旅熱

憂鬱なはじまり/知床

「ヨシダトモヒコさんですか?」
宿帳に名前を書いていると、細面で神経質そうな管理人が無愛想に聞いた。
 「ええ」
 男の方に顔をあげると彼は事務的にいった。
 「お婆さんが危篤だそうです。連絡がほしいといってました」
 管理人が差し出した紙切れにはお袋の電話番号が書かれていた。
背中越しに、宿までぼくを送ってくれた青年が住所を書いたメモを差し出す。
 「ありがとう。帰ったら連絡するよ」
 青年は、危篤という言葉には触れずに、いい旅ができるようにと気の利いた挨拶をして、雨の中へ飛沫をあげて車を走らせていった。
危篤の電話があったのは二日前らしい。婆ちゃんは父方の祖母で、数年前に胃癌の手術をして胃はすっかりなかった。親父とお袋は、ぼくが大学のころから別居している。何故、お袋から連絡があったのだろう。すぐに電話をしたが、親父もお袋もつかまらなかった。婆ちゃんは生きているのだろうか。そして、万が一のとき、ぼくはあの苦悩の家へ素直に帰るのだろうか。家でのぼくは、自立できていない自分にいらつき、生活に疲れ果てたお袋の姿に憤りを感じていた。息をすることさえ努めていなければ、窒息してしまいそうだった。それでも、良心は、既に答えを出していた。
 すぐ帰れ!
 それがまともな人間の思うことだ。
ぼくは、灰色の海が揺れる北海道の羅臼にいた。これから大地の端に突き出した知床半島をオホーツク側のウトロまでカヤックで一周する。これを皮切りに、日本の川をハシゴして九州まで下り歩くつもりだ。そして、この知床一周には仲間がいた。去年、カナダ北部を北極海に流れるマッケンジー川を下ったときに知り合ったクニだ。クニとは、この宿で落ち合うことになっている。
誰もいない湿気ったドミトリーで思いだけがぐるぐると渦を巻く。死ぬのか、生きるのか。戻るべきか、進むべきか。部屋の窓に吹き付ける潮混じりの雨風がチリチリと音をたてる。なんておあつらえむきな天気だろう。重苦しい湿気や陰気さがぼくの頭を押しつぶす。やめよう。ここで悩んでも仕方がない。全ては電話がつながってからのことだ。
気分転換に羅臼の小さな繁華街をぶらついて戻って来るとクニが来ていた。ぼくは二日前にフェリーで北海道に入ってキャンプをしていたが、証明写真機のメンテナンスという仕事を持つクニは、ホウホウの思いで一週間の休みをとり、時間を惜しんで飛行機でやって来たのだ。クニは、ぼくに「戻るのか?」と聞いた。彼もマッケンジーを下っているときにお婆さんを亡くしている。しかし、即答はできなかった。
夜になると、親父とお袋、ゆう子からの電話が鳴りつづいた。婆ちゃんは病院に担ぎこまれていたが、まだ、一命は保っていた。しかし、いつ逝ってもおかしくないと医者はいっているらしい。親父は「これは仕方のないことだから、来るか来ないかは好きにしていい」といった。ゆう子もぼくがいいと思う通りにした方がいいといってくれた。しかし、お袋だけが戻るべきだといった。この自分の本心と違う言葉を聞いたとき、ぼくの心は驚くほどはっきりした。
「おれ、戻らない」
お袋は「ううん」と唸ったきりだった。親父には、ウトロに着いたら必ず連絡すると約束した。しかし、どうしようもないのが、本心とは別にある良心だ。容赦なくぼくを責めたてる。
 見殺しにする気か?あんなに可愛がってくれたのに。いつも田舎から帰るとき、ぼくを見送ってくれた婆ちゃんの姿がどんどん小さくなっていく。
 でも、この旅をやめるわけにはいかない。いま、ぼくがしなければならない唯一のものが、この旅なんだ。そう思えてならない。
クニとぼくは宿の近くにある小さな商店で食料を揃え、明日の出発に備えた。憂鬱な雨が降りつづき、軒下に干したびしょ濡れのテントは乾きそうになかった。
知床半島の太平洋側は羅臼から海岸線を二〇キロほど北上した相泊、オホーツク海側のウトロより北側には道も民家もない手つかずの自然が広がっている。あるものといえば、夏の昆布漁に漁師が詰める番屋が海岸にパラパラとあるくらいだ。そこをクニがマッケンジーで使ったカナダ製の二人乗り豪華客船フェザークラフトのK2(折畳式カヤック)で一周する。長さは六メートルを越え、アルミフレームの頑強な造りは、ぼくが持っている日本製の粗末な代物よりはるかに信頼がおける。しかし、その反面、折畳んだ姿はクソでかく唸るほどの重さだった。
翌朝、クニとぼくは、バスの発車時刻にあわせて町中にある停留所へ、ふたつもある馬鹿でかいK2のバックを抱えて、まだ寝ぼけている漁村を這っていった。バス停は、小さな公園の前に錆びたひさしをつけて置かれていた。そのひさしいっぱいに荷物を広げて息を切らせていると、ふたりの男が公園の隅で桜の木を植えているのに気がついた。「おはようございます」と挨拶すると、片方の男が「どこまでいくんだ?」と穴を掘る手を止めずに聞いてきた。相泊の方へいくというと手が止った。「いま、相泊までバスはいっとらんぞ」それは知っている。観光シーズン前のいま、バスは相泊よりかなり手前の漁村までしか運行していなかった。仕方がないので、そこから漕ぎだすつもりだった。ところが、男が「これが終わるまで待てるんなら相泊まで送ってったる」といった。願ってもない。そうして、その甘い報酬のかわりに桜の木を植える仕事はぼくらの義務になった。しかし、大学時代にボディービルをしていたマッチョのクニが手際よく木を植えてしまい、ぼくは横で相の手を入れるくらいですんでしまった。たのもしい!
その男は輝生さんといった。もうひとりは輝生さんの息子さんだった。ふたりは植木職人だと思っていたが、聞いてみると、公園の持ち主であるお兄さんの要望で、自分の庭の木を植えに来ていただけらしい。輝生さんは地元の漁師で、冬には出稼ぎであちこちにいくらしく、神奈川の溝の口駅前の様子はかなり詳しく知っていた。いつも小脇に座敷犬を抱えて、底抜けに明るい叔父さんだ。
輝生さんは、自宅、友人の家、番屋とあちこち寄り道しながら相泊までぼくらを送ってくれた。しかし、海はあいにく時化ていて、冷たい風と白く崩れる波が「出たらひでぇ目にあわせるぞ」と脅かす。ぼくらは近くの食堂に逃げ込み、七月だというのにストーブの前でトド肉定食を食べ、羅臼にある熊の湯キャンプ場に戻って一日やりすごすことにした。
その夜は輝生さん宅に呼ばれ、ホッケのチャンチャン焼きをご馳走になった。埼玉の実家で食べる干物のホッケとは同じ魚とは思えないほど甘みがあって驚いた。とにかく、うまい。食べ物は産地で食べるのにかぎる。



ひでぇ目

翌朝七時、輝生さんの息子さんがキャンプ場まで迎えに来て、再度相泊まで送ってくれた。途中、どんより曇った空の下を海岸に沿って走っていると、息子さんは海を見て今日も波が高いと心配していた。そういわれると、クニもぼくも海を漕いだ経験があまりないので心配になってくる。それでも、相泊に着いてみると、なんとかなりそうな気がした。息子さんは「気を付けて」といって帰っていった。仕事前の忙しい時間だというのに、本当に親切なひとだ。
カヤックを組み立てる。今回はクニの二人艇を使うので、主導権は彼にある。ぼくはいわれたとおりに組み立てて、自分の荷物を防水バックに詰め込んだ。
 すっかり用意ができると、昨日トド肉を食べた食堂で暖かいラーメンをすすり、体をあたため、気合を入れて店を出た。そして、準備万端なはずのカヤックを見て唖然とした。
 赤いはずのカヤックが真っ黒になっていたのだ。と、突然、黒が空中に弾け、今度は白くなった。白いのは、奴らの糞だった。カラスだ。クニが、大声をあげて追い払う。見るとデッキに括りつけておいたスナックやラーメンの袋が食いちぎられて辺りに散乱していた。それを見たクニは「むっちゃ不吉…」と呟く。海水で糞を洗い落としている間も、奴らは食べ物を狙って詰め寄ってくる。追い払っても、次々にやってくるのできりがない。さっさと出発することにした。
 二人艇の場合、後ろが舵とりで、前が漕ぎ手になる。クニが後ろで、ぼくが前に座った。糞まみれの舟は、防波堤に囲まれた港の黒い静水の上に線をひいてゆっくりとすべり出した。
防波堤を出ると、海上を走る風が水面を揺さぶりだす。バウ(舳先)を北東へむける。夏にしてはやけに冷たい風が岬から吹いていた。これが岬へと吹く風に変わらないかぎり凪にはならないと地元の人がいっていたっけ。それでも、岬にはここよりも軽い空気があるようで、それが心の嗅覚を刺激する。はじめて知床に来たとき、いつかこの熊の岬を一周してやろうと決めていた。それがはじまったんだ!
 動き出した長い旅への期待と不安のはざまで、婆ちゃんのことが頭をよぎる。
 ごめんといさぎよく謝ることもできず、かといって、無視することなんかできない。静かに受け入れるしかないのか。でも、そんなんでいいのか?
 半島は、海岸線まで山が迫り、波打ち際に細い海岸が続いていた。岬まで約二〇キロ。岸辺には、大小様々な番屋が点在している。
 沖に出て二〇分もすると、波は二メートルを越え、前で漕いでいるぼくは頭から海水をかぶるはめになった。川では堂々たる軍艦に見えるK2も海ではただの小舟だ。激しく上下するうねりは大きな窪みをつくり、そこに落ちると視界は水の壁でいっぱいになる。かと思うと、途端に突き上げられ、水の頂に登りつめる。その繰り返し。舟は、振り子のように、同じうねりの中でいったりきたりして、なかなか前に進まない。飛沫と風が体温を奪う。こんなに体を動かしているのに!
相泊を出て最初の岬、観音岩が見えてきたころには、波風はさらに強くなり、進むことさえおぼつかなくなった。風の裏にある入江に逃げ込もうと岩を巻くが、波は舟をグングン岩に押しつけようとする。真っ黒な岩に当たった波が目の端で白く砕けちる。あんなところに叩きつけられたら舟も体もバラバラになってしまう。恐ろしいものは見ないように前を向いて漕ぐ。アジサシが海面に足を交互につけながら、まるで散歩をしているような軽やかさで舟の横を飛んでいった。
 やっと岩を越えると、今度は定置網が待っていた。オレンジ色のブイをつけた網が岸から沖へ一直線に伸び、それが木のように何本にも枝分れしている。これが厄介なのだ。凪いでいれば、そのままロープの上を越えればいいのだが、海面が大きく揺れると固く張ったロープはブイとブイの間で宙に浮く。もし、舟がこの下に入ったり、上に乗りあげたりしたら簡単に沈(転倒)してしまうだろう。こんな時化で海に放り出されたら大変なことになる。遠まわりは体にこたえるが、慎重に網を迂回して入江に入った。観音岩を越えるだけで一時間もかかってしまった。
海岸に打ち上げられる波も大きく、舟から降りるだけで全身びしょ濡れになった。砂浜に点在する岩の間で火をおこし、暖をとる。しかし、熱は風に蹴飛ばされて、体なんかちっとも暖まらない。ふたりとも黙って時化た海を眺めるだけだ。腕がだるくてたまらない。クニも「つらい…」ともらす。へとへとだ。今日はここで泊まろうかとさえ思ったが、相泊から二時間以上漕いで、たった四、五キロしか来ていない。クニの日程にも限りがあるので、ここまでの倍の距離にあるモイレウシまでは今日中にいっておきたい。そこは、壷のように深くえぐれた小さな湾になっているので、こんな時化でも入江は静かでゆっくり休めるはずだ。安楽の地を思い描きながら、羅臼でもらった地酒カステラをたいらげ、あたたかいお茶を飲み、再び力を振り絞る。
第二ラウンド。こんどは、あまり沖に出ず、海岸線を縫うように漕いでみる。すると、うねりも前ほどきつくなくなった。モイレウシの手前まで来ると写真が撮れるくらいの余裕もできた。
この辺りから海岸線には手榴弾のグリップのようなブロック状の岩がそびえだす。岸近くの水面下には岩礁が隠れているらしく、あちこちに岩陰が黒く浮かび、そこだけ白い波が立っている。
 切り立った断崖。しがみつく緑。うねる海。舞う鳥。それらのパーツが織り重なって一本の線になり、北へと伸びている。それは、ぼくの知っている日本とはかけはなれた光景だった。人の生活などにはなんの感心もない野性的な世界だ。その圧巻な光景の中をひたすら漕いでいくと、柱のように垂直に立ちあがった岩が左右に並ぶモイレウシの入り口が見えてきた。
湾の中は、厚いガラス板を緑の森にしきつめたように凪いでいた。入江は、草に覆われた断崖に囲まれ、天然のシェルターになっていた。湾の中央に注ぐ川に沿って狭い谷が山の奥へつづいている。流れ込みの左手にある砂利の浜に上がった。右手の海岸には二階建ての立派な番屋があり、外で漁師たちが網の手入れをしている。テントを張っている間、森の中からエゾ鹿が不思議そうに首を傾げてこちらをうかがっていた。
 キャンプの用意がすっかり出来あがると、フライ竿を取り出して夕飯のオショロコマを釣りにいく。クニは、川の細い流れを見て「この川は釣れへんで」といいきった。知床の川は、どれも深山を思わせる渓流がそのまま海に流れ込んでいるものばかりだ。しかし、ここはとにかく「知床」なのだ。オショロコマがわんさかいるはず。ぼくは、河口近くのざら瀬に毛鉤を落とした。すると、あっという間に二〇センチのオショロコマが四匹かかった。川岸に生えていた大きな葉っぱでそれを包んでテントに戻る。さばいた内臓を餌にして目の前の海に放り込み、クニがアイナメを釣った。
 海岸で拾った網を焚火の上に敷いて海の幸、川の幸をいただく。アイナメは、脂がのっていて、味付けなどする必要がないほどうまかった。オショロコマは、川の臭みが全くなく、今まで食べた鱒類の中で一番うまい。水がいいのだ。
この夜は、道東に低温注意報がでていて、気温は一〇度まで下がった。寝袋に入ると耳の周りがざらざらする。指にとって見ると塩だった。一日中海水をかぶっていたのだ。無理もない。今日は一日漕いで七、八キロしか進まなかった。明日は、波も落ち着くだろうか。クマは出ないだろうか。いろいろな心配をしてみたが、そんな間もなく、穴に落ちるように眠ってしまった。



