかに聞こえる。

第五章 欲望の小さな箱 Tulita ~ Fort Good Hope

Mck016.jpg 七月四日、トゥリタに到着。ノーザンのすぐそばにある河原にテントを張った。河原には、ログハウスができそうなでかい流木がゴロゴロ転がっている。腰をかけるには調度よさそうだ。
トゥリタとは、スレイビー語で「ふたつの川が交わるところ」という意味で、村のすぐ下にはグレート・ベア・リバーがマッケンジーに合流している。この名前は、旧名フォート・ノーマンから今年(一九九七)一月に変わったばかりだ。しかし、村の人は、いまだに「フォート・ノーマン」と呼んでいる。人口約四〇〇人。
佐平とぼくは各自ステーキ二枚を買って、無事トゥリタに着けたことを祝った。この町は、最終目的地イヌビックまでのほぼ中間地点にあたる。これまでは、イヌビックまでの距離など気にしたこともなかった。いつも、次の町を目指すだけだった。そうしなければ、あまりの長さに気が遠くなってしまうのだ。しかし、半分まで来たとなると、いやでも先を考えてしまう。ここまで二三日間かかった。「とうとう」という喜びと「まだか」というもどかしさが入り混じる。まだ、およそ八〇〇キロの道のりが残っている。先のことを考えるのは止めにして、目の前にあるニンニクたっぷりのビーフ・ステーキにがぶりついた。
うまい!
いつも缶詰めばかりつぎ込まれていた胃は、肉の重い味に吸い付いた。たまには、肉も食わなけりゃ力も出ない。しかし、酒がないのが寂しい。この町もドライなのだ。
ぼくたちがコーラで乾杯している間、岸には下流からぞくぞくとモーター・ボートが上がって来た。みんな、七〇キロ下流にあるノーマン・ウェルズでの買い物から戻って来たのだ。ボートから降りてくる男たちは、例外なく酔っ払っていた。ノーマン・ウェルズには酒がある。みんな楽しそうに酒の入った紙袋を抱えている。「ご機嫌だね」というと、みんなヘラヘラと笑って、なにか酔っ払い語を話す。これを聞き取るのは、デネ同志でも難しいだろう。
ボートの波が途切れたころ、土手の上から白人三人、黒人一人の男女が焚き火のほうに降りて来た。ノースで黒人に会うのはめずらしい。彼らは、ノーマン・ウェルズから物見遊山に来たという。ウェルズにはエッソの石油プラントがあり、マッケンジー沿岸で唯一、白人が過半数を占める町だ。彼らはそこで働いているといった。「シンプソンから何日かかった?」「ノーマン・ウェルズまでどれくらいかかる?」、ぼくらはいつもされる質問を浴びせられた。彼らは、ぼくらの進む遅さにいちいち驚いてみせた。男のひとりが、「これを持って、なんかひと言いってくれ」と、おもむろにポケットから缶ビールを取り出した。もうひとりの男が、まるでテレビ局で使っているような大きい年代物のビデオ・カメラをまわしはじめた。
ぼくは、久しぶりに手にしたビールを見つめて、
「カナディアン・ビールは世界一うまい!」
と叫んだ。佐平もなにかいった。彼らは、なにやら大喜びで、そのビールをぼくたちにやるといった。ここで、アルコールが手に入るとは思わなかった! ぼくは、有頂天になって喜んだ。アルコールよりタバコの好きな佐平は、やけに落ち着いている(彼は、いつもクールだが)。
「ウェルズで会おう」といって、彼らはジェット・ボートに乗り、あっという間に姿を消した。
あらためて、佐平と乾杯。久々のビールは、喉を唸らせた。これぞ人生!
翌朝、外が騒がしくて目が覚めた。テントから出てみると、三人の男がボートに荷物を積んでいるところだった。しばらく頭がはっきりせず、ぼーっと彼らを見ていたが、そのうちのひとりに見覚えがあることに気がついた。近寄ってみると、リグレーで会ったベティ・アンのいとこのキャパだった。
「おはよう。ぼくを覚えてるかい?」
「・・・?」
「リグレーで会ったじゃないか。」
「おお。お前か! トモか!」
キャパは、運送の仕事でハイ・レベルまで行くところだという。
「トモ。ガールフレンドはできたか? なんだったら、ここでつくれ。楽しまなきゃな。」
キャパはいつも金か女の話をする。ベティ・アンには、そうとう嫌われていた。しかし、面白い男だ。彼は、人目を盗んでウイスキーを一口くれた(ノースでは、外で酒を飲むと豚箱行きになる)。
「トモ。斧は持ってるか?」
「いや。」
「斧はいるだろう。斧は。」
と、キャパは麻袋の中から赤い斧を取り出して、ぼくにくれた。正直いって、それほど必要とは思わなかったが、折角の好意だ、もらうことにした。
三日目、トゥリタを出て、村のすぐ下に流れ込んでいるグレート・ベア・リバーを遡ってグレーリング釣りをした。ぼくは、自他ともに認める鱒偏愛者だ。あの鱒の繊細で機敏な動きと美しい魚体を思うとうっとりしてしまう。そして、グレーリングは、鱒科の魚で、見事な大きい背びれの持ち主だ。これは、是非、釣らなくてはいけない。そして、その味を確かめなければならない。間違ってもキャッチ・アンド・リリースなんてしてはいけないのだ。ここでは、魚は、例外なくオカズになる。
この川の水は底まで見えるジン・クリアーで、水源に巨大なグレート・ベア・レイクをもっている。その水量は凄まじい。どこも水深五メートル以上あるのではないか。日本の川もこれくらい水があれば底をする心配もないのになと思う。
マッケンジーに流れ込むグレート・ベア・リバーの河口は、幅約二〇〇メートル。そんな大きな河口で、ぼくと佐平は二、三センチの小さなスピナーを投げた。三〇分、一時間と時が過ぎてゆく。佐平は飽きて、カヤックの上でまどろんでいる。ぼくは、根気よく、マッケンジーの泥水とグレート・ベアの澄んだ水が交わる境界線上にキャスティングしていた。そして、二時間後、ぼくのルアーにあたりが出はじめた。四〇センチほどのグレーリングが、ルアーを追ってカヤックのすぐ手前で飛び跳ねる。しかし、食わない。このジャンプが、あざ笑われているようで、情けなく、腹立たしい。距離的には手の届くところまで来ているのだ。二、三回同じあたりがあった後、再び、音沙汰がなくなった。それでも、泥と清水の境目に沿ってルアーを引く。すると、こんどは、ルアーを上げる寸前に、カヤックの後ろからグレーリングが走り出た。ぼくは、反射的に「このまま上げては、食わない!」と思い、一瞬、ルアーを引く手を止めて、竿を倒し、違う方向に引いた。すると、グレーリングは、まんまとルアーに食いついた。わずか、一、二秒のことだった。あとは、手元に響く心地好い振動を感じながら、彼の跳躍、走りを楽しんだ。手に取り、獲物をまじまじと見る。体長の三分の一はある特大の背びれは、おかしいほど大きく、やはり見事だった。
近くの岸にあがると、グレちゃんは、あっという間にホイル焼きにされた。身は、鯛のように少しアイボリーがかった白身で、そのうえに所々赤身がのっている。味は、なにもつけなくても、ほのかに甘い上品な味がした。ぼくも佐平も、パイクより数段うまいという意見で一致した。この日は、釣りに熱中したおかげで、ほとんど進まずにテントを張った。
翌日、快晴。佐平と会ってからというもの、数時間の崩れはあるものの、おおむね天候に恵まれている。川に出て、下りながら友人に手紙を書く。このころになると、時間をもてあそんでいたカヤックの上でも、自ずとすごし方が身についてきた。読書、手紙書き、ハーモニカ、鼻歌、回想。自分の時間を楽しむ。きっと、ぼくが下っている間に、河原にはクマやムースがたくさん現れているのだろうが、ぼくが気づいていないだけなのだ。
結局、全然漕がないまま、前方に石油の町ノーマン・ウェルズが見えて来た。町の上空には黒炭色の重たく分厚い積乱雲が停滞し、激しい雨を降らせている。町の中央には、石油を汲み上げる際に発生するガスを燃やす巨大なガス塔があり、ゆらゆらと揺れる雨のカーテンの下で、異様なまでに明るく光っている。やがて、ぼくらは雨に吸い込まれ、下流から強風が吹きはじめた。これが今まで会ったこともないほどの凄まじい風で、露出していた顔や腕は雨に叩きつけられ、目もまともに開けていられない。川が波飛沫を上げだしたうえ、流れはどんどん速くり、カヤックはグングン下流に流される。ほとんどコントロールが効かない。それでもこん身の力で漕ぎ、なんとか町外れにあるドック(舟を泊める防波堤)に入った。雨の降りだしが唐突だったので、スカート(カヤックと体を覆うカバー)をつける暇もなく、ふたりともずぶ濡れになった。にくったらしいことに、やっとテントを張り、荷物を全部なかに入れ終わると、雨は止んだ。
ふたりともはらぺこだった。なにか温かいものが食べたい。町に出てまともなものを食おうということになったが、町の中心まではかなり離れていたので、ヒッチすることにした。一台目の車を捕まえ、町の繁華街で降ろしてもらうと、そこは小さな広場になっていた。広場には、ストアーや銀行、ホテル、バー、レストランが小さく固まっていた。午後九時をまわっていたので、レストランが開いているか心配だ。早速、店へ行く。中に入ると、観光客たちが食事をしていた。なにやら、ほんのりと複雑で文明的な料理の香りがする。これで温かいスープが飲める。と安心していると、マネージャー兼ボーイのような男が駆け寄ってきて、こういった。
「ラスト・オーダーは終わったよ。」
暗がりの中からぼくたちを見る客たちの目は、どことなく冷ややかだった。確かに、ぼくの格好は、はやし放題の髭のうえにずぶ濡れで、水の抜けきらない長靴は歩くとガパガパ音がして、みすぼらしいったらなかった。仕方なく、ぼくたちは隣のバーに入った。客はまばらで、地元の白人が数人、プールを楽しんでいるだけだ。店の隅にあるカウンターには、左の眉にピアスをした可愛い女の子のバーテンが立っていた。ビールとなにか温かい食べ物はないかと聞くと、トーストくらいならできるというので、それを頼む。
ぼくたちがテーブルについてビールを飲んでいると、
「あなたたち川を下ってきたんでしょ。これ、食べて。パドラーは、いつもお腹すかしてるって、わたし知ってるわよ。」
と、彼女は、両手いっぱいのスナックを持ってきてくれた。そして、トーストにも「チーズがあったから」と、山盛りで添えてくれた。泣かせるぜベイビー!