風の草原/知床半島

TF005.jpg翌朝、断崖の向こうに見える外海は凪いでいた。入江には、低い霧雲がたち込め、体にまとわりつくような冷気が沈殿している。小便をしようと岩陰に入ると、ハマナスが咲いていた。こいつを見た人間はぼくで何人目だろう。岬の端を丸く刳りぬいたモイレウシは、まるで巨人が使うタライの底のようだ。
 朝食用の魚を釣りに川へ入ると、尺物のオショロコマがほいほい釣れた。型がいいのを二匹選んで、後は逃がした。
テントに戻ると、クニがゆだったお湯に魚を放り込んでいた。味付けは、醤油を少し滴らすだけ。うまいからやってみろというので真似てみる。生きたまま、コッフェルに魚を入れると、あっという間に白くなって硬くなった。プリッとしまった身にかぶりつくと、骨から甘い出汁が出てうまい。しかし、さばいていなかった腹から、なにか黒いのもが見えている。よく見ると大きな甲虫で、慌てて吐き出した。
昼前に出発。透明度の高い海水の上をゆっくりと漕ぐ。すると、舟は驚くほど速く進みだした。時化のときとは大違いだ。
 湾を出ると、海上に浮かんだウミネコのコロニーが現れた。断崖から少し離れたところにある平べったい島で、外敵から守られた鳥の園だ。ぼくらが近づくと、ウミネコたちは周りの空気をふわりと抱えて舞い上がり、あの潮の香りを思わせる甲高い声で鳴く。その光景は、昨日出てきた相泊の田舎町とはあまりにもかけ離れていて、壮観で野性的だった。本当にここは日本なのか?
 ぼくらは、海流に逆らって舟を漕いでいるらしかった。漕ぐのをやめると、舟は後ろに押し流される。それでも、ふたりで漕げば、景色はゆっくりとひらけていった。あっという間にペキンノ鼻を越えて男滝、女滝にさしかかった。
 知床の滝や川には河口がないものが多い。これは、川が水量の少ない渓流のまま海に出ているため、流れが海岸のゴロタ石の下へ潜ってしまうのだ。男滝、女滝も滝壺で水が消えていた。
 「知床の滝はしょぼいなあ」
 あっけらかんと、クニがいった。
角を突き出したような形のカブト岩を越えると岬も近い。断崖の上を隠してしまうほど低く垂れこめていた霧雲も、風にのって岬の方へ流れはじめた。空の一ヶ所が割れて日が差し込み、海面が光る。見上げると、半島の峰が青空の下に顔を出ていた。みずみずしい蒼い森の下で、番屋から出た漁師たちが動き回っている。日の光が陰気な空気を蒸発させ、すがすがしさだけが残った。
 岬に近づくにつれ海岸線を岩礁が取り巻き、水深を浅くしていく。潮の時間を誤ると、喫水の低いカヤックでも通れなくなるところもあるらしい。かといって、岬沖の潮は流れが速く、最大四・八ノット(時速九キロ)もあるという。そんな潮につかまったら、どこへ流されるかわからない。だから、浅くても安全な岩礁の中を漕ぐことにした。適当な岩礁の切れ目から内海に入る。岩礁は迷路のように入り組んでいたが、その眺めを楽しみながら漕いでいるうちに岬が見えてきた。
 岩礁を抜け、奇岩のつづく岬を漕ぎ、半島の先端部にある小さな桟橋に舟をつける。どういうわけか桟橋の周りには淡水の藻が生えていた。クニはなにか荷物をいじっていたが、ぼくは取るものも取り敢えず、岬への急な階段を駆け登った。
 息を切らせて階段を登りきった途端、思わずよろめいてしまいそうな強い風が体に吹きつけた。そして、細めたぼくの目に飛び込んできたのは、広大な草原だった!
 膝下くらいの背丈しかない千島笹が太陽の光を鈍く跳ね返し、巨大なスタジアムが二つ三つ入ってしまいそうな台地全体がワサワサと踊っている。その緩やかな斜面が白い灯台まで駆け上がり、原生林が覆い尽くす半島の山々につながっていた。半島の中心を貫いた峰々を境に、いま漕いできた太平洋側は灰色の雲に覆われていたが、それとは対照的に、オホーツク海は雲ひとつなく晴れ渡っている。振りむくと、太平洋にかかっていた雲が物凄い勢いで沖へ吹き飛ばされ、青空に消えいった。ここは、なにかが生まれ、なにかが消えていく場所なんだ。そう思えた。
 ぼくは、草原にのびる一本の獣道を見つけ、走り出した。
 笹の葉が脛にあたってシャワシャワと音をたてる。耳を切ってなる風音。視線にとめどなく湧いてくる緑。なんて開放感なんだろう。このままどこかへ飛んでいきそうだ。しかし、その獣道は断崖の上で、突然、終わっていた。足元には、コバルトブルーの海が空の境目まで広がっている。きれいって言葉はこのためにあるんだ。
 ここから海を見ていると、北海道は島だといまさらに思う。この先にあるのは千島の島々だ。昔、アイヌのひとたちはこの島々をカヌーで自由に行き来していた。ある説によると遥かアラスカまでいっていたという。想像を越えた力強さとしたたかさ。
桟橋に戻ると、カヌーではなく観光船のクルーザーが二隻停まっていた。オレンジ色の救命胴衣を着た観光客がぞろぞろと降りて来る。クニが二人の船長と話をしていた。彼らに、ウトロから岬まで来るのに何時間かかるか聞いてみると、一時間半だといった。カヤックでは二日はかかるだろう。
 この船長というよりは漁師のおやじさんといった方が似合う男は、話をしながら食べていた握りメシがなくなると、おもむろに岩の下を掘り出した。すると、砂利の下から水が湧いてきた。海岸から一〇メートルも離れていないところからだ。手ですくって飲んでみるとうまい!地下水が直接海に染み出ているので、エキノコックスも心配ないという。道理で桟橋の辺りに淡水の藻が生えていたわけだ。船長は「ウトロに着いたらおれの船と同じ名前の店に寄りな。メシでも食っていけばいい」といい残して出ていった。
ぼくらは、桟橋の上でボンカレーをつくり、パンを漬して食べた。水筒の水を知床名水に入れ替えて出発した。
とうとうオホーツク海だ。雲ひとつない快晴。穏やかな海を漕ぐ。岬と違って風もないので、急に暑くなった。着ていたカッパとフリースを脱ぐ。日が出たせいかもしれないが、オホーツクに入って急に海の中がよく見えるようになった。透明度は、二〇メートル以上あるだろう。そして、海底には昆布の森が広がっていた。隙間もなくびっしりと密集して生える天然の昆布は養殖ものより細く見える。その長い体を海流にまかせてぬらりくらりとくねらせ、海底の凹凸に沿って激しく上下し、ときにはカヤックの底を撫でるくらい浅いところまで浮いて来る。まるで山脈の上を飛んでいるようだ。海上の気温が高いからか、半島はうっすらとかかった靄の中へ稜線を消している。万歳したくなるような眺めだ。クニがいった。
「こうなんなくっちゃあ来た意味がない。悪天候のまま帰るようだったら無茶印象悪くなるで。二度と来ぃへんわ」
同感!
海のやさしいうねり。海面に映る半島。光と影の山脈。抜ける空。すべてがゆりかごの上で揺れている。羅臼側とは大分印象が違う。ぼくたちは、真新しい光景にいちいち驚きながら舟を漕いだ。そして、水中には妙な生物が目につくようになった。よく見ると、体長三センチから一五センチくらいの楕円形のクラゲで、トコロテンのような半透明の体を縦に伸びている幾つかの線が時々キラキラと光を放っている。舟のスピードをゆるめてクニがクラゲを拾い上げた。すると奴は体をキュッと硬くして白くなり、皮を剥いたナタデココのようになった。光っていた線は消えていた。大学で海洋学部にいたクニもこのクラゲの名前は知らなかった。学会に発表して発見者の名前をとり、シレトコクニクラゲとかつけてしまえないだろうか。しかし、これだけの数がいるのだから、名前がついていないわけはないか…。
午後四時、アウンモイ川が流れ込んでいる入江に上がった。凸凹の石ばかり転がる海岸を適当にならしてテントを張る。クニが米を研ぎ、ぼくは川におかずのオショロコマを釣りにいくことにした。しかし、アウンモイ川は水量が少なく、勾配が急なため、せいぜい一メートルくらいの幅で階段状に海へ落ちていた。こんなところに魚がいるのだろうか。そう思いながら、バケツくらいの落ち込みに毛鉤を落とす。すると、その水溜りから二〇センチのオショロコマが飛び出した。それから、立て続けに三匹釣った。こりゃ、まるで手品だ。夕食にはこれで十分だったが、すっかり興奮してしまい、調子づいたぼくは大きな岩を上へ上へとよじ登っていった。そして、なんでもないところで足を滑らせ、フライ・ボックスを落としてしまった。箱は落ちた衝撃でふたが開き、中の毛鉤が藪の中に飛び散った。藪の中だ。ここから探し出すなんて、それこそ手品だ。欲張りは禁物。
三匹の魚を持ち帰り、米と一緒に炊いてオショロご飯をつくる。魚の出汁が出て、なかなかうまい。しかし、クニが五合も炊いて、大分余ってしまった。残りの米もあと五合。
 羅臼で食料の買い出しをしたとき、クニは「おれ、そんな食わへんで」といって、ぼくが篭にいれたものを元に戻していた。しかし、いざ出てみると四六時中「腹減った」といって何か食べている。「まったく、なんて奴だ」そういうと、クニはモグモグと口ごもった。こんなことでウトロまで食料がもつのだろうか。少し不安になって来た。
午後七時過ぎ、体の中まで染まってしまいそうなほど赤く透き通った夕日がオホーツク海に沈んだ。拝観者ふたりの日没。その相手が男というのが悲しいが、これはやはり贅沢の極みだ。そして、頭の上は夜空ではなく宇宙が丸見えになった。久しぶりに見る満点の星。酒を飲みながら焚火の横で寝転がる。クマ除けにつけたラジオからはロシア語のDJが聞こえる。星座なんてオリオンと北斗七星くらいしか知らない。でも、そんなことは必要ない。ただ、広い宇宙を見ていれば十分気持ちいいんだ。流れ星が走り、人工衛星が横切る。満ち足りていた。そして酔っ払っていた。



クマ出没!

TF006.jpg ガリ。ゴロ。ガリ。
…?
朝五時まえ、石を引っ掻きまわす音で、ぼくのエッチな夢は中断された。テントの布を隔てて頭ごしに何かいる。荒い鼻息。
クニを寝袋ごと蹴飛ばした。
「クマだ!クマ!」
クニは、寝ぼけながらもあたふたと慌てだした。
 カラン。カラン。
 このときのために買っておいたカウベルを鳴らす。ハイジが駆け出しそうななんとも頼りない音だ。それでも、しばらく鳴らしていると足音は消えた。恐る恐る外を覗くとヒグマのケツが海岸を歩いていた。ぼくは外に飛び出し、なにかに憑かれたようにカメラのシャッターを押しまくった。クマは怒りも恐がりもせず、悠々と向こうへ歩いていく。自分の庭のように。ぼくたちは、顔を見合わせていった。
 「つ、ついに出た…」
 北海道にいる八割のヒグマがわずか一〇万ヘクタールの知床半島にいるというのだから遭っても不思議なことじゃない。しかし、やはりクマには王者の貫禄があり、圧倒された。
すっかり興奮してしまったぼくは、眠り直す気にもなれず、お茶を沸かしながら、この大事件を日記につけた。しかし、クニはまたテントに入ってグーグーと寝息をたてはじめた。大した度胸だ。
日が高くなり、きびきびと動くクニにつられ、ぼくにしては早い午前九時に出発。これから、知床でも「クマの巣」といわれているルシャの谷にさしかかる。そんなところで夜を越すのは気がすすまないので、今日中にルシャを越えて、二〇キロむこうのウンメーン岩までいくことにした。
海は、今日も快晴。ぼくとクニの息も合ってきたのか、潮の流れも気にならないくらい快調に舟が進む。オホーツク側は定置網が多く、どこからともなく観光船のアナウンスも聞こえてくる。岬の先端を覆うように岩が立ちはだかっているカパルワタラを廻りこむとカシュニの滝に出た。この滝は知床で唯一海へ直接落ちる滝として有名らしいが、実際に見ると大した落差も水量もなくがっかりしてしまった。それよりも、そこから見えるルシャの谷と硫黄山の方が雄大で見応えがある。頂の周囲を崩壊させている硫黄山周辺の沢は、どこも硫黄分を含んでいるので飲料水にはならない。当然、魚もいない。だから、クニとぼくは手前のルシャで夕食用の魚を釣っていくことにした。
そして、昼過ぎ。知床でも唯一大きく開けた谷、ルシャが見えてきた。
 ルシャ川の河口に舟を着ける。谷は、山からの風で海へとなびいていた。ここはルシャ川、テッパンベツ川の二本の川が流れているため、かなり谷が開けている。だからクマも降りてきやすいのかもしれない。川も他の細い渓流とは違い、一〇メートル近い幅がある。そうなると、大物への期待が高まる。昼食に簡単なラーメンを食べてからルシャ川を遡行しはじめた。クマのことも頭にあったが、大きな鱒のイメージが恐怖心をも追いやってしまう。釣りに興味のない人は、なんてバカなやつだと思うだろう。しかし、どうしようもないのだ。ぼくはフライ。クニはのべ竿に毛鉤をつけた。
あめ色をした河口近くの深い淵に白い毛鉤を投げると、突然ものすごい引きが竿をしぼった。と、次の瞬間、糸が切れた。早過ぎて影も見えなかった。
 こりゃ、いるぞ。
 胸の鼓動は速くなる一方で、手が震えだす。
 それからは、一投に一匹鱒が釣れるという恐ろしいほど快楽的な仕事になった。二〇センチのものに混ざって尺オーバーがかかる。クニも細い早瀬でホイホイと釣っている。あまりに簡単に釣れるので二〇センチ以下の鱒は逃がすことにした。
 基準をクリアーした二匹を木枝に通し、河原に置いて更なる大物を狙っていると、後ろで「アー、アー」と鳴き声がした。振り返ると、カラスがぼくの鱒を枝ごと咥えて飛び上がるところだった。慌てて追いかけるが、相手は空中遊泳が得意ときている。かなうわけがない。カラスは嘴を固く閉じたまま「オァー、オァー」と鳴いてぼくをバカにした。クソ!
 その後、三匹通した奴をまたやられた。あんな重いのをよく咥えて飛べるもんだ。クニを見ると、ちゃんと魚の上に石を積んでカラスの攻撃を防いでいた。知能指数の違いがここに出る。こんなふうにして、原始人にも貧富の差ができていったのかもしれない。有能原始人のクニは、一〇匹ほど釣り上げるとさっさと舟の方へ戻っていた。結局、下等原始人は尺オーバーを一匹だけにした。一一匹あれば十分だよ!
藪に囲まれた川を河口へと戻る。折り重なる岩を越えて海岸に出ると、クニが一点を見つめて硬直していた。極度に緊張している。そして、ぼくに気付くと、遠巻きに来るように目配せした。
 なんで、しゃべらないんだ?
 そう思ってクニの視線を追うと、二〇メートルも離れていない草むらに大きなヒグマがいた!子クマを二頭連れている。親は、今朝見た奴より明らかに大きい。ぼくは、大きく迂回してクニのところへ戻った。親子は、こっちを見ようともせず、岩をおこして餌を探している。それでも丸い耳だけはピンと立てていた。やはり警戒しているのだ。大きい顔の割には小さな目をしていてちょっとかわいい気もするが、つややかに光る栗色の肩や足の筋肉は、まさに森の王者の貫禄がにじみ出ている。子供は、海岸に打ち上げられた漂着物をころがして遊んでいた。こんな距離で走ってこられたら、舟に乗る間もなくガブリとやられてしまうだろう。
 クニが、釣った魚を岩の上でさばいていると、一〇メートルも離れていないところで、こっちを見て座っていたという。想像しただけで、ケツの穴がむずがゆくなってきた。クニとぼくは、身をかがめたまま舟に乗って、そっと岸を離れた。威圧的ではないが、圧倒的な存在感だった。
 それから、一キロも離れていないところで別のクマを見た。ルシャが「クマの巣」といわれるのはデマじゃない。
谷を過ぎると断崖が再び海岸まで迫ってくる。硫黄山に水源を持つウブシノッタ川は、河口部の岩が硫黄で黄色くなっていた。ここから先の沢水は飲めない。
 切れ目なく続く断崖の中に、ひとつ目にとまる岩山があった。森の中から垂直に岩壁を伸ばし、てっぺんはリンゴを半分に切ったように丸くなっている。ぼくは、この山をどこかで見た覚えがあった。そうだ。ハーフ・ドームだ。規模こそケタ違いに小さいが、形はまさにヨセミテのハーフ・ドーム。今日は、このハーフ・ドームの下で夜を越すことにした。
相変わらず石ばかりの海岸で、なるべく平らなところを探してテントを張ると、強い陽射しを受けて熱が溜まった体を冷やしに海へ飛び込んだ。しかし、次の瞬間には悲鳴を上げて岸に飛びあがる。玉が上がってしまうほど水が冷たいのだ。やはり、北の海は裸で泳ぐにはむいてないらしい。それでも、疲れは一瞬に吹っ飛んでしまった。
近くの沢で体を洗い、塩を落とした後、火をおこして、そこら辺に打ち上げられていた昆布と小さめのオショロコマをご飯と炊いて知床丼をつくる。残りの魚は塩焼きにした。その土地でとれた物を料理して食べるというのは、もちろん新鮮でうまいし、その土地が体に溶け込んでいくようでうれしくなる。
午後七時過ぎ、地球を満たした水の向こうに太陽が沈んだ。暗くなり始めたころ、クニとぼくは酒を飲みながら焚火の前でクマの話をしていた。ここは、ルシャの谷から離れているといっても、なんの隔壁もない地続きの海岸線だ。クニは「絶対ここも出るで」といった。その時だった。急に会話が途切れ、クニの視線がぼくの横に張りついて動かなくなった。
 「出た!」
 息を呑みながら、クニがいった。まったく、悪い冗談だ。こんな話題の最中に出るなんて話が出来過ぎている。
 「なにいってんだよ」
 「ほら!」
 それでも、クニはロウ人形のように動かない。ぼくも段々不安になってきて、恐る恐る振り返った。すると、目の前にクマが座って、ぼくをじっと見詰めていた。五メートルも放れていない。小さな目が焚火のあかりで白く光っている。ぼくは、咄嗟にカウ・ベルを鳴らし、クニは爆竹を手にした。
 すると、クマはスタコラと逃げだした。また、その速さに驚く。決して走っているわけでもないのに、あっという間に一キロ先のガレ場までいってしまった。あんなのに追いかけられたら、逃げるなんて不可能だ。いる。いる。ここにもいる!
 知床に来るまでは、こうなることを望んでさえいた。しかし、もう十分だ。
その夜は、テントの周りで絶えず動物の気配がした。クマだと思うとクニはテントの中から爆竹を投げた。ラジオのボリュームを上げて寝る。しかし、闇が不安をつくりだすことなんて朝飯前だ。
次の朝、クニが起きて来ると「昨日は恐くて寝れへんかった」とぼやいた。ぼくは、クマの存在になれてしまったのか、熟睡していた。どっちが安全かは疑問だ。
 午前九時、早めに出発。今日は、知床一周最後の行程だ。それにしても、漕ぎ出して体が馴染むまでの数時間はいつもだるい。川は流れがあるので漕がなくても進むが、当然、海は漕がなければ進まない。しかも、ここでは潮の流れに逆らっているので、怠ければ、押しもどされさえする。今日は曇っていて、それほど暑くないので幾分漕ぎやすいが、やはり晴れ上がっているほうが気分がいい。
ウンメーン岩を過ぎると岩尾別まで断崖が垂直に海へと落ちていて、数本の河口を除いて上陸できる場所がない。壁のいたるところから地下水が染み出て黒い筋をつくり、海面に近い部分はあちこちに波の浸食で出来た洞窟が口を覗かしている。垂直の長い壁は独特だが単調で、見ていて味気ない。羅臼側や岬の変化に富んだ海岸線のほうがよっぽど見応えある。大型遊覧船が、これを見にひっきりなしにやってきた。安っぽい音楽が流れ、学生やカップル、老夫婦がたくさん乗っている。彼らは、ぼくたちを見つけるとちらほらと手を振った。クニは、大きくにこやかに手を振っている。そのうれしそうな顔がやけに無邪気で笑えた。
 小さな岬をいくつか越えるとカムイワッカの滝が見えて来た。ここも硫黄分が多いので、滝壺が黄色く染まっている。知床の滝にしては幅もあり、見栄えもいい。よく見ると滝壺の横に朽ちかけた無数の杭が立ち並んでいた。なにかの櫓のようだ。これは、あとでウトロの漁師に聞いたのだが、ベトナム戦争のころまで火薬の成分である硫黄の採取場だったそうだ。当時のお金で一日七〇万円も稼いでいたというのだから驚きだ。しかし、いまは誰に見向きもされず朽ち果てるだけだ。この世に永遠なものなんてない…。
鮭の孵化所がある岩尾別まで来ると、谷の向こうに羅臼岳が見えた。これで、羅臼の反対側まで来たことになる。ウミネコのコロニーがある象の鼻を越え、ブユニ岬をまわりこむと、とうとうウトロの町が見えて来た。白い壁のホテル。コンクリートに囲まれた港。車のエンジン音。ここからは、再び人間が幅を利かす土地になる。そうでない場所を求めてここまで来たのに、心なしかパドルを漕ぐ手も速くなる。やはり、ぼくはこっちの人間なのか。それとも、疲れているだけのなか。気になることがあるからなのか。とにかく、港の入口を目指して一直線に漕ぐ。グングン近づいて来る港を前に、「ビールが飲みてえ!」と叫んだ。すると、クニが「牛乳が飲みたい」といった。牛乳? まったく面白い!
昼過ぎ、魚の匂いが充満したウトロ港に入り、市場の横にあるコンクリートのスロープに舟を乗りあげた。
 出来てしまった。
 それが正直な感想だ。浅いシーカヤック歴。相泊を出発したときの時化。不可能とは思っていなかったが、かなりの不安はあった。それでも、なんとかできたのはクニがいてくれたからだろう。知床は「日本に残された辺境の地」とよくいわれるが、海岸線にはかなりの数の番屋があったし、そこに詰めている漁師もたくさんいた。決してマスコミが騒ぐような秘境というわけではない。しかし、常にどこかで人間以外の生命の気配、匂いを感じた。豊かな自然が溢れかえっていた。人間が多数ではなく少数として存在できるという意味では、日本でも数少ない貴重な土地だ。そこには、自分が頂点と思っている傲慢な人間としてではなく、ひとつの生き物として満喫できる誇張のない自由がある。また、いつか来たい場所だ。
 港のすぐ横に、岬で会った船と同じ名前の土産物屋を見つけ、覗いてみると裏が一泊五〇〇円のライダーズハウスになっていた。今日は、ここに泊まることにする。そこのオーナーがレストランをしていて、閉店後、あまった食材を食い放題にしてライダーズハウスの宿泊者に開放していた。船長とも再会できたので、今夜はただ飯にありつけると思ったら勘定は自分もちだといわれた。クニと誉めごろしにしても三〇〇円しかまけてくれなかった。悔しかったが、料理は、鮭、イクラ、貝などの海産物がいっぱいで申し分なくうまかった。
 そして、夜。ぼくは、通りにある公衆電話にむかう。ゆっくり。ゆっくり。番号を押す指先には、自分の脈が伝わってくる。番号は、親父の家だ。
 出たのは、叔母だった。
「婆ちゃんは?」
「もう死んだわよ」
叔母の声は冷ややかで、ぼくを責めているようでたまらなかった。当然だろう。
 婆ちゃんはこの前の日曜日に死んでいた。ぼくが電話した次の日だ。明日、みんな、葬式のために実家のある福井へ戻るという。「死」という事実は、予測していたのに、いとも簡単にぼくのこころをわしづかみにして抜き去ってしまった。電話に代わった親父が葬式の日程を話している間、ぼくは、何もいえずにただ聞いているだけだった。
 もう、会えない。
 そう分かっていても、田舎の一本道でぼくを見送る小さな婆ちゃんの姿が、事実をどこか不完全なものに変えてしまう。
 これは本当なのか?
 仕方がないことなのか?
 受話器を置き、電話ボックスを出る。
 暗がりの道を引きずるかかとの音が、やりきれないほど虚しく鳴った。



都会人が田舎に住む方法/池田町

TF010.jpg 翌朝、ぼくはバスで斜里に出て、そこから電車で友人の親戚がいる池田へ向かうことにした。仕事があるクニとはここで別れる。今回、クニの助けがなかったら知床一周は実現しなかったろう。時化た海を漕ぎ抜いたのも、ふたりだからできたような気がする。ほんとうにありがとう。家に戻ったら知床の話を肴に一杯やろうと約束して、斜里行のバスは日溜りのバス・ターミナルをゆっくりと走り出した。手を振るクニの姿が街の中に消える。前を向くと、晴れ上がったオホーツクの海岸線が遠くまで続いていた。
 さっき買ったばかりの切符を見詰める。
 一四九〇円は高いな。
 そう思いながら、ぼくは次の場所へ向かう感触をその数字で読み取った。
三つ前の座席に旅行者らしい女の子が乗っていた。ツバの浅い帽子を被って、小さなデイパックを背負い、肩から一眼レフのカメラをぶら下げている。彼女は風景を撮っているらしく、目は白い花を咲かせた芋畑のむこうにある斜里岳を見詰めていた。そして、ピンと頭をあげたかと思うと次の停留所でバスを降りていった。彼女の心に響くものがあったのだ。降りないではいられないなにかを感じた。
 そうせずにはいられない何か。
 そんな思いが彼女をここまで連れてきたんだ。
 ぼくは?
 ここに来ずにはいられなかったのか?
 それは違う。今年、ぼくは北米をベーリング海に流れるユーコン川を下るつもりだった。なぜやめたのか。それには掴みどころのない理由があった。
腹の虫ってやつだ。去年、カナダを旅して帰ってきたぼくは、ユーコンへ行く金をつくるためにだだっ広いプラスチック工場で日中夜働いた。しかし、金もできて、あとは航空券を買えば出発できるというときになっても、何かが心の中に引っかかっていた。はじめ、それが何か見当もつかなかったが、ある日、電撃的にぼくの頭にある思いが降り落ちた。
行けば死ぬ。
交通事故。クマに襲われる。どうしてか分からないが、いま、ユーコンにいけば生きて帰れない気がした。その予感は、意味もなく不安を募らせ、確信じみたものへと変わっていく。それでも、しばらくの間、ユーコン行を諦めきれずにいた。
 しかし、あるとき思った。こんな曖昧な気持ちのままユーコンへいっても楽しめないんじゃないか。そう考えてみると「今年いけなくても、またチャンスはあるさ」とも思え、半ば義務化していたユーコンへの思いは急激に薄れていった。そして思いついたのが、日本を縦断しながら川を下り歩く、この旅だった。日本でもまだまだ下ったことのない川は沢山ある。それを下り歩いてみるのもいいんじゃないかと思ったのだ。しかし、これは、しょせん不安から逃げ出して出来た計画だ。根底がネガティブすぎる。
 そうして、死から逃れたはずなのに、婆ちゃんの死がぼくを待ち構えていた。ユーコンにいっていたら知る余地もなかったろう。婆ちゃんはぼくの身代わりに死んだのか?ぼくは、婆ちゃんの死の上にいるような気がしてならなかった。それがなんともやるせない。
 この旅を楽しめるのか。そんなこともわからない。ただ、もうことは始まっていて、ぼくは、めでたくバスに乗っている。この旅はぼくの意志なのか、そうでないのか。そんなこととは関係なしに、これがいまのぼくにできる唯一のものなのは確かだった。息抜きとも情熱とも違う旅という力が、ぼくの中で絶対的に存在している。
 池田に着いたのは、けだるい昼下がりだった。すべての空気が日だまりに淀んでいる。それは、まるで小学生のころの土曜日のようだった。半ドンで下校すると丁度こんな頃合いに家につく。土曜の午後には、平日にはない自由な時間への期待ある。ぼくはこの感覚が好きだ。
苺が植えられた小さな花壇の横を通って勝手口へ向かう。サッシ越しに「こんにちは」と挨拶すると女の子の声が聞こえた。
 「おかあさん。お兄ちゃんが来たよ」
 長女のナオちゃんだ。小学六年の彼女はぼくのことを覚えていてくれたらしい。
 ここに来るのは三年ぶりだった。この家の主人であるカズヒロさんは、ぼくの友人の叔父さんで衣料店を経営している。六年ほど前に、友人とお邪魔して以来、そいつぬきでもお世話になっている。下のハルちゃんとリナちゃんは、ぼくを覚えているかどうかあやふやだったが、好奇心旺盛な彼女たちは一〇分もすれば打ち解けて、みんなぼくの肩や背中に飛びついていた。
 子どもたちが大きくなったほかは初めて来たときと何も変わっていなかった。早速、奥さんに「お婆さん亡くなったの?」と聞かれた。ぼくを探してお袋が連絡したらしい。葬式にいかなかったというと「卑怯者」と毒つかれた。しかし、嫌味には聞こえない。これも人柄だろう。
その夜、カズヒロさんと奥さんの三人で酒を飲んだ。
 ふたりと話をしていて、町の行事や予算といった地域行政のことをよく知っているのに驚く。こんどの何々の予算はいくらとか具体的な数字が出てくる。個人商店をしているということもあるからだろうが、東京では無関心になりがちなことだ。
 かなり酒がまわってきたカズヒロさんは、いろいろとうっ憤が溜まっているらしく、都会から地方に住み着く人について話しはじめた。
「都会から来ている人は『自分は都会から来たんだ』と肩で風を切って歩くひとが多い。そこで、俺はいいたい。あんたが都会でどう大変だったかは知らない。向こうでいろんな理由があるとは思うが、結局、あんたらは都会に負けてきたんだってね。それなのに『俺はお前らとは違う』っていう顔をされてもこっちは相手にできないね。この間も他所からきた高校の教師が生徒をそそのかして制服制度のある学校を私服化しようとした。ここでは服ひとつをとっても物と金が動く大事なものなんだ。俺たちは隣の町じゃ半値で買える代物もあえて池田で買うその代わり、その人がうちの物を買ってくれるだろうという暗黙の決まりがある。こういう小さな町ではそうしてかないと金は回っていかない。だから、その教師には出てってもらった。それを高い安いだけで他所のものと代えてしまうような都会のやり方ではここではやってけないんだよ」
田舎の生活では、昔ながらの共同体という意識が強く残っている。自分ひとりがよければそれでいいというやり方では溶け込めない。郷に入っては郷に従え。ぼくも、将来、自分の手で田舎に家を建てるのが夢だが、人間関係は気になっていた。ぼくのような通りすがりの旅人なら、ある程度無条件に歓迎されるが、住むとなると都会のような隣の人の名前も知らないという感覚では、はじき出されてしまうだろう。ぼくも、好きにやればいいじゃないかと思っていた部分がある。それじゃ、駄目なんだな。そう思った。
深夜をまわるとカズヒロさんはぼくをスナックへ連れ出した。店に入ると、客はぼくたちだけで、カズヒロさんがキープしていたジャックのボトルをマスターとママの四人で空にすることにした。ぼくは釣り好きのマスターとすっかり気が合い、根無し草のような自分の将来への不安をいつのまにか溢していた。ゆきずりのひととこんなことを話せるのは気楽でもあり、どこかこころが安らいだ。看板の時間になって、家に戻ると午前二時をまわっていた。
次の日、飲んだ割には頭が冴えている。ありがたいことに、カズヒロさんと子供たちが次の目的地である歴舟川まで車で送ってくれることになった。
 まず、自宅から送っておいた一人用のカヤックを広尾の運送会社へ取りにいき、歴舟川の上流にあるカムイコタン・キャンプ場で降ろしてもらった。これを本数の少ない電車やバスの公共機関を使っていたら一日では終わらなかっただろう。本当に助かった。カズヒロさんと子供たちは、しばらく水辺で遊んだ後、池田に帰っていった。
 いつも世話になってばかりだな、と思いながら土手を登る車が見えなくなるまで手を振った。