注文したものが全部揃うと、彼女はぼくの隣に座った。
「どこからスタートしたの?」
「プロヴィデンスを六月一二日に出た。佐平とはリグレーで会ったんだ。」
「どこまでいくの?」
「イヌビックまで。もしかしたら、トゥクトヤクタックまで行くかもしれない。」
「ふうん。天候はいい?」
「比較的よかったけど、今日、ここに着いた途端にドシャ降りにあってね。この通りずぶ濡れさ。君は学生?」
「いいえ。ここと、ストアーと博物館の庭の手入れの仕事をしてるの。夏の間だけね。あとは、あちこち旅行するの。ここは、お金を貯めるにはいいところよ。使うところがないからね。」
彼女は、明るく笑った。ぼくは、空腹をうめたのと、ビールを二本飲んだのと、美人と話をしたのとで、ずぶ濡れなことも忘れ、すっかり上機嫌になってしまった。佐平は、彼女との会話を楽しむよりこちらがいいというふうに、ひと箱八ドルもするタバコを吸って高揚とした顔をしている(ノースでは、タバコが目茶苦茶に高い)。気は確かか?
結局、彼女はビール代しか受け取らなかった。トーストとスナックは、彼女のおごりだった。レストランであしらわれただけに、その優しさが身にしみる。バーを出ると、川の向こうに虹が出ていた。
翌日、ノーザンへ買い物に行き、帰りは再びヒッチ。この町でのヒッチは一〇〇パーセント成功する。長髪のちょっとインテリっぽい白人が、ぼくらを拾ってくれた。車の中で、昨日のびしょ濡れ事件を話すと男がいった。
「おれの家で洗濯するか? 乾燥機もあるぞ。なんなら、泊まってもいい。」
このとき、ぼくは、この男を少し警戒していた。長髪でマッチョの彼が「もしかしたら、ホモか?」と思えたのだ。それに、彼は最後に「Trust Me(信じろ)」といった。ぼくは、信じろという言葉ほど信じられない言葉はないと思っている(イエローナイフにいたとき、この言葉で危ない目に会いそうになった)。しかし、ぼくがそう考えている間に、佐平は、既に諸手をあげて喜んでいた。結局、彼の家で厄介になることにした。彼の名前はジム。それに、ジムはホモじゃなかった。失礼。
この日の夜、ぼくたちは、パーティーに呼ばれていた。ノーザンへ行ったとき、トゥリタでビールをくれた連中のひとり、タラという女の子にばったり会ったのだ。買い物の後、彼女とお茶を飲んだとき、タラの友達が今日誕生日でパーティーをやるから一緒に来ないかと誘われたのだ。テントまで彼女が迎えにきてくれることになっていた。運よく、荷物をまとめてジムの家へ歩いている途中でタラに会えた。パーティーの前にタラの家へ行く。彼女は、ダンという男の家を間借りしていた。
家に入ると、タラはぼくたちにクロワッサンのサンドイッチを作ってくれた。ぼくは、昼も食べていなかったので、あっという間にたいらげた。タラが「もうひとつ食べる?」と聞いてくれたので、遠慮なく頂く。ここでは、遠慮していたら誰も気にも止めてくれない。気を使って「いいえ。結構です」などといったら、永久に愛しのクロワッサンは出てこないのだ。自然環境が厳しく、人口の少ない町では(ウェルズは約五〇〇人)必要なものだけがシンプルに求められる。心の片隅では「悪いな」と思っても、思い切ってなんでもいったほうがいい。そういうと、ダンは笑って「その通り。ここでは遠慮なんて必要ないさ」といった。サンドイッチのあとは、景気づけにウイスキーで乾杯した。タラは、彼女の友達や家族、ノースの写真をいろいろ見せてくれた。そして、その中に、ぼくを凍らせる写真があった。それは、わかさぎ釣りのように氷のはった湖表に穴が開けられていて、そこから一メートルはある巨大な鱒をタラが釣りあげているのもだった。ぼくが声を裏返して驚いていると、彼女は「この魚なら今あるわよ。ちょっと待ってて」と、キッチンのほうに姿を消した。そして、出てきたのがカチカチに凍った巨大鱒だった。タラは「たいして大きくないわよ」とぬかした。これは、レイク・トラウトという、北米の湖に住む鱒で、体長は湖の大きさに比例してでかくなる。タラは、この鱒をグレート・ベア・レイクで釣ったという。ぼくが鱒フェチだと知っている佐平は、息を飲んでいるぼくのアホ面を見て腹をかかえて笑っている。あとで知ったのだが、グレート・ベア・レイクでは、時折、二メートル近いレイク・トラウトが上がるらしい。ぼくがニュージーランドで鱒釣りをしたときは、ニュージーこそ世界一と思っていたが、上には上があるものだ。いつか、ぼくもこんな大物を釣ってやろう。
パーティーのあるボイラー・ハウス・バーに行くころには、佐平とタラはすっかり出来上がっていた。暗い店の中に入ると他所者のぼくらに全員の視線が集中する。しかし、そんなことはお構いなしに、ぼくたちは、コンピューターでクイズ・ゲームをしていた白人のテーブルを占領して、かなり早いペースで酒をたいらげていった。一時間ほどして、主役の女性が店に入って来た。彼女は、ぼくたちのテーブルにつき、みんなで書いたバースデー・カードを渡した。飛び入りのぼくらも何か書いたが、よく覚えていない。飲みだすと、彼女はひわいな日本語を知りたがったので、プレゼント代わりに思いつく限り教えてやった。やがて、タラの彼氏、ジム(泊めてもらっている家主とは別人物)も来て、ぼくの隣に座った。トゥリタでビールをくれた男だ。彼は、冗談以外のことはいわなかった。酔ったタラは、なにか話すとき、ぼくの耳元に息がかかるくらい顔を寄せてしゃべった。ぼくは、そんな彼女のしぐさにドキドキしていた。実際、彼女はとびきり可愛かった。ぼくは立ち上がり、店のディスク・ジョッキーの席へ行き、CDをあさって、勝手に曲をかけ、佐平やタラたちと踊った。みんな足元はふらふらだ。暗がりで回転する体は意識を軽くし、ぼくは、これが旅の途中であることも忘れてしまうほど陶酔していった。すると、踊り疲れたのか、タラは、「少し休みたい」と、ぼくの手を引いて裏口から外に出た。彼女は、階段に座り込んで、なにもいわなかった。手すりにもたれる彼女の後ろ姿は、妙に艶めかしく、ぼくは目のやり場にこまった。ぼくは「大丈夫か?」というのが精いっぱいだ。久しぶりの感覚だった。
しばらくして、テーブルに戻るとジムがいった。
「トモ。タラはいい女だろ。寝たきゃ、寝てもいいぜ。」
ジムは、他の女を見ては「いいケツだ!」と舌打ちしている。人と酒でいっぱいになった小さな箱の中で、ぼくは、日本にいる彼女のことを思い出した。なんだか、無性に会いたかった。
店を出るころ、佐平はトイレで酒を吐いていた。時計を見ると、午前三時。帰り道の曇り空は、さすがに暗かった。
次の日の昼すぎ、佐平が出発した。彼は、昨日、胃の中のものを全て出していたので、酔いは残っていないようだった。ぼくは、どことなく体がだるい。
荷物を全部積み終わると、ぼくたちは握手をした。
「マッケンジーで会えなくても、日本で会おうな。」
「ええ。でも、漕がないで行くんで、どっかで会えるかも知れませんよ。」
「そうだといいな。じゃ、楽しんでね。」
「ハイ。」
そういって、佐平はカヤックを漕ぎだした。彼の姿は、広い川面にいつまでも見えていた。正直いって、このとき、ぼくは、かなり感傷的になっていた。できれば、佐平と一緒にいたいとさえ思った。そうすれば、「ひとりではない」という安心感が得られただろうし、楽しいだろうと思った。しかし、佐平には佐平の、ぼくにはぼくのペースがある。それに、ぼくは、この旅を「ひとり」と決めていた。その方が、自分の触覚を外にのばして、いろいろなものを多く感じ取れる気がしたのだ。佐平はどう思っているかは知らないが、こうして、ぼくらは別れた。