逃した河原は大きい/歴舟川

TF011.jpg 三連休の初日ということもあり、キャンプ場はファミリーキャンパーでいっぱいだった。キャンプ場で、道内のキャンパーを見分けるのは簡単だ。大体がワンボックスか4WDでやってきてコールマンなどの大型テントを張り、ビッグタープやテーブル、ツーバーナーを広げている。それに混ざって内地から来たソロのバックパッカーやライダーがいるのが北海道の典型的な夏のキャンプ風景だ。
キャンプサイトはひどい混みようで、テント同士の間隔が一メートルもない。しかたないので、ゴロ太石ばかりの河原にテントを張る。目の前の淵に群がるニワカ釣師に混ざって竿を出すがボーズ。夜になると、あちこちで花火がはじけ、笑い声やわめき声が絶えなかった。
 それにしても、森の中にひとりでいても寂しいとは思わないのに、これだけの人が周りにいて自分ひとりだと妙に孤独を感じる。早くここを出よう。そう思いながら街灯の白々しい明かりが染み込んだテントの中で眠りに落ちた。
死ぬな!
翌日、そんな声で目が覚めた。空耳か?今ごろ、親父たちは福井の実家へ帰っていることだろう。
空には、北国特有の高く澄んだ青色が広がっている。出発にはおあつらえむきだ。目の前で水晶色に揺らめく川床を見ているといても立ってもいられず、ラーメンで簡単な朝食を済ませ、早々にカヤックを組み立てはじめた。この舟も、もう七年使っている。いたるところが傷んで、どこからともなく水がしみてくる。お粗末な舟だが、その分、愛着もある。そいつを川に浮かべてバックを押し込むと、ゆらゆらと舟が揺れた。すると、ぼくの頭の中に水の波長が流れ込み、溢れかえって、気持ちが破裂しそうになる。うううう。川が呼んでるぞ。
 ほとんどの荷物を積みおわったころ、帯広から来たという老夫婦が話しかけてきた。この旅の計画を話すと白い帽子を被った小柄の奥さんは「ロマンねえ」とうっとりしていった。
三年勤めた会社を辞めるとき、お袋は大泣きしたっけ。おばさん、こんな息子を持つと泣きますよ。
岸辺の石をパドルで突き、ゆっくりと漕ぎ出す。流れの芯にのった舟は、ふわふわと快適に走り出した。手を振っていた老夫婦も、やがて木立に飲み込まれて見えなくなった。
歴舟川は環境庁が発表している水質調査で、何度か日本一の清流になったことのある川だ。源流は日高山脈に湧いているが、たいした長さはない。キャンプ場のある尾田から河口まではわずか二五キロだ。のんびりいこう。
 河畔一帯は雑木林に覆われていて、外界から隔離されていた。川は玉砂利の上を爽快に走り、ゴルジュの壁に当たっては深い淵をつくっている。川床の凹凸を蹴って跳ね上がる流れが水中の景色をモコモコと歪ませて、水面が太陽の光で乱反射する。こうなると文句のつけようがなく、気持ちがいいあまりの開放感に油断して、スプレースカート(舟の中へ水が入いるのを防ぐカバー)もしないで瀬に突っ込み、水浸しになってしまった。しかし、それも気持ちがいい。どんどん気が大きくなっていく。
 この川はおれのもんだー!
 こんなときはビールがつき物だが、カズヒロさんに送ってもらい、気を使っていたので、すっかり買うのを忘れていた。なんたる失態…。
階段状の瀬で鱒を狙ってルアーを投げていると、カナディアンとインフレータブル(ゴム製カヌー)が下ってきて、ぼくに話しかけてきた。彼らは札幌から来たらしく、歴舟を下るのはもう三回目だという。知床のクマの話をすると真っ黒に日焼けした男がいった。
「ここ数年クマがよく出るんだよね。札幌でも番地がついてるような所で出るんだ。去年なんて札幌教育委員会がクマ注意報を出したくらいなんだ。この辺でも安心はできないぞ」
チリリリン
男は、ウエストバックから鈴を出して鳴らしてみせた。
 知床を出たぼくは、クマに関しては「もう出ないだろ」と高を括っていた。しかし、そうもいかないようだ。
 いくつかの淵でルアーを投げたがあたりもない。やはり知床で釣れたのはぼくの腕がよかったのではなく、単に魚の数が多かっただけのようだ。
川は、ゴルジュと河畔林に囲まれた素晴らしい景色がつづいた。キャンプにいい河原もいくつかあった。ぼくにとってキャンプにいい河原とは、平らで広く、流木が沢山あること。そして、一番の条件は人工物がないことだ。何度もそんな河原を目にして上がったりもしたのだが、結局、ぼくは川を下り続けた。その理由はひとつ。ビール!欲は人間を動かすのだ。
ぼくはビールが飲みたい一心で歴舟川沿岸にある唯一の町大樹町を目指した。しかし、町に近づくにつれ川床は浅くなり、瀬はザラ瀬で舟の底を擦るようになった。
 ぼくのカヤックは国産のもので、ボトムの船体布が異常に弱く、岩にあたると簡単に穴が開いてしまう。知床で使ったカナダ製のものと比べると月とスッポンだ。どうして、こう日本のカヤックはもろいものばかりなのだろうか。常に「大丈夫か?」という言葉が頭から離れない。諸手を上げて遊びに熱中させてくれないのだ。
 景観も幾分ひらけ、緩慢なものになっていった。上流で見た極上のキャンプサイトに劣らない河原を探すが、なかなか出てこない。こうなると、もう手遅れだ。逃がした魚は大きいもので、全てが最初の河原より劣って見える。あの河原でとまっておけばよかった…。と後悔しても、もう遅い。
昼過ぎ、大樹町にかかる橋に着いた。
飛沫を浴びてびしょびしょに濡れたまま、橋の近くにあるコンビニへいき、五〇〇ミリ缶のビールを三本買った。これさえあれば町に用はない。
橋をくぐると、水流で複雑にえぐられた一枚岩の川床が数百メートル続いていた。滑りやすく、二、三メートルごとに落とし穴大の窪みがある。水量が少ないので、舟を押して歩くことにした。すると、思ったより流れが速く、つまずいて舟から手を放してしまった。慌てて駆けだし、水と窪みに足をとられながらカヤックに飛びついた。ずぶ濡れだ。だれもいないのに、みっともなくて恥ずかしい。なるべく冷静を装ってカヤックに乗った。
 すると、今度は枝別れしている水流を読み違えて、流れがどんどん細くなっていった先に大きな落ち込みが現れた。今度は舟から飛び降り、またびしょ濡れになる。
 結局、上流で見たような河原は見当たらなかった。妥協して、適当なところでテントを張った。下は平らな砂地で、すぐ横に大きな倒木があり、流木がたくさん引っかかっていた。これで薪の心配はいらない。しかし、何故、あのときあの河原に上がらなかったのかと悔しくて仕方がない。
火をおこし、夕食の準備をしていると、二艇のカナディアンが下っていった。すぐ下の歴舟橋で上がるのだろう。彼らは、満ち足りた気分で家へ帰り、暖かい夕ご飯を食べるのだろう。ぼくは、レトルトのカレーとビール二本。自由はあったが、気持ちはどこかささくれ立っていた。何故だ。
 日高の山並みに太陽が沈んで、辺りは夏独特の赤い闇がうろつき、ベージュ色の露が降りてくる。ただ、川の音だけがぼくの前にあった。優しい眺めと焚火の火が、弱り気味の気持ちをホッとさせる。ビールが眠気を誘った。いい夜だった。
翌朝、川は一面に濃い霧で覆われていた。昨日の暑さとは打って変わって肌寒い。青く輝いていた川も霧の色を映して鼠色だ。火をおこし、ラジオ体操を聞きながらパンを口につぎ込んで出発。
川は、相変わらず分流して網目状に流れていた。何度となく浅い流れに入ってしまい、舟をひいて川を歩く。爽快だった昨日と同じ川なのに、全ての景色が沈んで見える。天候が悪いと川の魅力も半減してしまう。
二時間ほど下ると右岸に沿って続いていた河畔林の黒い影が途切れた。そして、川の音に混ざって等間隔に崩れる波の音が聞こえだした。河口だ。
川は、海に出る直前で胃袋のようにふくらんで池のようになっていた。そして、高く盛り上がった砂浜の間から、激しく轟く白波の中へ滑り込んでいく。唐突な終わり。突然の始まり。海は時化ていた。
高く盛り上がった河口の砂浜に立っていた五〇歳くらいの男が、ぼくに話しかけてきた。
 「魚は見たかい?」
 「一匹も」
 そう答えると、おじさんは口の端で笑った。サクラマスを狙っているという。しかし、もう七月の中旬だ。
「この辺りは道内でも遅くまでサクラが上がるんだ」
そうと知っていれば、もう少し慎重に下ればよかった。
今日は海を見ながら砂浜でキャンプするつもりだったが、海は大時化だし、おじさんが「大樹まで乗せてってやる」といってくれたので、そうさせてもらうことにした。このチャンスを逃がす手はない。河口には町がなく、交通機関は大樹町まで戻らなければないのだ。
 おじさんは今にも帰りたそうだったので、舟もバックに入れず、バラバラにしたまま車に押し込んだ。海に出て感慨にふける暇もなく河口を後にした。
昨日、ビールを買いに上がった河原にテントを張り、友人に手紙を書いていると三人の地元パドラーが川から上がってきた。一緒にコーヒーを飲む。男たちは、役場の職員、高校の教員、医者だった。医者の男は今日がはじめての川下りだったらしく、疲れてはいるが充実したいい顔をしている。初めての川下りがこんなにきれいな川だとやみつきになってしまうだろう。ベテランらしい役人パドラーがいった。
 「この川はいいでしょ。わざわざ他の川まで行かなくてもここで十分なんですよ」
 うらやましい。



洗濯は郵便局で/士別町

TF015.jpg 翌朝、快晴。
 荷物をまとめて七〇リットルのザックを担ぎ、畳んだ舟をキャリアーで引きずってバス停に向かうとドッと汗が出た。ほんの四〇〇メートルくらいなのに、ヘトヘトだ。よっぽど舟だけ宅急便で送ってしまおうかと思ったが、金は節約しなくちゃならない。これから道北を北に流れる天塩川にむかう。
 午前一〇時の帯広行バスに乗ると、最後部の座席は荷物とぼくでいっぱいになってしまった。客が少なくて助かった。
 帯広でバスを乗り継ぎ旭川へ。この時、ぼくはある失敗に気づいた。北海道の地図を持ってこなかったのだ。川下りに要る地形図はあるのだが、川から川へ移動するのに使う広範囲の地図がない。出発する前は、北海道の地形なんて頭に入っていると思っていた。確かに地名と位置はわかっていたが、距離感がつかめない。ぼくは、北海道のスケールを埼玉県より少し大きいとしか思っていなかった。歴舟から天塩までの移動なんて半日あれば十分だと。しかし、旭川に着くころには、日が暮れてしまった。
 バスを降り、大荷物を抱えて駅へ歩いていると、仕事帰りらしい旭川美人がぼくをチラチラ見ながらすれ違った。
 「あら大変そうね。今夜家に泊まりません?お風呂もお酒もありますよ」
 下を向いて歩いていると黒いアスファルトに妄想が浮かぶ。畜生。こんなクソ重い舟を引きずるくらいなら、女のこを負ぶってた方がよっぽどマシだ。町には目の毒が多い。
 稚内行の列車に飛び乗って、天塩川を下る出発点に決めていた士別へ向かう。
 士別の駅に降りると、小さく寂れた田舎町に夜が噛みついていた。駅から河原までは数キロ離れていたので、思わずタクシーに乗ってしまった。これじゃ宅急便代を我慢した意味がない!
 大きな橋の近くで降ろしてもらったが、河川敷には電灯がなく、川の流れは全く見えなかった。河原は公園になっているようで、ぼくはグランドの横にテントを張った。何もかもが手探りで手間が掛かり、からっぽの胃袋はぼくをいらつかせた。やっとテントにもぐり込むと、風が強くなり、感度の悪いラジオがノイズ混じりに明日の天気が崩れることを告げている。ここでもう一泊することになりそうだ。
 翌日、天気予報は大外れ。快晴だ。しかし、昨日、暗がりで見えなかった川を覗いて驚いた。水がない。川下りするには少なすぎる。それに汚い。ヘドロが溜まった黄緑色の流れが川床をかき消している。天塩川は、ダムや堰のない区間が日本で最も長くとれる川として有名だが、こんなに水が汚いとは思わなかった。汚れた服を川で洗濯をしようと思っていたのに、これじゃ逆に洗濯物が汚れてしまう。仕方なく、町にコインランドリーを探しに出ることにした。
 九時をまわったばかりの町は、まだウトウトと寝ぼけていた。庭の花に水をやっているお婆さんにコインランドリーはどこかと聞いてみる。すると「こいんらんどりい???」と音を真似るだけで、その意味もしらないようだった。他の人に聞いても首を傾げるばかりだ。この町にはコインランドリーなんてないのかもしれない。
 ついでに旅費を下ろしに郵便局にいく。ぼくは、国内を旅するときはいつも軍資金を郵便口座に入れておく。利益追求型の銀行と違って、郵便局はどんなに辺鄙なところでもあるので現金を持ち歩かなくてすむからだ(といっても、ぼくの全財産などたかが知れているが)。近くに立っていた中年の局員にコインランドリーの場所も聞いてみたが、やはり首を傾げた。局員は、ぼくが右手にぶら下げているスーパーの袋を見ていった。
 「それだけかい?」
 Tシャツ一枚、パンツ一枚、ズボン一本、靴下一足、以上。風来坊は身軽でなければならない。
 「ちょっとついてきて下さい」
 といって、男はぼくを局の裏に連れ出した。水道でも使わせてくれるのかと思ったら隣の家へ入っていく。立派な家だ。
 「家の洗濯機で洗ったげるよ」
 そこは、おじさんの家だった。
 「分局だと、そこの大屋が局長も兼ねていることが多いんだ」といっていた郵便局員の友人を思い出した。つまり、その人は局長さんだった。
 きれいに掃除された広い家に入るとみすぼらしく汚い自分がきわだつ。しかし、局長さんはそんなことを全く気にしないようで、奥さんが洗濯をしてくれている間、今の局がまだ木造の掘建て小屋だったころの苦労話や人口二千三百万の士別町の将来への不安を話してくれた。この人は、地元ではかなりの有権者らしい。
 そのうち奥さんが風呂を沸かしてくれて「入れ。入れ」と勧めるので、遠慮せずに飛び込んだ。風呂からあがると「いま洗濯物乾かしてるから」といってメロンとコーヒーが出てきて、そのうち昼になってしまいビールをやりながらソーメンを食べさせてもらう。そして、お茶と羊かんを食べながら奥さんと話していると夕方になってしまった。家を出るころには洗濯物も乾き、奥さんがきれいに畳んでくれていた。ちょっと尋ね事をしただけでここまで良くしてくれるとは恐縮してしまう。感謝!
 無事に九州にたどり着き、この旅が終わったら手紙を出そう。そう決めた。
 翌日、川沿いに歩いてみる。やはり川を下るには程遠い水量の少なさだ。士別から下るのは諦めて、ひとつ下流の名寄まで移動することにした。
 国道に出て、バス停の引込み線に立ち、親指を立てる。交通量のある場所でのヒッチハイクは、車が止まれるスペースを用意しておかないと、なかなかうまくいかない。せっかく乗せようと思ってくれても、止まる場所がなければ、後ろから来る車に突っつかれて、そのまま通り過ぎてしまうのがオチだ。大荷物なので、軽の乗用車では載りきらない。大きい車しかないな。そう思っていると、一台目に来たランクルが止まってくれた。助かった。
 拾ってくれたのは二〇代後半のサラリーマンで、ひっきりなしに携帯電話が鳴っていた。男は重機会社の営業マンで、今朝札幌を出て、これから風連にいくという。風連は名寄のひとつ手前の町だ。しかし、男は「いいよ、名寄くらいならいってやるよ」と快く引き受けてくれた。彼の会社は橋もつくっているようで、池田の大橋もやっているといった。池田大橋といえば、カズヒロさんが住んでいる町の橋で、歴舟にいく途中に渡ったところだ。男はぼくの経歴を知りたがったので、大学を出てからの七年間をこと細かく話して聞かせた。相手を退屈させないのが、ただ乗りの礼儀だ。
 ぼくは、名寄大橋の上流で下ろしてもらった。
 「気をつけてね」というとランクルは土手の上を勢いよく走っていった。ぼくは、車が見えなくなるまで大きく手を振った。
 名寄の天塩川は、なんとか下れそうな水量はあった。しかし、やたらめったら、べらぼうに、みだらに汚い。川床はヘドロが折り重なり、ゆらゆらと長いひげをなびかせている。
 やめとこうか…。



素晴らしい眺めのどぶ川/天塩川

TF018.jpg 河原にテントを張り、町に買出しにいく。ビールも忘れずに購入し、飲みながら河原に帰ってくると、昼下がりの河川敷は鉄板の上で焼かれているような暑さだった。逃げ込むような日影などどこにもない。こうなると川の上に出てしまいたくなる。せっかくテントを張ったのに、また畳んで、荷物を舟につぎ込んだ。
 川に入ると水が生暖かい。
 くそ。気分が悪い。
 今回は、携帯性のいいメッシュ地のカヌーシューズを履いているが、暑さを考えたとしても、ここは完全防水の長靴がほしいところだ。
 午後三時過ぎ、人気のない名寄大橋をくぐって出発。
 町を出てしまうと、驚くほどきれいな河畔林が川を覆っていた。カリフラワーのようにモコモコと柔らかい小枝のあちこちから青サギが舞い上がる。あるところでは一ヶ所に一二羽もいた。川の周りに住む動物は多いようだ。しかし、手元に目を落とすと、やはり汚い。川を囲む風景と川自体のギャップがありすぎる。名寄の町を出ると右から名寄川が合流して、その汚さは凄みを増し、鼻をつまみたくなるような悪臭がたちはじめた。生活廃水が流れ込んでいるらしい。さっき名寄で入った食堂の夫婦がしていた会話を思い出した。
 おかみ「(ぼくに向かって)お風呂屋がすぐそこにあるよ」
 おやじ「バカ!川下ってんだから風呂なんていらねえだろう。川の水をかぶってりゃいいんだ。そっちのほうがよっぽど気持ちいいにきまってる!」
 おやじは、自信満万にいった。この人たちは川とは別の世界で生きているんだろう。そうでなきゃ、あんなことはいえないはずだ。
 ぼくは、そこから逃げ出すように、力いっぱい漕いだ。
 しかし、天候は予報通りに崩れ出した。辺りに重く湿った空気が漂いはじめ、空は高いが、雨雲が立ち込めている。夕立の予感がする。ところが、岸辺はどこも潅木が生い茂り、上がる場所すらない。どうすることもできないまま流されていくと、智東の瀬にさしかかった。ここは、昔、川船が遭難するほどの難所だったらしいが、上流にダムができたおかげで、せいぜい一、二級の瀬でしかなくなっていた。それでも、ここ難所といえるだろう。ドブみたいに汚い飛沫をかぶり、下るのを辞めてしまいたくさせるからだ。
 匂いのする汚水がバシャバシャとデッキを洗い、顔にまで跳ね上がってくる。なすすべもなく、ただ悲鳴をあげて下るしかない。これを岸から人が見ていたら「なんて楽しそうなんだろう」と勘違いするかもしれない。そう考えると笑いがこみ上げてきたが、笑った口から水が入るといけないのでグッとこらえた。
 午後五時ころ、やっとテントが張れそうな場所を見つけて岸に上がった。雨雲を引っ掛けた対岸の山からは強い風が吹き降ろしてくる。荷物を降ろしている間も天候はどんどん悪くなり、テントを張って飛び込むと同時に大粒の雨が降り出した。フライシートを叩く雨音の向こうで風除けにした大木が激しく葉と葉を擦らせている。今夜はこの木が守ってくれるだろう。しかし、慌ててテントを張ったおかげで、下の凸凹がひどく、なかなか寝つけなかった。
 夜が明けると雨はあがっていた。天気予報では、昼前にまた降り出すといった。その前に出発する。ひざ丈くらいの雑草が生い茂り、薪も水場もなく、連泊するほどいいテントサイトではない。
 ホーケッキョ。
 川に出ると鶯の鳴き声が聞こえてきた。七月の下旬だというのにまだうまく鳴けない。やはり、ここは北国なのだ。
 しばらく下ると、川床を横断している岩盤が瀬をつくっているところに出た。モンポナイの瀬というらしい。水量が少なかったが、岩盤は滑らかに削られていたので、そのまま舟底を擦って通過した。汚水をかぶること意外に問題はなかった。
 正午過ぎに美深に到着。今日は、ここで泊まることに決めていた。美深には温泉があるのだ。
 町がつくったカヌーポートから陸にあがり、すぐ横にテントをはる。そこは芝生の公園になっていて誰もいなかった。これだけきれいに整備されていると、かえって困ってしまう。流木がなく、あってもそれを燃やすスペースがないのだ。火のないキャンプは楽しさも半減する。しかし、それを差し引いても、今のぼくにとって温泉は魅力的だった。
 土手を越えるとキャンプ場があり、国道へとつながっていた。カヌーポートとは対照的にキャンプ場はファミリーキャンパーやツーリングをしている連中でごったがえしていた。温泉はその向かいにあった。入浴料は三〇〇円。何故か東北、北海道の温泉は良心的な料金のところが多い。垢を落とし、大きな湯船で体を伸ばすのは気持ちがいい。仕上げにビールを飲んで、ぼくは生まれ変わった。テントに戻ると目の前の雲が稲妻をはしらせていた。
 とうとう夕方から雨になった。テントの前室でめしを炊くと室内に湯気がまわり、薄っすらと匂う米の香りが心を落ち着かせる。めしを食いながらラジオをつけるとマンネリの政権争いを伝えていた。権力。金。それを欲しがる欲望。それを失う不安。それがあからさまにとぐろを巻いている。茶番、ご苦労さん。それより、ぼくにとって重要なのは天気予報だ。宗谷地方南部に大雨洪水警報が出ているらしい。水辺に伏せてあった舟を慌ててテントのわきまで担ぎ上げた。
 翌日は、雨が降ったり止んだりと天候が不安定だったので美深に停滞。一日中、本を読んで過ごす。
 三日目の朝、雲は多いが日が射してきたので出発。カヌーポートで会ったおばさんに話しかけると「あら、遠くで見てたらあんまり細いんで女の子だと思ったよ」と驚かれた。女の子…。そんなに弱々しく見えるのだろうか。
 川は、この二日間に降った雨でかなり増水して、流れも速くなっていた。雨露に濡れた河畔の森はつややかで美しかったが、蒸発する湿気はぼくの体にねっとりとまとわりついて汗を絞り出す。それでも、青空の下をいくのは気分がいい。
 天塩川を囲む景色は人工物がほとんどなく、大きな河川でこれだけの自然を残しているのは全国でもそうないだろう。ただ、ひたすら残念なのが水が汚いことだ。ぼくは少し顎を上げ、水を見ないようにして下ることにした。そうすれば、極上の川だ。
 途中、右岸にペペケナイというきれいな流れ込みを見つけたので上がってみる。幅が二、三メートルしかない小川だが、水は透明で川床の玉砂利が流れにゆがんでいるのがよく見える。倒木の下を覗くとゆらゆらと黒いウグイの群れが川底に張りついていた。五〇匹はいる。知床以来魚を釣っていなかったぼくは、焦る気持ちを押さえて、その塊の上にそっと毛鉤を落とした。すると三〇センチを超すウグイが次々と釣れる。どれも腹が婚姻色で赤くなっている。魚信で小刻みに震える硬めの竿が、川の中とぼくを結ぶアンテナになって、今までよりも一歩深く天塩を知った気分になる。救われた気がした。ぼくは、昼を過ぎてはらぺこだったことさえ忘れて釣りに熱中した。
 川は、音威子府の町に近づくにつれ、牧草地に入って視界が開けた。西日に透けて光る青草の上でホルスタインが口をモゴモゴと動かしながらこっちを向いたりする。その動作が緩慢で、とても牧歌的で、こっちの心までゆったりさせる。
 高い土手越しに音威子府の町が見えてきたところで、木の階段が川面まで降りているところを見つけ、上陸する。そこには「川の駅」という看板がぽつんと立っていた。階段の周辺は中途半端な長さで草が刈られて剣山のようになっていた。テントを張るにはあまりいい場所ではなかったが、町に出るにはここが一番よさそうだった。土手を登って下流を見ても、他に上がれそうなところもなかったので、ここに泊ることにした。
 舟のところに戻ってみると、二人組の男が舟をつけていた。舟は傷ひとつないピカピカの新品だ。聞いてみると、ふたりともカヤックに乗るのは、今日が初めてだという。しかも、かなりビールを飲んでいるようで、なかなかいい心がけをしている。
 男たちは、これから上流の天塩川温泉に置いてあるトラックをとりにいくところだった。その足で舟を積みにまた音威子府まで戻ってくるというので、一緒に温泉へ連れていってもらうことにした。
 車の中で、ふたりの話を聞く。
 口ひげをはやしたちょっと肉づきのいい男が大森さんといい、もう一人はなにか運動をしているようなガタイのいい男で佐々木さんといった。ふたりは大学時代の山岳部で先輩後輩の関係だったらしい。大森さんは隣町の歌登で牛を飼っている牧場主で、佐々木さんは名古屋で小学校の教員をしている。佐々木さんは学校の休みを利用して大森さんのところへ遊びに来たという。久しぶりに会ったのだろう。いつも冗談を言って笑いあっている。気心の知れた旧友とはいいものだ。都会で働いているあいつらを思い出した。みんな元気にしているだろうか。
 温泉に浸かりながら話しているうちにすっかり意気統合してしまい、音威子府の河原でジンギスカンをやることになった。佐々木さんは諸手を上げて喜んでいるのに、喜びながらも牧場の牛たちを気にしている大森さんが対照的でおかしい。
 買出しをしてから河原に戻って火を焚く。考えてみれば、天塩に来てからはじめての焚火だ。ビールのプルタブが音を鳴らし、一〇〇円の使い捨てジンギスカン鍋の上でのびているラムが跳ねだすと、ぼくは、どうしょうもなく嬉しくなってしまった。火。酒。川。仲間。申し分ない。川面には、ふわりと柔らかい明かりが舞い上がった。こんな川にも蛍がいるとは驚いた!
 こっちのみーずはあーまいぞ。
 翌日、朝から晴れて気温は急上昇し、テントの中でグズグズしていたぼくは、たまらなくなって外へ飛び出した。
 汗だくになって荷物をまとめていると大森さんと佐々木さんがやって来た。ふたりとも牧場の仕事をほったらかしにして、今日も川を下ることにしたらしい。一日で川キチが出来あがってしまったようだ。
 真夏の太陽が影のない河原をジリジリと焦げつかせる昼過ぎ、ようやく出発。
 川は、音威子府を出ると佐久まで天塩山地と北見山地に挟まれた山間部に入る。山は無数の緑に彩られた雑木の森でふさふさと柔らかく生い茂り、川も谷に押し狭まれて快適なスピードで流れ出した。森では鶯が鳴き、行き先はサギが案内し、頭上ではトビがはばたきもせずに旋回している。
 はじめのベンドを曲がると舟を並べ、ビールを開けて乾杯した。佐々木さんが、昨日の晩、自宅に電話して、奥さんに「ビールを飲みながら川を下っている」というと「ひっくり返って心臓麻痺にでもなったらどうするの!」と叱られたという。名古屋に帰ったら、カヤックを買うと息巻いていた佐々木さんも、これじゃ、奥さんを説得するのは難しそうだ。
 右岸の藪からエゾシカが出て来て、小さな尻尾を振りながら川の水を飲んでいた。道北を縦に伸びる山脈をザクッとふたつに切ったこの山間部は、天塩流域でもずば抜けて自然が濃かった。水質は相変わらずだが、久々に清々しく川を下っている。
 また、ふたりを見ていて、はっとした。彼らは、まだパドルでうまく水を掴めず、舟が頼りなく左右にふらつく。しかし、当人たちは、そのパドルが上げる飛沫、音、川の緩やかなスピード、木の葉が風にそよいで白く裏返るのを見ては歓声を上げる。川の上から見るもの聞くもの全てが真新しく新鮮なのだ。ぼくも、はじめて川を下ったときの感覚を思い出した。クルクルと変わる景色や川独特のスピードに驚いたものだ。この天塩に来て汚い汚いと嘆いてばかりいたが、なにかそれとは違う忘れかけていた感覚を呼び覚ましたような気がする。そう思うと天塩川も少し違った景色に見えてきた。
 陽気なふたりは、佐久で切り上げていった。滅入っていた気分を晴らせてくれて、ありがとう。山間部を出た川は幅を広げ、流れは急速にゆるくなっていった。
 それから二日間、ひたすら漕いだ。流れはすっかりなくなり、岸には潅木が生い茂り、陸に上がれるような場所もなくなっていった。
 そして、三日目。川に出ると、上流から吹く強い風で、舟はサーフィンのように波に乗ってグングン進み出した。川幅も数百メートルに広がり、平原に囲まれた空は視界を越えて広がっていく。右からサロベツ川が流れ込んでくると、大きなカーブの向こうに砂丘が見えてきた。この砂丘は砂嘴(さし)といい、何万年もかけて天塩の土砂がつくりあげたもので、太いところで六〇〇メートル、狭いところでも一〇〇メートルある。川はこの砂嘴を挟んで八キロ流れ、日本海に注いでいる。ぼくは、砂嘴に舟をつけ、ハマナスが咲いている小高い砂山を駆け上がった。すると、太陽の輝きをはね返して静かに広がっている日本海が目に飛び込んできた。沖には、利尻島が蒼く霞んでいる。内にこもっていた感覚がいっせいに空中へと飛び出す。ゆっくりと砂浜を降りていき、打ち寄せる波に足をつけた。青く静まりかえった海は天塩の水より冷たかった。そのひんやりとした冷たさが、ぼくの体を走り抜け、天塩川の終わりを告げた。