ジムとの夕食は、毎日、バーベキューだった。外のデッキで肉を焼き、ビールを好きなだけ飲むという、ぼくには夢のような生活だった。ジムは、ひとり暮らしだったが、結婚はしていた。奥さんは、昔、ジムがロシアへ仕事に行ったときの通訳だったらしい。今は、仕事でチェコにいるという。写真の奥さんはとても若く見えた。
「二五歳だよ。トモより若いな。」
ジムは、少し、照れ臭そうにいった。ジムは自分の年をいわないが、恐らく三〇代後半といったところだろう。しかし、彼は歳を感じさせない知性と体力を持っている。そのうえ、会社の社長でノースで五本の指に入るピストルの早打ち名人でもあった。一昔前は、あっちの方も早打ちだったらしい。
「オレがユーゴに行ってたころは、町の若い奴はみんな軍隊にとられてたからな、女の子たちは寂しがってたよ。あのときは、一度に七人の女の子と付き合ってたなあ。ハハハ。」
財力も体力もあり、豪快なジムにこんなことを聞いてみた。
「ジムはネイティブと白人の関係についてどう思ってる?」
ジムは、気さくにこう話してくれた。
「確かに、昔は白人が侵略者だった。そのことに関しては国が金を出して援助してる。それが十分かそうでないかはおれには分からない。しかし、あいつらはそれを頼りすぎてるな。昔のことに文句ばかりいって働こうともしない。デネの偉い奴の中には、他人の補償金をくすねていい生活をしてる奴もいるぞ。いまでも白人を嫌うやつも多いよ。デネを嫌う白人も多い。でも、おれは仕事相手がデネだろうが白人だろうが気にしない。白人もデネも同じ人間だ。しかし、実際は仕事をする気のないデネが多いな。生きてくには、文句ばかりいってないで、自分で働いて金を稼がなきゃだめだ。自分で生きてく気のない奴は話にならんね。」
ぼくは、彼の意見に政治や歴史とは別の、現地で生きる白人の正論を見た気がする。一緒に働くという土壌では「やる気があるか、ないか」が全てだ。ジムは人種ではなく人を見ているんだなと思った。
そのやる気をそらしているかもしれない歴史や政策といったものは、この時、考える余裕もなく、ぼくは酒を飲むことに没頭し、もっと簡単な英語ですむような話を楽しんだ。そのおかげで、ジムはよく会社に遅刻した。
日中は、ヒストリカル・センターへ通った。ここには、ノーマン・ウェルズの歴史と、デネ、イヌイットの民俗に関する資料が展示されている。そして、博物館所有の記録映画が百数十本あり、館内の片隅にあるミニ・シアターで鑑賞できるようになっていた。ぼくは、映写室貸し切りで、一日に二、三本の映画を見た。大戦中に作られたものは、道路開発のフィルムでも戦争映画さながらの大袈裟な音楽で、笑えた。展示物の中には、第二時世界大戦中の日本に関する新聞記事もあった。そこに描かれている日本軍人は、サルに形容され、ジャップと書かれていた。
そうしているうちに、ノーマン・ウェルズに滞在して六日がすぎた。町を出る日、別れをいいにタラの家に寄るが留守だった。ヒストリカル・センターにも寄る。受付のジュリアに今日出るというと、
「何時に?」
「二時か三時。」
「四時か五時?・・・明日でしょ!」
と返してきた。ぼくの性格をよく知っている。そして、つづけた。
「トモ。あなたにいわれて、旧日本軍の記事を読んだわ。傷つかない?」
「別に。昔のことだしね。戦争も終わってる。」
「そう・・・。ここでは、いまだにネイティブは白人を嫌ってるわ。わたしは、大学でNative Social Workerになるための専攻をとったの。わたしね、ネイティブの人たちと仕事がしたかったの。ゼミはデネがひとり、白人が二人いたわ。でも、就職できたのはデネの人だけ。白人は誰も採用されなかった。」
リンのことを思い出した。
ジムが河原まで見送りに来てくれた。彼には、本当に世話になった。毎日、食べたいものを食べ、飲みたい酒を飲ませてくれた。本当にありがとう。
午後四時半。ようやく岸を離れた。
ノーマン・ウェルズを出ると、ぼくを待っていたかのように天候が崩れはじめた。ここに着いたときよりひどい風だ。向かい風のため、漕ぐのをやめるとカヤックが後ろへ押し戻されてしまう。何度となく横波を受けて沈しそうになる。早くも、ウェルズを出たことに後悔する。飲み明かしていた日々が懐かしい。しかし、目の前にあるのは、灰色の空、灰色の川、灰色の雨、灰色の風だった。なんて荒涼としているのだろう。結局、ウェルズの町がまだ見える河原にテントを張った。まったく、いやになる。
毎日、機械的に漕ぎつづけた。カヤックには、また水が入りはじめていた。三〇分ごとに、水を掻き出さなければならない。修理した部分がはがれだしたのだろうか。川は、幅を広げて島が増え、水路を何本にも分けた。
町を出て二日目、一〇時間の漕行を終え、力なくテントを張っていると、上流から赤いモーターボートが近づいて来た。ひとりの男が降りてくると、手を差し出した。
「マスズミだ。」
「え!!」
ぼくは、言葉につまった。
「レナード・マスズミだ。」
男は、笑いもしないで名前を繰り返した。思いがけなかった。会いたい、会いたいと思っていた人が、向こうから現れたのだ。
「あなたがマスズミさんですか! お会いしたかったです。あなたのおじいさんのことは本で読んでます。で、ノーマン・ウェルズにでも行ってたんですか?」
「いいや。リグレーにちょっと用事があってね。」
フォート・グット・ホープに着いたら訪ねる約束をして別れた。ぼくが、上流のいたる町でマスズミのことを聞いていたので、どこかでぼくの噂を耳にしたのだろう。がたいがよく、優しそうな小さな瞳の中に凛としたものを感じさせる男だった。これで、グット・ホープに行く楽しみが増えた。
しかし、次の日も天気は回復しなかった。逆風の中、六時間漕ぎ続けると、マッケンジー最大の瀬、サン・スー・ラピッツにさしかかった。ここは、前々から気にしていたところだ。何年も前だが、川の上で居眠りしていたパドラーが、ここで死んでいる。現地の人たちは、「左を行けば問題ない」といっていた。ぼくは、恐る恐る左岸すれすれに漕いで行った。すると、なんの変化もないまま瀬の下に出てしまった。山が川に張り出した右岸側は、大きな轟きが聞こえるが、川幅が広すぎて瀬自体は見えなかった。とにかく、一番気になっていた難所は、無事に通過した。
連日、悪天候が続く。ノーマン・ウェルズを出て四日目、川はますます荒れて、カヤックは波と風に翻弄された。漕ぐというよりは、もがくといったほうが正しいだろう。風の影響が少ない岸よりを漕ぐ。それでも、しばらくすると、知らず知らずのうちに流れの速い沖の方へ出ていってしまう。「はやくグット・ホープ入りして休みたい」という気持ちがぼくを焦らせるのだ。いけない。ここで慌ててはいけない。へたに沖に出てひっくりかえれば、一巻の終わりだ。驚いたのが、上流から下ってきたバーチ船(交易品を運ぶ大きな船)が、ぼくのすぐ後ろまで来て、岸に待避したことだ。あんな大きな船でも運行を見合わせるような状況なのか。それでも、ぼくは止める気にはならず、岸すれすれに下った。
午後八時、今日中にグット・ホープに入りたかったが、断念。予想以上に体力がない。傾斜のある土手にテントを張り、C.C.を腹につめて、石のように眠った。