新聞輸送車で北海道南下

 河口にある天塩町の昼下がりは、気だるく静まりかえっていた。空気が淀み、景色はオレンジがかっている。漁船を陸へ上げるスロープに舟をつけ、干上がった海藻と一緒に天日に干す。人影を探してみたが、朽ちかけた漁船の向こうに寄りそう高校生の足が四本見えるだけだ。
 ザックに舟を押し込むと、近くにあったコンビニへいき、サッサと宅急便で次の川へ送ってしまった。次の具体的なスタート地点を決めているわけではないので、その周辺を営業区域にしている営業所止めにした。向こうで自分の居場所が決まり次第、営業所に連絡して配達してもらえばいいのだ。料金は全部込みなので、エリア外に転送でもしない限り余計な費用はかからない。これから、舟は先に送ることにした。もうあの大荷物を抱えて這いずり廻るのはご免だ。
 荷物が半分になり、幾分、動きやすくなったぼくは(まだ三〇キロはあるが…)、町外れにある鏡沼のキャンプ場へ向かった。キャンプ場は、沼を取り囲むようにテント場とバンガローがあり、海風が地面を撫で回す。テントを張ってしまうと、すぐ横の高台にある三一〇円で入れる風呂へ浸かりにいくことにした。このころから、自分の中に疲労感の塊を感じるようになっていた。それを熱いお湯で溶かしてしまいたかった。
 湯船からは、キャンプ場の向こうに日本海が見えた。久しぶりのお湯は、確かに疲れを取ってくれた。しかし、いまのぼくから疲労をとったら何も残らない。そこで、風呂場に入ってきた地元の人に天塩の海産物を食べさせてくれるところを教えてもらい、夜、いってみることにした。毎日、ウインナーや缶詰めばかり食べていていたので、久しぶりに土地の美味いものを口にしたくなった。
 でも、よく考えてみると、人間ほど味がどうのこうのとうるさくいう生き物はいない。本当なら、ウインナーだろうが缶詰だろうが、胃袋を満たして血と肉になってくれれば体に差支えないはずだ。ライオンだって、極上の肉を手に入れたとしても、それをステーキにしたりトロトロのシチュウにしやしない。アシカが魚を獲ったって、それをタタキにしたり、酢でしめたシャリの上に載せてコンビネーションを楽しんだりはしないだろう。でも、人間、それだけじゃ満足できない。
 人間が「味覚」を覚えたとき、一緒に「苦悩」っていうのも覚えたんじゃないかと思えてくる。アダムとイブはなんで神の怒りに触れて男と女の苦悩を背負ったんだっけ?りんごだ。人間、りんごが欲しくてしかたがない。「食べちゃいけない」といわれれば食べてたくなる。美味いものを知れば、もっと美味いものが欲しくなる。それが見つからなければ悩みもするってわけだ。それは、禁断の果実であると同時に、心を震わす豊かさの根っこでもあったのかもしれない。そうすると、なにが正しくて、なにが悪いのかなんて紙一重に思えてくる。大昔のりんごほど禁欲的じゃないが、いまのぼくにはその「味」が必要なんだ。
 そして、その場に居合わせたヒデという男とその彼女のミキエも一緒にいくことになった。ふたりは京都人で、新潟から小樽までフェリーで来ていた。車で道北を周るらしい。川を下り終えて人恋しくなっていたので、ふたりに出会えたのはよかった。
 地元の人に教えてもらったのは「ひさご」という店だった。いわれた通りに町の裏通りに入るとその看板が暗がりに光って浮かんでいた。引き戸を開けると左手がカウンターで右には座敷が店の奥まで縦に続いている。典型的な居酒屋で、店は地元の人でいっぱいだった。
 「タチバナさんというひとに美味しい店を教えてくれといったら、ここを教えてくれたんです。天塩の美味しいものを食べさせて下さい」
 と、お茶を持ってきた女将にいうと、「そうかね!そうかね!」とうれしそうに次から次へと料理を持ってきた。
 えび、生ウニ、ホッケのすり身揚げ、ホッキ貝の石焼、ツボダイの焼魚など。とくにノナウニという礼文の方で獲れたウニと深海のツボダイは枯れた胃袋に張りつくようなうまさだった。なんだかうれしくなって、本当に踊り出したぼくを見て、ミキエが笑う。最後に店のオヤジさんがおまけで天塩名物のシジミ汁を飲ませてくれた。このシジミが、アサリくらいの大きさで、噛むと磯の香りが口いっぱいに広がってうまかった。
 店を出ると風がかなり強く吹いていたが、ぼくらはご機嫌で遠いキャンプ場まで歩いて帰った。
 次の日は、天塩町に連泊。京都で再会することを約束してヒデとミキエは出発した。一日、天塩の町をぶらついたが観光地でもない寂れた漁村は静まり返っていた。これが大部分の北海道なのだ。そして、大部分の人生?
 地元のキャンパーと夜を飲み明かしたぼくは、次の日、道北の日本海沿いを走る国道二三二号線に立って、親指を高々とあげた。三台目の主婦が車を止めてくれた。隣町の猿別までしかいかないというが乗せてもらう。子供を天塩の保育所に預けた帰りだという。その女性は「街中より車を拾うのにいいところがあるわ」といって、自分の家を通り越して町外れにある道の駅「富士見」まで連れていってくれた。ここなら、大抵の長距離ドライバーが立ち寄るというのだ。ありがたい。
 そこで、道の駅を出てきた二トントラックがぼくを拾ってくれた。空荷の広い荷台にザックを放り込み、助手席に乗る。運転手は緑のキャップを被った気のいい兄ちゃんだった。札幌から稚内までの間にある新聞の営業店に全国紙を届けているという。いまは、その帰りで札幌まで戻る途中らしい。札幌までは三日くらいかかる覚悟でいたが、最後まで乗せてもらうことにした。
 「去年は、会社でオレひとりだけ一度も事故をおこさなかったんだ」
 と、兄ちゃんは胸を張っていった。朝日新聞の販売店を故郷の余市に開くのが夢で、五年計画でその資金を貯めているところだという。二七歳の青年は、肉体を酷使して前へグングン進んでいた。ぼくより年下で、地に足をしっかりつけて生きている人もいるんだ。そう思うと気持ちがシャンとした。
 「こっちのゾウリ虫がよ、内地(本州のこと)じゃ丸くなるんだってな!不思議だ!」
 そんな素朴な驚きには笑った。ぼくが「ゾウリ虫とマル虫は似てるけど多分違う種類の昆虫だろ」といっても兄ちゃんには想像をこえた話のようで、ひたすら不思議がっていた。
 それから、ぼくらは旅のこと、車のこと、女の子のこと、アイヌのことを話した。
 「オレが学生のころは、やっぱり差別があったな。クラスにアイヌがいると別に個人的にはなんとも思ってなくても、誰かがそいつをいじめる。そうするとなんとなくみんないじめるようになってたような気がする。だから、アイヌはみんな自然と進学もしなかった人が多かったなあ」
 ぼくは、六年前、自然と調和して暮していたアイヌのことを知りたくて北海道を旅したことがある。本田勝一の「アイヌ民族の現在」(朝日文庫)という本を読んで興味をひかれたのだ。そこには、ある日突然、シャモ(日本人)によって土地と自由、そして文化を奪われ、差別されたアイヌの事実、歴史が刻々と綴られていた。奪われた彼らの文化は本当に絶滅寸前なのか、それを伝える人はもういないのかを自分の目で確かめたかった。そして、ぼくは何人かのアイヌとシャモに話を聞くことはできたが、みなお年寄りで、若い世代の人たちに聞いたことはなかった。兄ちゃんの学生時代といえば、たかが一〇年か二〇年前の話だ。それでも、差別はあったのだ。いまだあると思ったほうがいいだろう。ぼくがサラリーマンをしていたころも違う支店にアイヌがいた。ぼくはいろいろ話をしてみたかったが、結局は話せなかった。それほど親しくもなかったし、本人には触れられたくない事実なのかもしれないと思ったのだ。
 差別にはする側される側の人間がいる。そして、それ以外の第三者もいる。ぼくが同僚に話せなかったように、差別にはどこかタブー性があって、触てはいけないという力がはたらく。その力を溶かすには個々の勇気しかないのだ。学生時代の兄ちゃんもサラリーマンのころのぼくも、結局、同じだったんだな…と、ぼんやり思った。
 トラックは、昼過ぎに札幌駅の北口に着いた。兄ちゃんは「余市にあるニッカの工場でお袋がアイスクリームを売ってるから、よかったら寄ってくれ。只で食えるぞ」といって笑うと、ロータリーを廻って数珠繋ぎの車列に消えていった。
 札幌の街で、次に下る尻別川で使う五万分の一の地図と釣具を買い、さっさと長万部行の列車に飛び乗った。いまのぼくには都会のどこにも居場所はない。でも、一体どこにあるんだ?ぼくの居場所なんて。
 友人のいる小樽で一泊し、再び列車に乗って倶知安へ向かった。週末と重なって、列車の中は家族連れやカップルの海水浴客で満員だった。大きなザックを無理やり連結部まで押し込んだぼくは、なにか計器が入っているらしいボックスの上に座って本を読んだ。ヒッチだと話をしないといけないので、本など読めない。その点、列車だと誰にも気を使わず、窓から入ってくる涼しい風に吹かれながら読書ができる。運賃で買った時間と空間。世の中、くつろぐにも金がいるのか?



つかの間の休息/倶知安

 昼下がりの倶知安は、からっぽで整然としていた。駅前の地図で、町外れにキャンプ場があるのをみつけ、そこへいくことにした。途中、駅裏の広い敷地に北海道中のナンバーの車がたくさん止っているのを見つけた。大きなイベントでもあるのだろうか。通り掛かった小学生に聞いてみるとジャズ・フェスティバルがあるという。ついでに、キャンプ場の場所を聞くと、少年は「ぼくがキャンプ場まで連れてってあげます」といって、前を歩きだした。彼は犬を連れていた。
 「この犬ね。交通事故にあったんだ。びっこ引いてるでしょ。でも、ぼくが毎日散歩させてあげたら元気になったんだよ!ホラ!」
 少年は、ぼくをキャンプ場の入口まで連れて来ると、子犬の歩幅に合わせて来た坂道をゆっくりと降りていった。
 キャンプ場はスキー場の下にあり、ジャズ・フェスティバルのせいか、たくさんのキャンパーが来ていた。ごみごみした炊事場横のサイトを避けて、小さい山の上に登る。そこにも、日産のサファリで来た大きな蚊帳を張った先客がいたが、下よりは快適そうだったので、少し間隔を空けてテントを張った。
 挨拶をすると、中年の夫婦が出てきた。どこか垢抜けている夫婦だ。やはりジャズ・フェスティバルを見に来たという。旦那さんは茂一さんといい、奥さんは永愛さんといった。ふたりともフライ・フィッシングをやるらしく、今日も尻別の上流でやって来たらしい。しかし、どこも人がいっぱいで釣りにならないという。釣り談義に華が咲き、茂一さんが夕食に呼んでくれることになった。
 ふたりがジャズを聞きにいっている間、ぼくはオープン・ステージで歌う女性ボーカルの柔らかい声を聞きながら本を読んだ。まるで、薄い壁のジャズ・バーの外で耳を傾けているようだ。なかなか気持ちいい。ビールもすすむ。
 午後八時ころ、ジャズ・フェスティバルから帰って来た茂一さんは「サックスが下手だ」とか「選曲が駄目だ」といった。どうやら、ジャズにはかなり詳しいようだ。
 それから、茂一さんの蚊帳で晩餐がはじまった。茂一さんがワインを開け、永愛さんが毛蟹、ステーキ、ビールを次々と出してくる。出発してからこんなご馳走ははじめてだ。二人ともどんどん勧めるので、遠慮せずに、出てきたものを全部口に詰め込む。体中の神経を胃袋に集中して存分に味わった。
 茂一さんは産業廃棄物の会社をしていた。そして、趣味が高じて会社の庭に大きなプールをつくり、そこに虹鱒を一〇〇匹放流したという。更に、階段状の落ち込みをつくって魚が遡上できるようにしたらしい。仕事が終わると自分の会社で鱒釣りができるのだ。なんて羨ましい!しかし、社員が泣いているのも目に浮かぶ。
 「君がそこにテントを張ったとき、何故か分からないけど話しかけようと思ったんだ。それは普段のぼくには考えられないことなんだよ。でも、話しかけようと思ったんだ。そうしたら吉田君のほうから話しかけてきたんだ」
 と、茂一さんはワインを飲みながらいった。永愛さんも頷いている。ぼくも茂一さんたちを見たとき、素直に話したいと思った。なにか引き合うものがあったのだろうか。確かに、ふたりは魅力的な人物だ。彼らは、人生を満喫している。そして、そのやり方を心得ている。そんなふたりの空気がぼくを惹きつけたのかもしれない。
 「何故、世間の若者は自己を持たないのか」と茂一さんは嘆いていた。現在の自分が置かれている環境がいやでも、それを変えようとするエネルギーがないという。そういって、旅をしているぼくにひどく共感してくれた。こっちが恥ずかしくなるほどの誉め方だった。
 しかし、それはかいかぶりだ。いまのぼくは全くの不完全もいいとこだ。なにひとつ、結果を出してやいないし、出るかどうかもわからない。なにかをしようとすることが大切だという人もいるが、やるからには、やり遂げなければ意味がないんだ。そうしている行為なんか、過程でしかない。のるか。そるか。
 そう力んでみても「この人たちは分かってくれている」と思うと、やはり嬉しくなって、また酒を飲んでしまう。やっぱ、ぼくは弱い。
 その夜、茂一さんとぼくはワイン二本、ビールはあるだけ全部飲み干し、永愛さんは自己最高記録の梅酒二缶を空けて眠りについた。まったく、最高の夜だった。
 翌日、茂一夫妻は登別の自宅へ帰っていった。
 午後に町の郊外を流れる尻別川を見にいく。河川敷は公園になっていたが、水辺は護岸されていて河原はなかった。水もそれほどきれいではない。倶知安は尻別川の中流にある町で、川はここからおよそ六〇キロ流れて日本海へ注いでいる。しかし、倶知安から下流の蘭越まで六つの堰が川を切り刻んでいる。大荷物を抱えて六つもの堰を越えるのはばかばかしい。倶知安から下るのをやめて、更に下流の蘭越から漕ぐことにした。
 しかし、ぼくは、まだ倶知安を離れるわけにはいかなかった。ゆう子とここで落ち合うことになっているのだ。彼女の家は関西にあり、仕事の合間を見てわざわざ飛行機でぼくに会いに来てくれるのだ。ぼくたちは五年前にニュージーランドで知り合い、つきあっていた。
 倶知安に来て三日目。約束の時間に迎えに駅へいくと、ゆう子はザックを抱えて駅前のベンチに座っていた。彼女はいつも通り黒く日焼けした明るい天使だった。
 「よく来たね!」
 ぼくらは軽く抱き合った。
 いつも思うのだが、彼女と会うとき、ぼくの中で何かがパンと弾ける。そして、そのすぐ後には静かな心地よさが残った。安心して一緒にいられる存在だった。
 ぼくたちは、温泉につかったり、釣りをしたり、バスを待ちながら道端でアイスクリームを食べたり、酒場で北の幸をビールで胃に流し込んだり、河原でジンギスカンにかぶりついたりして三日かけて下流の蘭越へ向かった。
 川沿いに走る列車から見える尻別川は、堰に寸断され、ほとんど水がなく、川床のごろ太石が無残に露出していた。川は死んでいた。
 蘭越駅から道をまっすぐいくと尻別川の河川敷に出る。そこは、野球やゲートボールができるグランドと芝生の広がる公園になっていた。公園では、なにかイベントがあるらしく、パイプを組んで大きな舞台をつくっていた。ぼくたちが芝生の端にテントを張っていると市の職員と名乗る男がやってきていった。
 「ここにテント張られちゃ困るんだよね。キャンプ場じゃないんだし、河原での住居は法律で認められていないんだ。そんなキャンプを認めていたら、そういう人が増えて困ってしまう。出ていってくれ」
 キャンプ天国の北海道でも、町によって対応が全く違った。今回、最初にいった知床の羅臼町のように町外れに無料のキャンプ場と無料の露天風呂を提供しているところもある。
 ぼくたちは仕方なく、公園の下にある河原にテントを張った。そこは、川の水位次第で簡単に沈んでしまうようなところで、石ひとつ下はジメジメと湿っていた。それでも、ゆう子といると気持ちが華やいでしまうから不思議だ。
 ゆう子が来て四日目。もう、彼女が帰る日がきた。駅へ見送りにいく途中、昨日、舟の受取を頼んでおいた商店に寄ってみたが、まだ来ていなかった。その代わりに、そこの叔母さんが「これをあげようと思って」と、大きなプチ・トマトとスニッカーズの入った紙袋をくれた。そして、店を出るときに叔母さんは「いい旅をして下さい」といった。店を出るとゆう子が「日本人に『いい旅を』なんていわれたのはじめて。わたしも今度は旅の人に親切にしてあげよう」と、しみじみいった。ぼくは、彼女のこんな感性が好きだ。ゆう子は、午前一一時四二分の小樽行に乗って帰っていった。トマトを口にほおばると、青い草の香りがした。
 河原へ戻る途中、宅急便のトラックが前を通ったので、もう一度店に寄ると舟が届いていた。ぼくは、バカでかいザックを担ぎながら決めた。
 今日、出発しよう。



孤独な尻別川

TF024.jpg なんだか、寂しかった。
 とにかく何かをしていないと耐えられない。
 ところが、舟を組み、荷物をパッキングしていると皮肉にも雨が降り出した。なんだか惨めな気持ちになってきた。
 なんで、こんなことをしているんだ?
 そう思いながら、黙々と荷物をまとめる。そして、濡れて重くなったテントを丸めていると、ぼくは妙な感覚に襲われた。万事焦らずゆっくりとやっているのだが、見えてくる風景、視覚にあるものがみなドタバタと震えだし、心がざらつく。それは、高熱が出たときの感覚に似ていた。この四日間、ゆう子は、ぼくを見ては「疲れてるみたい」といっていた。全くその通りだった。ぼくは旅に疲れ果てている。しかし、気持ちだけはどんどん前に進んでいく。まるで旅に憑かれているように。何故だ?自分でもわからないまま身支度を続ける。舟を流れに乗せるころには、もう全身ずぶ濡れになっていた。
 川は、雨の波紋を水面いっぱいに散りばめながら流れていた。パチパチとカッパにあたる雨音が少しずつぼくの心を落ち着かせた。分流する流れを読みながら、ゆっくり下る。時折、深んどで大きな魚が跳ねる。コイ?鱒?スプーンを投げるが反応はなかった。二時間も漕ぐと川が大きく左に蛇行したところで広い河原があったので、そこにテントを張る。
 雨の中、薪を拾い、火を起こすこんな日でもキャンプファイヤーの要領で細い薪を積み上げ、その中に更に小さな薪を詰めて、上に木の皮か紙でふたをすると火がつく。そんなことをしていると目の前の淵で大きな魚が跳ね始めた。四〇から五〇センチはあるだろう。しかし、もう釣なんかする元気は残っちゃいない。めしを食って寝てしまった。
 翌日はなんとか雨も止んだが、そこに連泊することにした。新しいことをしようとする気がまったく起きない。一日ぼんやりと釣りをする。舟で川に出て、フライを振る。すると五対一の割合でウグイとヤマメが釣れた。しかし、ヤマメはせいぜい一〇センチくらい。やはり、跳ねていた大物はウグイか?
 夕方になるとテント前の浅瀬がサワサワと波立ちだした。よくみると一〇センチもない小さなウグイの群れが何かに追われて跳ねまわっている。そこに毛鉤を落としてやると次々と雑魚が釣れた。釣っては逃がし、釣っては逃がして遊ぶ。全く釣りなんて人間のエゴだなと思いながら辞められない自分がそこにいる。思わず笑ってしまった。
 出発して三日目、日が昇ると気温がグングンあがり、テントの中にいられなくなったので昼前に河原を出た。舟の上からルアーを投げると、また四〇センチのウグイばかり釣れるので竿をしまう。
 晴れた日の尻別川は山に囲まれて目を抜くような美しさだった。名駒の町を過ぎると川幅が一挙に広がり、海からの風で波が立ちはじめた。山は川のすぐ横で帯状に連なり、海風で木の葉をひるがえして白く揺れている。遠くの高い山には雨雲がかかっているが、かえってその明暗が美しく思えた。川がひとつ蛇行するたびに風は強くなっていったが、美しい眺めが腕の動きを軽くする。
 上流での楽しみはクルクルと変わる景色だが、下流ではその広い空間に開放感を感じる。それにしても、こんなにきれいな景色が淡々とつづく川もめずらしい。
 河口の港町が見えてくると風はいよいよ強くなり、漕ぐのをやめると舟は上流に押し戻された。体を前に倒して体重をかけて漕ぐ。やがて、橋の向こうに荒波で白く泡立つ日本海が見えてきた。ぼくは漁船を陸あげするスロープから舟を上げ、国道が走る橋の下で寝ることにした。
 日が沈みかけると、川面にトンボが揺れて、東の空から満月が浮かんだ。高架から降るオレンジ色の明かりの下で、真っ黒く口を開いた河口と白い月を眺めながら飯を炊く。水のうねりを感じながら、ぼくはノートにこう書きなぐった。
 何故、旅をする!
 何故、疲れる!



さらば北海道

 翌朝、河口にかかる磯谷橋にあがり、道端に荷物を置いていると、早速、車が走ってきた。慌てて親指を立てる。するとトヨタのサーフがバス停の引込み線に入って止った。助手席の窓が開くと若い男がふたりこっちを見ていた。
 「長万部方面にいきたいんですが」
 すぐに後部座席のドアが開いた。
 倶知安で会った茂一夫妻が登別の自宅へ遊びに来いといってくれていたが、北海道は早くぼくを吐き出そうとしていた。サーフのふたりは函館まで行くというので便乗することに決めた。一挙に北海道の南端へ。
 ふたりは愛知から来たサラリーマンで、五日間の猛スピードで北海道を一周するらしい。話をすると、運転している男がぼくと同じ大学の出身だった。三号館の変死体の話。やまか食堂の繁盛ぶり。忘れていた昔話が車のなかに溢れ出した。
 そんな話で盛り上がっているうちに、あっという間に函館駅前に着いてしまった。たった二時間半だ。ちょうど昼時だったので駅前市場で魚を食べる。ぼくはホッケを食べたが羅臼の磯島さん宅で食べたホッケのほうが断然うまかった。サーフのふたりは函館山にいくというので礼をいって駅前で別れた。
 それから、駅にいき、青森までの運賃を調べると五〇〇〇円くらいかかることが分かった。高い。それなら一一、五〇〇円で五回乗り放題の青春一八キップの方が後々役に立ちそうだ。ぼくは、一八キップを買って、津軽海峡を潜る「海峡一〇号」に乗った。
 車内は、観光客がたくさん乗っていたが、席に座れないほど混んではいなかった。
 列車は、しばらく海岸線を走ってから暗い海峡トンネルに入った。
 三三日間の北海道は穴の向こうに消えた。