五日目、天気は相変わらずだが、風がやんだ。カヤックに荷物を積んでいると、対岸で銃声がした。川に出ると、ボートが川を横切ってこっちにやってくるのが見えた。彼らが岸に上がったのを見計らって、ぼくも彼らのいる岸へカヤックを着けた。
ボートには三人の男が乗っていた。岸には、カリブー(北米産のトナカイ)が二頭横たわっている。彼らは、近くに生えていた木の枝を切り、地面に敷き詰めると、その上でナイフ、ナタ、斧を使って、手際よくカリブーをさばき始めた。首を落として皮を剥ぎ、前後の足を切断して胴体を切り開く。胃袋を切るとドロドロの草がガスと一緒に吹き出して、草食動物独特の青臭い匂いを放った。三〇分ほどで解体が終わった。
男たちは、グット・ホープから来たという。村までボートで一五分くらいらしい。カヤックだと、三時間はかかるだろう。カリブーをさばくと、男たちは、「村で会おう」といい、ぼくに大きなリブ肉を残して、村へ帰って行った。もらった肉を削ぎとって、火であぶり、口に入れる。口の中が肉汁でいっぱいになる。力が出てきた。今日は、グット・ホープまで行ける。そう思うと道草をして釣りでもする気になった。人と会ってほっとしたのだろう。我ながら気分屋だと思う。釣ってみるとパイクが入れ食いだった。今まで釣れなかったのが嘘のようだ。
やがて、ランパーツという渓谷に入った。ここは、四キロだった川幅が急に一キロに狭まり、二〇メートル以上も垂直に切り立った断崖に囲まれたマッケンジーでも特異な場所だ。流れは狭まったぶん速くなり、ぼくは漕ぐのをやめた。心地いいスピードでカヤックは進み、右岸の崖が途切れた先にフォート・グット・ホープの村が見えてきた。戦前に、ひとりの日本人が住み着いた小さな村。ぼくは、なにやら無性に胸騒ぎがした。

第六章 白夜の流れ Fort Good Hope ~ Tsiigehtchic (Arctic Red River)

Mck021.jpg 七月一六日の午後六時過ぎ、フォート・グット・ホープに到着。船着き場にテントを張り、夕飯にパイクを焼いていると、一台のトラックが村から降りてきた。ひとこと挨拶して、魚の焼け具合を見ていると、男がひとりトラックを降りて、こっちに歩いてきた。
「トモか?」
「え? なんでオレの名前を知ってるんだ?」
「アルフレッド・マスズミだ。佐平が、毎日、君を探してるぞ。彼はオレの家にいる。君も来るか。」
佐平が、ここにいるのか!
アルフレッドは、ぼくの荷物をカヤックごとトラックに乗せ、ぼくを家へ連れて行った。彼の家は、船着き場から村の反対側にあった。佐平は、優雅にソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。彼にもう一度会えるとは思わなかった。テーブルにつくと、アルフレッドの奥さん、サラが温かいコーヒーを入れてくれた。その晩、夜半過ぎまでアルフレッドたちと話し込んだ後、ぼくはふかふかのマットレスを借りて、佐平と同じ部屋で寝ることにした。ぼくも佐平も再会を喜んで、グット・ホープまでの道のりはどうだったか語り合い、寝たのは午前三時をまわっていた。
アルフレッドは、以前に熊本テレビが増住弘貴の生涯を取材しに来た時、日本人テレビ・クルーの世話をするなど、面倒見のいい男だった。彼は、日系一世である弘貴の孫にあたる。
増住弘貴は、一八八四年、熊本に生まれた。一九〇二年に漁師として太平洋に出るが遭難。乗組員は、北米の西海岸にたどりつき、当時のゴールド・ラッシュの波にのって、更に北をめざした。彼らがアラスカまで北上してきたときに日本から来た捜索隊と出会い、仲間は日本へ帰って行く。しかし、弘貴だけは北米に残り、ユーコンのドーソン、メイヨー間を走る船で働いた。一九一五年には、ルーシーと結婚(届け出は一九二二年)。二年後には長男ジョセフ(アルフレッドの父親)が生まれ、更に二年後に次男チャーリーが生まれる。一九二一年にフォート・グッド・ホープに移り住み、一九四九年の春に亡くなるまで、この村で暮らした。クリークに落ちた娘を助けるために川に飛び込んだのが最期だった。現在、増住弘貴の血をひく者は一〇〇人を越えるという。
「昔、雪解けの春、弘貴が(マッケンジー下流の)リトル・シカゴへ行ったとき、カヌーに乗っていた男が、下から浮いてきた氷の塊に突かれて横転したんだ。それを見た弘貴は、服の上から、ウサギの毛皮で作った防寒服を着て川に飛び込んだ。そして、川に浮かぶ流氷をかわしながら、沈んで見えなくなった男を探し出して、岸にあげた。そのうえ、また川に戻って、今度はカヌーにロープをつけて引っ張りあげたんだよ。」
弘貴のことを話すアルフレッドは、とても優しい目になる。自分で「わたしはおじいちゃん子だった」というほど弘貴を慕っている。彼は、日本人とデネの血を受け継いでいることに誇りを持っていた。昔、道も電気もないこの土地でひとりの日本人が生きていたということは驚異に近い。
ぼくがグット・ホープに着いて三日目、アルフレッドのいとこにあたるアルバート・マスズミの結婚式に居合わせるという幸運に恵まれた。
この日の午前中、佐平はグット・ホープを出発していた。それとは、入れ代わりに、クニという日本人パドラーがアルフレッドの家に転がり込んできた。アルフレッドは、川を下って来る日本人を見つけては自宅に呼び込んでいるのだ。
結婚式は、午後四時から村の教会ではじまった。教会の中は紙の造花できれいに飾られ、式は村人の雑響の中で進められた。式が終わり、教会の階段ではライス・シャワーが新郎新婦にそそがれる。目の前にはマッケンジーがとうとうと流れ、教会の横には、名前も書かれていない弘貴の白い十字架が静かに立っていた。彼が逝って四八年後のいま、あらゆるものが変わり消えてゆくなか、マスズミ家の人々は見事にこの地に根づいている。
生命は、原野をつらぬいて伸びる! それは、騒々しくなく、猛々しくもなく、糸を伝わる水のように細く静かで、しかし、着実につながっている。すごい! そう思った。
その夜、村の集会所で披露宴が行われた。このパーティーには、誰でも参加でき、自前の皿とフォークさえ持っていけばご馳走がもらえる。ぼくは、アルフレッドたちと披露宴に乗り込んだ。ロースト・ビーフ、チキン、ポテト、サラダ、パイ、スープが食べ放題だ。新郎新婦とその親戚にはテーブルがあったが、他の人たちは床にあぐらをかいて食べている。食事をもらうための列が会場の壁を一周している。披露宴というより、町内会の催し物といった感じだ。かしこまったパーティーよりこのほうが楽でいい。たいていのものは口にしたが、スープだけはひどい味だった。
食事が終わると、輪をつくりバイオリンの速弾きにのって踊るスクエアー・ダンスがはじまった。はじめ、ぼくは壁にもたれて見物していたが、女の子がひとり寄ってきて「教えてあげるから踊ろうよ」といってきた。断る手はない。しかし、輪に入ったものの、踊り方がまったくわからない。ダンスがはじまり、ある一定の規則で男女が相手を代えて踊るのはわかったが、いつ次の女の子に移ればいいのかわからない。ぼくは、ひとりで逆に回ったり、手を取ってみると相手が男だったりして会場の笑いを集めた。ぼくを誘った女の子が、隣の子に「わたし、今夜彼を誘うわ」とつぶやいているのが聞こえた。ありがたいが、ぼくにはその気はない。アルフレッドたちもぼくを待っている。
ダンスが終わってひと汗かいた後、アルフレッドが、ぼくとクニを新郎のアルバートに紹介してくれた。握手をした後、アルバートは、ぼそりといった。
「疲れた。早く帰って寝たいよ。」
これが、男の本音か?
翌朝、外から聞こえる女の声で目が覚めた。耳を澄ましてみると、どうやら、昨日ぼくをダンスに誘った女の子らしい。アルフレッドが、息子に変な虫がつかないよう心配する(普通は娘だが)父親のような口調で、彼女を追い返してしまった。一瞬、もったいない気もしたが、また、眠ってしまった。
ぼくは、アルフレッド家の庭を借りてカヤックの修理をしていた。カヤックの中に水をはり、縦に横に傾けると、ウィローレイクで直した部分からジャバジャバと水が吹き出した。これで下っていたのかと思うとぞっとする。しかし、驚いたのは、ぼくよりも周囲の人間だった。佐平もクニも「これでは下りたくないな」といったくらいだ。それでも、直すしかないのだ。アルフレッドは、気を利かせていろいろなボンドを貸してくれたが、どれもうまくつかない。結局、佐平が置いて行ってくれたボンドが一番よくついた。その上から、クニがくれた布テープを張り(ノースに布テープはない)、三日かかって、なんとか修理完了。みんなの助けがなければ、どうにもならなかった。ありがたい。しかし、これで大丈夫というわけではなく、いつまた裂けるかわからない。果たして、イヌビックまで行けるのだろうか。
コーヒーを飲んで一息入れていると、アルフレッドがぼくに書類の束を渡した。なにかと思って見てみると、表紙に「スプルース・ツリー・バーク・カヌー(松の皮を使ったカヌー)の作り方」とあった。アルフレッドは笑いながらいった。
「トモ。もし、カヤックがだめになったら、これでも作りな。それとも、ここに居着いて嫁さんでももらうか。」
サラは、「それがいい」と真顔でいった。ぼくは、笑うしかなかった。
カヤックの修理も終わってひと段落した日の夕方、帰ってこない娘のマリーを探しに村へ行ったアルフレッドが、マリーと一緒にひとりの日本人を連れて来た。彼は、カツユキといい、フリーのライターだといった。カツは、過去二回マッケンジーを下っている。そのとき、増住弘貴のことを知り、その生き様に感銘を受け、今回、取材に来たという。これを聞いたぼくは、少なからず動揺した。自分より若い男が、ぼくのゴールであるライターとして目の前に存在し、また、増住弘貴という書き手にとっては申し分ない素材に手を掛けようとしている。彼は、ぼくがつかみたくて仕方のないものを、すでに持っているのだ。ぼくは、焦った。正直いって、憧れを越えた嫉妬心さえ湧いてきた。そして、そう思う自分がたまらなくいやになった。そんな考えを打ち消そうと、ぼくは自分に言い聞かせた。
ぼくが、この旅で目指しているのはもっと北だ。ここは、まだ旅の途中に過ぎない。カツは、三年前の川旅でこのライフ・ワークを見つけた。ぼくには、まだ未知のマッケンジーがある。今はそれを大事にしよう。オレには、オレのマッケンジーがあるんだ。
しかし、そう思っても、どこか釈然としなかった。
明日、発とう。北へ。
翌日、ぼくとクニはグッド・ホープを出ることにした。アルフレッドとカツが船着き場まで送ってくれた。別れ際に、アルフレッドがいった。
「デネにはGood-byにあたる言葉がない。ただ、See youというだけだ。そして、決して後ろは振り替えらない。」
「わかった。いろいろとありがとう。See you.」
一週間ぶりのマッケンジーは、時折、北風が吹くものの、静かで和やかだった。
昨日とは打って変わって、気分は清爽だ。やはり、川は落ち着く。アメリカのあるフォークシンガーがこんなことをいっていたのを思い出す。
「人間の体内には、昔から水を見ると喜ぶ遺伝子があるのさ。」
その通りだと思った。
グッド・ホープから次の町、シゲトチェックまでは、およそ三五〇キロ。マッケンジーで町と町との距離が最も長い区間だ。一緒に出発したクニは、ぼくのカヤックを心配しての同発だった。ありがたい。
彼のカヤックは、カナダ製の六メートル近くもある大型の二人艇だ。それは、世界的にも定評のある丈夫な折畳み式カヤックで、今回、カナダに来たときに購入したばかりの新艇だった。ぼくの四年落ちのつぎはぎだらけの舟をクニのものと並べると、なんとも貧弱で小さく見える。マッケンジー級の大きな川になると、カヤックの性能の優劣はとても重要だ。ときには、命にもかかわってくる。それが痛いほどよくわかった。カヤックと何とかは新しいほうがいい。
クニは、フリーで川や海の環境調査をしている男で、仕事が暇になったので、マッケンジーに来たという。彼は、大阪出身で、関東の人間が想像する通りの関西人だった。口を開けば人を笑わせる。川の上でも退屈したときは、するすると彼のカヤックに近づけば笑わせてくれた。しかし、クニは、「トモはなんにでも笑うんやな」と、ハリがなさそうだった。
二日目にとうとう北緯六六度三三分を越え、北極圏に入った。といっても、景色が急変するわけではなく、相変わらず、スプルースの原生林が平たく続いているだけだ。プロヴィデンスを出て四三日目のことだった。
北極圏に入って最初の支流、ティエダ川で釣りをする。ぼくもクニも、あっという間にパイクを二匹釣り上げた。川は低い灌木に覆われて狭い谷を蛇行していた。岸は、手入れされた芝生のように緑の草が生えていて、平和的な風景だった。今日はここでキャンプするかという話も出たが、足元を見てその気が失せた。水際の柔らかい土の上にはオオカミやクマの足跡が無数に残っていたのだ。しかも、まだ、新しい。
魚のいるところクマ多し。
足早にそこを立ち去った。
それからというもの、どういうわけか、魚がよく釣れだした。支流にさえ入れば、パイクが次々と釣れてしまう。しかし、人間はわがままなもので、釣れるとなると、それも面白くない。そこには、駆引きというものがなくなり、一方的な綱引きになってしまう。男と女の関係といっしょだというような俗っぽい言葉が頭にちらつく。何度も食べたパイクの味は味気ないものになり、やがて、ぼくもクニも食べなくなっていった。
ぼくには、マッケンジーに来る前から、やろうと決めていたことがあった。それは、カヤックの上で眠り、一晩中、川を下ることだ。日本の狭く、障害物が多い川では出来ないことだ。クニもこれに賛成し、午前四時にお互いのカヤックをロープで繋ぎ、流されることにした。背もたれをはずし、ライフ・ジャケットを下に敷き、後部デッキに積んだバックを枕代わりにして横になる。すでに七月も後半に入っていたので、北極圏とはいえ、午前二時には日は陰り、ぐっと冷え込んだ。上半身はフリースにレイン・ウェアーを着込み、下はズボン、レイン・ウェアーの上にダウン・ジャケットを掛ける。オオカミの遠吠えが聞こえる沈殿の森から鈍く光る月が登った。北の大地は、急速に冬へ向かっている。寄ってくる蚊を叩きながら冷たく高い空を眺めていると、いつの間にか眠ってしまった。
翌日、起きたのは日が高くなってからだった。寝ぼけた目をしばきながら地図を見て、「しまった!」と思った。ノーマン・ウェルズを出るときに、ぼくはジムから彼の友達に渡してほしいとウイスキーを一本預かっていた。その友達がグランド・ビューというところにいるのだが、カヤックの上で寝ている間に通り過ぎてしまったのだ。しかし、後の奉りだ。川を遡ることは、船外機でもつけない限り無理だ。ジムには悪いことをした。川を下り終わったら詫びの手紙を書こう。そう思いながら、ぼくはまた眠ってしまった。いうまでもなく、そのウイスキーはぼくの胃に流し込まれた。
再び気が付いたときは、暑さで目が覚めた。どうやら、寝ていた五時間の間に三〇キロほど下ったようだ。それにしても、昼寝くらいならいいが、カヤックの上で寝るというのは疲れる。クマなどの動物からは安全だが、ぼくは岸に上がって休むほうがいいと思った。
ぼくらは、岸に上がって飯にすることにした。しかし、クニは寝たりないらしく、バーベキューの鉄板みたいに焼けた河原で大の字になって寝ている。よくあんな熱い石の上で寝れるもんだ。朝食にラーメンを食べた後、川に飛び込んだ。淀んでいるように見える川も、入ってみるとかなりの速さで流れていた。相変わらずの低い水温で、ぼくの愛竿は、いちじくのように小さくなってしまった。寝ていたクニも泳ぎだす。冷水は、重い頭と体を引き締めてくれた。気分爽快!
すっきりして、再び川に出ると、リトル・シカゴ近くでコースト・ガードの船に会った。そばを通ると彼らはボートを出して、ぼくのカヤックへやってきた。三人の男が乗っている。彼らは、佐平のことを知っていた。
「フレッドのところで、べろべろに酔っ払ってたぞ。あいつ、大分飲まされてたな。」
といって笑っている。ぼくがウイスキーを渡すはずだった男のところだ。どうやら、あいつを追い越したらしい。
それから、ぼくとクニはよくはぐれた。というより、時々会ったといった方が正しいかもしれない。ふたりとも漕がないので、流されたら流されっぱなし。川幅が広いため、一度離れたら見つけることは難しい。ぼくは、それでいいと思っていた。クニもそうだろう。キャンプ地で会えれば一緒になったが、ばらばらにテントを張ることもよくあった。これが、日本人によくある団体意識、つまり「何をするにも一緒」主義だと、自己が抑圧され窮屈になる。ここでは、いやになったからといって、逃げ場はないのだ。会いたくなったときだけ会えばいい。ぼくとクニの間では、そのバランスがうまく取れていたのだろう。会えばたのしく、いなくても平気だった。
グット・ホープを出て六日目、朝から強い北風が吹いていた。でかく重たい雨空は川のすぐ上まで垂れこみ、風は不規則な低音をたてて吹き走り、川は網から解かれた魚たちのように跳ねあがった。クニとは、昨日からはぐれたままだ。ぼくのカヤックは、グット・ホープを出てからも水が入ってきていた。少しでも、カヤックにかかる負担を減らしたかったので、風の少ない岸寄りを漕ぐ。しかし、波は、岸のそばでも高く難航した。うねりは、どんどん大きくなり、漕ぎ疲れたぼくのカヤックは、荒れ狂う流れの芯に吸い込まれそうになる。その度に、ぼくは必死になって、その力から逃げるように漕いだ。そんなことのくり返しだ。北風は心までも吹きさらし、巨大な流れは感情をも剥ぎとった。くたくただ。
マッケンジーは、シゲトチェックの手前約二〇キロのところで流れが急激に狭まり、フックのように大きく右へカーブする。その渓谷では、集められた流れが中央で巨大な波をつくっていた。風は、絶壁を抜けてどんどん強くなる。どうみても、先を急ぐのは危険だ。しかし、ここを抜ければ町がある。ここを越えれば、なんでも食べたいものが手にはいるのだ。行きたくて仕方がない。
ぼくは、上下に大きくうねる波の上で自問した。自分の中にいる自分自身に。
いけるか?
すると、心はこう答えた。
あせるな。やめとけ。
ぼくは、はやる気持ちを押さえ、岸に上がり、様子を見ることにした。
しかし、岸に上がることすら、やさしくはなかった。波は、傾斜のある岸に、海のように激しく打ちつけていた。ぼくは、大きな波にタイミングを合わせて岸に漕ぎあがり、水の中へ飛び込み、帰り波にさらわれないようにカヤックを押さえ込んだ。ずぶ濡れだ。それでも、岸に上がると危機感は遠退き、冷静になれた。カヤックを波の届かないところに上げ、ぼくは、崖の途中にできた浴槽ほどのくぼみにしゃがみ込んで火を起こした。温かいお茶を沸かして喉に流し込み、一息つく。
崖の上から見降ろす川は、スケールが大き過ぎるためか、たいして荒れているようには見えなかった。マッケンジーのふところの大きさを思い知らされる。その後も、天候の回復を待ったが、強風はおさまらなかった。ぼくは、今日中にシゲトチェックへ行くのをあきらめ、河原にテントを張った。テントが吹き飛ばされないように、風上に流木を積んで風除けをつくる。テントに入ると、雨がフライ・シートを激しく叩きはじめた。その夜は、ある服を全部着込んで寝袋に入ったが、寒くてほとんど眠れなかった。
翌日、目が覚めると、風は相変わらず吹きつけていたが、川は昨日ほど荒れていなかった。ぼくは、迷わず出発した。
ここのところ気温が低い。カヤックを漕ぐ手がかじかんで中指の感覚がなくなってきた。そんなとき、不意に水の中に手が浸かる。すると感覚が戻って来た。川の水の方がぼくの手よりあたたかいのだ。それからは、手が冷えると、すぐ水に入れるようにした。
風を避けて崖の下を漕ぐ。絶えず、あちこちで小さな落石がある。それでも、ぼくは崖沿いに最短距離をとった。二時間ほどで渓谷を抜けると、遠くに川を渡るフェリーが見えた。シゲトチェックの町だ。やがて、その景色は大きくなり、犬だらけの河原に到着。ここは、ハイ・ウェイが走っているというのに、どこか寂しげな町だった。河原を見渡すと、支流の流れ込みにクニのテントを見つけた。ぼくは、無性にうれしくなって、テントへ駈けてゆき、思いっきり揺さぶってやった。
もうすぐだ。イヌビック!

第七章 もっと北へ Tsiigehtchic ~ Tuktoyaktuk

Mck037.jpg これまで、ぼくは町に入ると土地の人といろいろ話をするのが楽しみだった。しかし、シゲトチェックまで来るとゴールはもう目の前だ。「先へ行きたい」という気持ちが強くなっている。ぼくは食料を補給し、一泊しただけで出発した。クニも一緒だ。
シゲトチェックの町を出ると、マッケンジーは巨大なデルタ地帯、マッケンジー・デルタに入る。ここで、川は毛細血管のように無数の水路に分かれて横に広がる。迷路のように入り組んだ水路をひとつ間違えれば、生きて帰れる保証はない。この年も、デルタの西にあるアクラビックから東側のイヌビックへデルタを横断しようとしたグループが行方不明になった。少なくとも、ぼくがいた間は見つからなかった。ぼくも、このデルタ地帯の地図だけは二五万分の一の詳しいものを買っておいた。
両岸にそそりたっていた断崖は、だんだん低くなり、島が増え、流れは枝分れしていった。イヌビックへの道はただ一本、イースト・チャネルだけだ。そのイースト・チャネルには、シゲトチェックを出て二日目に入った。川幅は、キロ単位からメートルに代わる。湿地帯ということもあってか、いろいろな種類の鳥を目にするようになった。それを追って来るのか、キツネやオオカミも見掛けた。スプルースの森も、ツリーライン(森林限界線)が近づいているため、背を低くしている。
そして三日目。今日は、念願のイヌビックへ入る日だ。クニは「終着の地」を目指して、力強く漕いでゆく。しかし、ぼくの気分はスッキリしなかった。心の中に、「ここまで来たら北極海まで行きたい」という気持ちがあった。マッケンジーの流れ出しから漕ぎだし、その終わりまであと百数十キロのところまで来てやめてしまうのはもったいなく思えた。ただ、ぼくを躊躇させていたのは、裂けたカヤックのコンディションと「海を漕いだことがない」ということだった。マッケンジーの河口には村がなく、人がいるところへは河口から約四〇キロ東にあるイヌイットの町トゥクトヤクタック(通称タック)まで行かなければならない。ぼくにとって海は未知の世界であり、つかみどころのないものだった。しかし、最後のベンドを曲がり、次第に、大きな工業プラントのあるイヌビックが見えて来たとき、ぼくは決心した。
タックへ行こう!
イヌビックは、マッケンジー沿岸で、ずば抜けて大きい町だった。人口約三〇〇〇人。次に大きいのがシンプソンの一〇〇〇人だから、その規模の違いはわかるだろう。イヌビックは、ぼくが勝手に描いていた北の町とは違っていた。そこには、なんでも物がそろい、ぼくの終着点、「最果ての地」とはほど遠かった。これはぼくの勝手な願望であり、イヌビックがいやな町といっているのではない。ただ、「終わった」と感じさせてくれる土地ではなかった。カヤックはここまでもっている。なんとかなるだろう。それに、海は荒れていない凪のとき以外は漕がないと自己規制すれば危険は避けられるはずだ。イヌビックの岸に足をかけたとき、ぼくの心は、すでに、タックへと飛んでいた。
泥が乾いて出来た砂の河原にテントを張り、食事をしに町へ行くことにする。しかし、ついにテントのジッパーが全部壊れてしまった。これで、完全に、入口は閉まらない。まだ、先があるというのにイライラさせる。クニは日本に電話しなければいけないらしく、先に町へ行ってもらった。
ぼくは、あきらめ悪くジッパーをいじっていた。すると、向こうから女性がふたり歩いてくるのが見えた。ぼくが、テントから顔を出すとひとりが近づいて来た。彼女はカヤックにとても興味があるらしく、マッケンジーを下って来た話をすると根掘り葉掘り聞いてきた。そのうち、ぼくらはすっかり意気投合してしまい、今夜、一緒に飲むことになった。午後九時にマッケンジー・ホテルの前で待ち合わせ。クニが聞いたら驚くだろう。ぼくは、小さなテントの中で小躍りした。
町に出て、クニを探す。
それにしても、通りを歩くひとたちが、みんな日本人に見える。ここまで来ると、デネと一緒に、イヌイットが人口を占める割合が多くなってくる。やはり、同じ顔の人たちに会うとほっとする。とくに、子供たちは、日本では見掛けなくなった鼻たれ小僧が大半をしめ、イヌイット特有の照れ笑いは、旅疲れしているぼくの心を和ませてくれた。
しかし、間の悪いことに、クニが見つからない。そうこうしているうちに、約束の時間になってしまった。仕方なく、ぼくはひとりでマッケンジー・ホテルへ向かった。
彼女たちは、ラウンジにいた。スプリングが効いたふかふかのアーム・チェアーに座り、久々のビールを飲む! たった一口で、ぼくの頭は幸せになってしまった。彼女たちの名前は、イングリッドとヘザー。女性の仕事レベル向上のためのシンポジュームを開きにイヌビックへ来たという。しかし、四日間の滞在で仕事は半日というのだから、いいビジネス・トリップだ。旅先のぼくらは、お互いの話に熱中した。カナダの話。カヤックの話。音楽の話。アルコールが回ると、話は四方八方に散り、意味のないものになっていった。そして、意味なんていらなかった。
途中から、イヌビックへ来る飛行機の中で彼女たちと一緒になったというクレイグが加わり、踊りに行くことになった。クレイグは車を持っていたので、テントに寄ってもらい、クニを拾うことにする。迷惑なのは、クニだったろう。寝ようとしていたところで酔っ払ったぼくに詰め寄られ、
「クニ! クニ! 踊りに行くぞ! 踊り!」
と怒鳴られ、わけもわからないまま車に乗せられると、中で酔っぱらいの白人三人が騒いでいるのだ。
「まったく。いないから、誰かと食事でもしてるんやろなと思ったら、こういうことか。」
と、クニはぼやいていた。
そうだ。こういうことなのだ。ぼくらは、トラッパーズ・バー(罠師の飲屋)へ向かった。そこは、ウエスタン・スタイルのバーで、バンドが生演奏していた。ぼくたちは、デネが歌うストーンズやビリー・ジョーエルで、頭も体もふっとびそうなほど踊りまくった。ぼくは、忘れかけていた町の気配に浸り、それを満喫した。気持ちよかった。
店を出て、再びテントへ戻って来たとき、イングリッドがぼくにホテルのキーを渡していった。
「いつでもシャワーを使っていいわよ。」
一瞬、ぼくは妙なことを想像してしまった。それとも、よっぽど汚く見えたのか?
翌日。今日から八月だ。ぼくは町でベルクロを買い、テントのジッパーに縫いつけることにした。しかし、裁縫はどうも苦手だ。片面に縫い付けるのに一時間半かかった。そんなことをしているうちに、イングリッドやヘザー、クレイグがテントの前にやって来た。今日、ここで、キャンプ・ファイヤーをやる約束をしていたのだ。ぼくは、残りの片面を縫うのをあきらめ、焚火の輪に加わった。
「どうしたの?」
と、ぼくの親指に巻かれたバンソーコーを見てイングリッドがいった。
「針で刺した・・・」
というと、彼女は腹を抱えて笑っていた。畜生!
薪は狂乱的にどんどんくべられ、炎はぼくのテントより大きくなった。すると、逆上したクニが「フォ、フォ、フォ、フォ」とバルタン星人に変身してしまった。バルタン星人を知っているはずもないみんなは、笑いながらも無気味がっていた。
自前の酒を飲みほしたころ、だれがいうとなくバーへ行くことになった。今度は、町でもうひとつのバー、ズー(動物園)へ行く。店の中央にはダンス・ホールがあり、ぼくたちは、店が閉まるまで踊りまくった。昨日は照れていたクニも夢中になって踊った。ぼくは足の裏の皮がむけ、シャツは汗でビショビショになった。店を出ると、ひんやりと冷たい外気が肌を刺した。思わず、ぼくは叫んだ。
「シャワー! シャワーが浴びたい!」
すると、クレイグがいった。
「湖だ。湖に泳ぎに行こう!」
「湖・・・!」
時計を見ると午前二時をまわっている。気温も七、八度だろう。しかし、ぼくらは、酔った勢いにまかせて、クレイグのいう湖へ行くことにした。
車は、郊外に向かうダートの道を一〇分ほど走り、水道用貯水池へ入って行った。フェンスには「立ち入り禁止」「遊泳禁止」と書かれている。入口には鍵がかかっていたが、何故かクレイグはここの鍵を持っていて、いとも簡単にゲートを開けてしまった。どうしてここの鍵を持っているのか聞いてみると、彼は水道局員だった。
湖は、急斜面で落ち込んでいた。クレイグ、イングリッド、ヘザーは、あっという間に裸になり、湖に飛び込んだ。午前二時の白夜は真っ赤に焼けている。スッポンポンの体は丸見えだ。ぼくも後に続く。クニは、岸で「ウソ! ウソやろ! お前ら、頭おかしいぞ! 変態や! 信じられんわ!」と罵声を飛ばしながらも、服を脱いで飛び込んだ。湖の水は透き通っていて、自分のつま先さえよく見える。ぼくたちは、宙ぶらりんのワイヤーによじ登り、奇声を上げて何度も池に飛び込んだ。男も女もなかった。ただ、楽しかった。
帰りの車の中で、イングリッドが「日本じゃ、あんなことしないでしょ」と照れていたのが可笑しかった。
その後、テントに戻ったクニは、火を起し、暖をとりながら、うどんを打ってくれた。醤油だけで食べるマッケンジーうどんは、とてつもなく、うまかった。
八月三日、イヌビックを出発。イングリッド、ヘザー、クレイグがお別れをいいにテントまで来てくれた。イングリッドは、五分前に起きたという顔をし、ヘザーはいつものようにクールで、教会へ行くクレイグは洒落た服を着ていた。クニともここでお別れだ。日本で会おうと約束して、岸を離れた。
とうとう最後の行程だ。ぼくは、一〇日分の食料を積み込んでいた。タックまでは、およそ一八〇キロある。少なくとも四日はかかるだろう。海に出てからは直線で四〇キロほどだが、北極海は一度荒れるといつ治まるかわからないと聞いていたので、食料は余裕を持って倍以上持っていくことにしたのだ。
イースト・チャネルは、カリブー・ヒルに沿って北上する。山にはほとんど木が生えていない。マッケンジーを数十キロ離れるとツリーラインはもっと南にあるらしく、湿度の多い川の周囲だけがこの辺りまで限界線を北へ押し上げているらしい。チャネル沿いにはフィッシュ・キャンプ用のキャビンが点在していた。
五時間ほど下ったころだった。下流から赤いモーター・ボートが遡上してくると、スピードを落としてぼくのカヤックに近づいてきた。すると、乗っている人々が一斉にカメラをぼくに向けて撮りはじめた。
「おい、おれは野生動物じゃないぞ。写真なんか撮るな。」
と、叫んだ後、カメラから上げた顔を見て驚いた。イングリッドとヘザーだった。
「さっき『さよなら』っていって別れたのに、もう会えたわね。また、会えるかしら。」
とイングリッドがいった。ぼくは時計を覗きこんで
「うん。九時頃かな。」
と答えるとみんな笑った。彼女たちは、町で知り合ったデネにフィッシュ・キャンプを見せてもらいに行っていたという。ヘザーは「イエローナイフに来たら、家に寄ってね」といってくれた。ボートは、アクセルを吹かすとあっという間に上流に姿を消した。女性の仕事レベル向上は大丈夫だろうか。
イヌビックを出てからも、海に対するぼくの不安は消えなかった。だから、少しでも早く海に出て、余分な時間を確保したかった。ぼくは、海を目指して、連日フル回転で漕ぎつづけた。しかし、それが裏目に出た。「少しでも前へ進んでおこう」と欲をかいたおかげで、デルタの中で岸に上がれる場所がなくなり、夜中まで漕ぎつづけるはめになった。イースト・チャネルは河口に近づくにつれ、再びほかの水路と合流し、マッケンジー本流と同じくらいの大きさになっていった。
二日目に北緯六九度線を越えたころから天候が崩れだし、強烈な北風につかまった。カヤックは、不規則な大波にもみくちゃにされた。いつの間にかツリーラインを越え、あたりは薄っぺらなツンドラの大地に変わっている。低く這いつくばった雨雲だけが、猛スピードで後ろへ消えてゆく。大きくて荒々しい。ぼくの中で景色は遠退き、リアリティーをなくし、虚無の中で漕ぎつづけた。しかし、それも限界を越えると、腕は切り落としてしまいたいほどだるくなり、わめく言葉は風にかき消された。漕ごうと思っても、思うように腕が動かない。岸に上がりたいが、上がれるところも見当たらない。ぼくは腕のことはなるべく考えず、目の前にある右岸から突き出た岬を越えることだけに集中した。
何時間たっただろう。やっとの思いでその岬を越えると、風は次第に弱まり、波で沈する心配もなくなっていった。ぼくは、よかったともありがたいとも感じることさえ出来ず、ただうなだれて流された。腕は、自分のものとは思えないほど無造作に垂れ下がっている。そのうち、小さなクリークを見つけ、テントを張り、力なく倒れこんだ。
夜半から雨が降りだしたが、翌朝には止んでいた。腕はまだだるいが、出発。幸い、風はない。
川の中央に出て流される。今日中に、北極海に出られるだろう。そう思うと断片的に今までのことが脳裏に浮かび上がった。世話になった人たちの顔を思い出す。
ジン・マリーのアンガス兄弟。ウィローレイクのリンとベティ・アン。ノーマン・ウェルズのジムとタラ。グット・ホープのアルフレッドとサラ。イヌビックのイングリッドやヘザーたち。そして、佐平とクニ。
月並な言葉だが、彼らなしではここまで来れなかった。自分ひとりでは、なにもできないことが身にしみてわかった。と同時に、本当にやりぬこうと行動していれば、自然と助けてくれる人が現れることもわかった。大切なのは、自分自身に、人に、素直になることだ。そして、あきらめないこと。
うれしかった。
涙が溢れた。そして、不思議と力が湧いた。
クリークを出て八時間後、右にあった岸が急カーブで東に反れて、視界が一挙に開けた。
海だ。北極海に出たのだ。この先の北極点までは、もう陸地はない。
海に手を突っ込んで舐めてみる。塩辛くない。マッケンジーの水量が多いので、水面下数メートルは真水なのだろう。海の色も、川と同じ茶褐色だ。北北東に突き出している岬の先を目指して漕いでいると、前方でベルーガ(白鯨)が二頭ジャンプした。しばらくすると、カヤックに気付いたのか、沖の方へ泳ぎ去っていった。
川とは違うゆったりとしたうねりの上で、ぼくは、ぼーとしてしまった。二ヶ月近く付き合ったマッケンジーが終わったのだ。そう思うと、もう少し河口を見ていたいという気になった。ぼくは、河口近くにあるホワイトフィッシュ・ステーションというイヌイットがベルーガ狩りをするときに使うキャンプ地に上がることにした。
そこには、流木で作られた風避けの塀が点在していたが、人はいないようだった。ぼくは、干潟と海の間にできた細長い半島の上にテントを張った。おびただしい数の流木だ。ここはツンドラ地帯で、地表の数十センチ下は氷の土地なのに薪にする木は無数にある。火をおこすのに一歩も動かず、一分もかからない。ここは、焚火の天国だ。今朝、クリークを出発する前に汲んでおいた水で飯を炊き、クニが餞別にくれたC.C.を飲む。食事が終わるころ、雨が降り出した。ずいぶん、タイミングがいいもんだ。やがて、海から北風が吹きだし、ぼくはテントに逃げ込んだ。
翌日。強い北風と雨のため停滞。テントは、風に調子を合わせるように大きく左にたわんでいる。修理したテントの入口からは、横殴りの北風が絶えず吹き込んでくる。ある服をみんな着込んでも寒い。何重にも重なった雲は、低い雲ほど物凄い勢いで内陸へと飛んでゆく。波もみるみる高くなり、テントのすぐ下まで押し寄せてきた。何度もカヤックを高いところへ動かさなければならなかった。
これが、北極海か・・・。
足留めを食らうのは覚悟していたが、実際、目の当たりにすると、やはり不安になる。そんなとき、心を和ませてくれたのが、時々、テントの前に現れるシクシク(プレイリードック)だった。シマリスをひとまわり大きくしたようなこの愛敬者を見ていると、なんだか、ほっとした。焦らず、海が治まるのを待とう。
八月六日。相変わらず北風は吹いていたが、波はそれほど高くなかった。「行けるか!」とも思ったが、分厚い雨雲に覆われた海は、いつまた荒れだすかわからない。大きな流木に座って、北の海を見つめる。行くべきか留まるべきか。ぼくは、迷った。
と、そのときだった。耳の奥でこもるように響く鳥の声がした。見上げると、二羽の鶴がタックのある東の空へ飛んでいくのが見えた。
行ける!
ぼくはそう直感した。これは、いい前兆に違いない。なんの根拠もないが、そう思えた。
急いで荷物をカヤックに詰め込み、出発。あまり海岸に近づくと、波を真横から受けて沈してしまうので、岸から一キロほど沖合いに出た。右に薄っぺらなツンドラを見ながら、東へ漕ぐ。冷たい風で、すぐに手がかじかんでしまう。その時は、手を海に突っ込んで感覚を取り戻す。はじめは、いつ海が荒れだすかビクビクしていたが、いつも辛いときに歌うクレイジー・キャッツの歌をうたっていると気が紛れた。
五時間漕ぎ続けると、左前方に、燈台のような棒状の蜃気楼が現れた。あれは、少なくとも人工物だ。タックに違いない。ぼくは、海岸線を離れ、その蜃気楼めがけて一直線に進んだ。もう、いつ海が荒れるかは気にならなかった。
さらに二時間ゆくと、プリンのような台形型のピンゴ(地中の水分が凍結して盛り上がった丘)がふたつ現れ、その向こうにタックの町が見えてきた。デルタの真ん中にあるこの町は、海抜が低いせいか、無数の家が海面に浮いているように見える。まるで根無し草のようにうねりの上でふわふわと揺れている。燈台のように見えたのは、DEW Lineのレーダー基地だった。
午後七時すぎ、ぼくは、最果ての地、タックの町外れにある誰もいない海岸にたどり着いた。
五七日間の川下りは、これで終わった。
そこには、すべてのものを変えてしまうような大きな感動はなかった。ただ、体の中にドシッと重く動かない充実感だけがあった。