力尽きた銘川/米代川

TF027.jpg トンネルの長い闇を抜け出すと、そこは東北だった。
 色彩。匂い。気配。濃度。重み。すべてが、少しずつ北海道と違っている。
 田んぼに点在する黒い杉の林。小さく区切られた田んぼ。寄りそう民家。どこをとっても人間臭い。ゴキブリがいる湿気の濃ささえ目で感じることができる。海峡をひとつ越えただけで、こうも変わるものか。
 青森に着いたのは夕方だった。ここで、次に下る米代川の地形図を手に入れたかったが、大きな書店にいっても置いていなかった。
 大荷物を抱えて人を掻き分けながら目抜き通りを歩くと、みんな振り返る。
 ザック。パドル。キャリアー。コンビニの袋。
 旅。疲労。孤独。滑稽。
 ハハハハ
 ぼくは、街の異物だった。
 繁華街ではテントも張れないので、ユースのある弘前まで足を伸ばすことにした。
 秋田行の列車は、帰宅途中のサラリーマンや学生で混んでいた。その中にひとり、白肌のきれいな女の子がドアの横に立っていた。背後には、夕焼けの中に岩木山が黒い影を浮かび上がらせている。ぼくの目は、このふたつの景色に釘づけになった。そこには日常があり、一日かけてつくりあげた心地よい疲労感が漂っていた。彼女も彼女の生活も、まったく美しかった。それに比べて、ぼくはどうだ。つくりあげるものなんて、何もない。ただ、意味のないものを積み重ねているだけじゃないか。
 弘前のユースには午後七時過ぎに着いた。その日は、関西大学のサイクリング部が来ていて、ほとんど彼らの貸し切りになっていた。それでも風呂に入れて畳で寝られれば文句はない。リビングに置いてあったピアノで、ピアノなど弾きそうにない大男がショパンを弾いていた。絞り込まれた筋肉が奏でる音は、ことのほか優しかった。それを聞きながら飲むビールの味は悪くない。
 次の日はユースに連泊。紀伊国屋書店に米代川の地図を探しにいく。すると、ぼくはまっさらな紙に刷り込まれた真新しい文字や本にとりつかれてしまった。本屋は、ユースのヘルパーに勧められたどの観光名所よりも魅力的だった。あふれ返る文字の中に様々な形の「自由」を探す。ぼくは自由なのか?ぼくの自由ってなんなんだ?
 しかし、まじめにそんな答えを探していたわけじゃない。ちんけな自分を転がして遊んでいるだけだ。
 ぼくは、疲れている。
 この一七万人の町を歩いて六〇〇円の定食を食べれば元気を取り戻せるかな。
 そう思いながら、話しかけてくる呼び込みの兄ちゃんを無視して、定食屋へむかった。
 その日の夜は、ユースに居合わせた六人の仲間でギターを引っ張り出して時代遅れのフォークソングを歌った。みんなで叫び、ヘルパーのひとりが馬のぬいぐるみを着て踊る「走れコータロー」は馬鹿馬鹿しく、それでこそ意味があった。
 二日ユースに泊った後、ぼくは昼前の大館へ向かう列車に乗り込んだ。読みかけの本を読みきって視線を上げると昨夜一緒に「コータロー」を熱唱した昌代が向かいの椅子に座っていた。彼女は絵葉書を書いていた。話し掛けると、彼女はぼくを認識するのに少し間があくほど驚いていた。
 大学四年の昌代は、こんな就職難の中、早々と就職先を決めて卒業旅行に東北へ来ていた。これから秋田へ出て、新幹線で東京に帰るという。彼女はチャキチャキの下町っ子で、「なつメロ」で見た若いころのチーターにどこか似ている。
 大館止まりの列車は、接続に一時間の余裕をぼくたちにくれた。昼飯どきだったので、駅前の田舎食堂に入り、ぼくはカツ重、昌代は冷やし中華を頼んだ。
 昌代は大学の話をしてくれた。彼女は初等教育を専攻しているが、先生にはなりたくないという。子供は好きじゃないらしい。それなら、何故、初等教育を専攻したのか聞いてみた。
 「小学校低学年のころ、掛け算のテストがあって〇点をとったの。そしたら、先生がその答案を黒板に張り出して、みんなの前で問題の説明をさせられたの。算数ってなんてイヤなものかと思ったわ。それと高学年になって科学教室っていうのがあって、何故かわたしの研究が代表に選ばれちゃったのね。そのふたつの出来事がずっと頭を離れなくて、教育に興味を持ったの。どうそのふたつがつながるか分からないけどね」
 昌代は自分でもわからない問題をそれほど気にすることもなく、目の前の冷やし中華を平らげた。ぼくも、しばらく考えてみたが、うまく答えが見つからなかった。
 再び駅のホームに向かう。彼女は秋田へ。ぼくは十和田南へ。お互いに米代川に沿って反対の方向だ。秋田行の列車が先に出るので見送る。彼女は変わっていて、ぼくではなくぼくの馬鹿でかい荷物の写真を一生懸命撮っていた。面白い子だ。
 やがてドアが閉まり、昌代が小さく手を振った。横一列に並んだ列車のガラス窓ががらんとしたホームを映して、そこに大きく手を振っている自分がいた。彼女の簡潔さ、素直さが清々しかった。そして、少し元気が出た気もする。ぼくは反対側のホームに走っていき、自分の列車に乗りこんだ。
 列車は川沿いに上流へと走った。なんとか下れそうな水量はある。それにしても、津軽海峡を越えただけでこんなに川の様相も変わるものだろうか。杉山に囲まれ、無数の小さな田んぼの中を流れる米代は、どうみても東北の川だった。
 四〇分ほど走って、列車は十和田南駅に着いた。誰もいない昼下がりの駅前は、小さなロータリーのアスファルトを白く浮き上がらせ、もうすぐお盆であることを辺りに漂わせている。汗が首筋を滴る。河原に出ようと思ったが、弘前でこの辺りの地図が手に入らなかったので、どっちが川かさえも分からない。ぼくは面倒臭さと暑さに負けて、タクシーに乗ってしまった。
 「大湯川と米代川の合流点へお願いします」
 すると運転手は五分も走らずに小さな河原に車を止めた。川がやけに小さいなと思ったが、その河原にテントを張った。後で分かったのだが、そこは大湯川の支流の小坂川だった。小坂川の詳しい地図を持っていなかったので、近所の人にそこから米代川まで堰がないか聞いてみた。日本の川は、わずかな距離でも、どこに人口の障害物があるか分からない。しかし、返ってくる答えは曖昧なものばかりで、かえって不安になった。まあ、それも当然だろう。みんな川の上で生活しているわけじゃない。
 川下りのための食料を買出しにいく。スーパーにはお盆用の花やご馳走がたくさん並べられ、客も多かった。ラーメンや缶詰、レトルト食品といったいつものメニューを籠に放り込んでレジに並ぶ。すると、前にいたおばあちゃんの籠に小さな花火セットが入っているのが見えた。きっと街に出た息子夫婦が孫を連れて帰ってくるのだろう。おばあちゃんはホクホク顔だ。ぼくは、ふと先月死んだ祖母のことを思い出した。
 ばあちゃんはもうこの世にいない。
 しかし、ここにいるみんなは、ばあちゃんの死など知ることもなく、いつも通り日常を送っている。そりゃ当然だ。それが世の中ってもんだ。現に、ぼくの知らない場所で知らない人がこの世を去っても、ぼくの生活に影響なんか何もない。それでも、これは確かだ。ばあちゃんはぼくの中にいる。その強い確信が、ばあちゃんの死をどこかへ追いやり、まだ、どこかで元気にしているんじゃないかと錯覚させた。
 その夜から二日間、雨が降り続いた。
 摺り寄ってくるようないやらしい梅雨の雨をやり過ごし、三日目の朝、ようやく出発。
 支流の大湯川は、増水して、流れの起伏が読めないほどまっ茶色に濁っていた。そして、出発早々、川の真中にあった隠れ岩に舟が張りついてしまった。水の力は、想像以上に強く、四メートルの舟が船体一杯に流れを受けて、身動きが取れなくなってしまった。流れに押されて、舟は斜めに傾き、コーミング(人が座る穴)から大量の水が入って来た。ああ、ひっくり返る。そう思いながらも、体重をかけて、力いっぱいパドルで岩を突くと、なんとかすり抜けた。
 本流に出ると濁りは少しましになったが、流れがかなり速い。川を囲む山々は高くはないが起伏に富んでいて、なかなか眺めがよかった。しかし、次から次へと波の高い瀬が出てくるので、そうのんびりもしていられない。何度も頭から飛沫をかぶり、あっという間にずぶ濡れになってしまった。これも増水のせいだろう。
 大湯川が米代川に流れ込んだ合流点から一〇キロほど下ると十二所の堰にさしかかった。十二所の町はコンクリートで垂直に護岸されていて、川から岸に逃げることは出来ない。そこに現れた川幅いっぱいの堰。流れの中央に大きな魚道があり、増水している流れはコンクリートの凹凸で複雑に砕け散っている。あれでは通れない。ぼくは、排水溝の前に横たわっていた倒木によじ登ってルートを探した。しかし、ポーテージ(迂回)は出来そうにない。こういうときは、焦らず様子を見たほうがいい。倒木の上に腰を下ろし、しばらくぼーっと眺めることにした。すると、右隅の段差が土砂で埋まり、他のところに比べて落差が小さくなっているのに気づいた。ぼくは、舟に乗り、流れを斜めに遡って魚道の上を通り抜け、勢いに任せて右隅の段差に飛びこんだ。こういうときに肝心なのがスピードだ。怖いからといって漕ぐのをやめると安定を失って沈する。後ろに仰け反るほど、必死に漕いだ。すると、舟は強い流れに吸い込まれ、後ろの舟底を少し擦っただけで、なんなく堰の下に吐き出された。
 十二所の堰を越えたら、頭にはもう温泉しかない。このすぐ下流に大滝温泉があって、そこで風呂に入りながらキャンプすることに決めていた。ところが、実際、温泉街が見えてくるとぼくは幻滅した。町はコンクリートで護岸されているか、川面まで草木が覆い、岸に上がることが出来ない。川を見下ろすいくつもの展望風呂の曇った大窓を眺めながら黙って流されていくしかなかった。川は意地が悪いほど速く流れ、小さな温泉街はあっという間に上流に姿を消した。
 温泉を過ぎてしまうと、すっかり漕ぐ気も失せて、もう、どこでもいいからさっさと陸に上がってしまいたくなった。しかし、増水のためか河原もなく、ひたすら流されていく。
 米代には、扇田にもうひとつ堰がある。そこは十二所の堰と違い、ゲート式の水門を持っていて規模が大きい。落差も五メートルはある。下っていて、前方から滝のように大きな轟きが聞こえてくるというのは、あまり気持ちいいものではない。こんな大きな堰では、そのまま漕ぎ下ることは出来ない。アユも鮭も上れないだろう。全く邪魔な代物だ。
 右岸に並ぶテトラの隙間から無理やり上がり、荷物を担いで堰の下まで運ぶ。堰は、怒鳴りあっても話が聞こえないほど大きな音をあげて川を吐き出していた。そのすぐ横で男が数人、堰の下で跳ねるアユを網ですくっている。聞いてみると、友釣りに使うおとりを獲っているのだという。男は「今年のアユは小さくって駄目だ」とぼやいた。そこにいた酔っぱらいのおやじが、ぼくを見て「ここでキャンプしろ」といったが、こんな醜い堰と耳をつんざくような轟きを聞きながら眠れるわけがない。さっさと荷物をまとめてやり過ごした。
 川はこの堰を境に中流域に入る。中州で枝分かれした流れは浅く、山は遠のいた。しかし、相変わらず、キャンプが出来るような河原がない。
 夕方になって、やっと長木川の流れ込みに広い河原を見つけた。テントを広げていると、下の方で投網を振る小太りの中年男がいた。「大漁ですか」と聞くと「今年のアユは小さい」と扇田の堰で会った男と同じことをいった。ここでなにをしているのかと聞くので、九州までいく途中だというと「夢があっていいな」と、魚篭から天然アユを七匹出してくれた。小ぶりではあったが、銀色に輝く魚体は米代の光だ。ありがたい。火を起こし、天ぷらにして食べる。この苔ばかり食べるベジタリアンは、身が引き締まっていて、なかなかうまかった。ビールがないのが残念だ。
 西の沈殿した大気と曇り空の間に沈もうとする太陽が現れ、オレンジ色の太い帯を浮かび上がる。夜が辺りを包み込むまで、上流でドボン…ドボン…という音が聞こえていた。誰かがコロガシ漁をしているのだろう。ラジオが秋田県全域に大雨洪水注意報が出されていると告げた。道理で、川を下っているひとに会わないわけだ。八月も中旬なのに、東北はまだ梅雨が明けていない。
 翌日、天気予報ははずれ、梅雨とは思えないほど気持ちいい晴天に恵まれた。朝、テントの前を通りがかった釣り師が「今日は同窓会があるんだ」といっていた。八月一四日、日本はお盆真っ只中だ。
 川は、長木川が流れ込んだおかげで、澄んだ青い流れに変わっていた。空には、真っ白な入道雲が高く高く立ち上っている。荷物をまとめていると、すぐに汗だくになってしまった。ここから川は、再び山間部に入る。
 山を縫って流れる川は蛇行して心地よい瀬をつくり、強い陽射しに照らされた森は緑よりも影を濃く落とし、時折、吹く風に白い葉がひるがえる。ぼくは、久しぶりに見る北海道とは違う濃厚な自然に酔いしれた。この川は、堰で寸断された上流より下流のほうが気持ちよく下れるようだ。
 昼近くに早口という町にさしかかった。川に胸まで浸かって友釣りをしている連中がいる。なるべく邪魔にならないように横を静かに通り過ぎると「オイ!」と呼びとめる声がした。いやいや振り向くと「がんばってな!」と叫ばれた。都会に多い悪態釣り師(カヤャッカーにもマナーの悪いやつはいるが)ばかり見てきたぼくには驚きだった。大きく手を振って答えた。
 この辺りからアユ師がめっきり増えた。川の両側に電柱のように並んで釣っている。これが小さい川だと丈の長いアユ竿に引っかかってしまうので、竿を引っ込めてくれない限り川岸を歩いて舟を曳かなければならない。しかし、川幅が二〇〇メートル近くあるので、ぼくは川の真中をゆっくり下ることができた。それでも、あまりギャラリーが多いのは気分のいいものではなかった。
 町を過ぎると再び山間部に入った。阿仁川の流れ込みにさしかかる。川下りや鱒釣りで有名な川なので、ここでキャンプしながら、ゆっくり釣りをしようと思っていたが、流れ込みはあまりきれいではなかった。地図を見ると、少し上流にふたつ堰がある。そのせいかもしれない。そのまま通りすぎる。
 川が右に大きく蛇行したところに広い河原があったので、上陸。ここは水面から三メートル以上あった。それだけ水が増えることもあるということだ。河原に降りていた階段を上がると、神社に出た。どうやら、ここは川と関係の深い町だったようだ。大雨洪水注意報も出ていたので、なるべく高いところにテントを張る。
 すると、体の細い老人が来て、ぼくの舟をしげしげと見詰めた。挨拶代わりに「能代(河口の町)まで二日くらいでいきますかね」と尋ねると、老人はキッパリ「一日でいける」といった。老人は、昔、山から切り出した材木をここで二〇間の筏に組んで能代まで運ぶ船頭をしていたという。神社の向かいには、由緒ある旅館のような立派な建物が見えた。それが、材木組合の宿舎だったらしい。昭和八年築の立派な建物だが、いまは雨戸が閉められ、どこか幽霊屋敷のようにも見える。老人はほんの一〇年前まで筏が能代までいっていたといった。一〇年というのは老人の思い違いだろうが、ぼくにはその勘違いが、自分の仕事への誇りと、そのころの感覚が色あせていない証なのだと思った。
 「今年の川はいつもより水が多い。これなら一日で能代までいける」
 老人は、静かにいった。
 荷物をすっかりテントに押し込むと、老人から教わった銭湯へいくことにした。幹線に出て、親指を立てる。すると、シルバーのカローラが、かなりぼくを通り過ぎてから止まった。拾ってくれたのは、秋田へ帰る途中の父子だった。ぼくを見た子供が、どうしても乗せてくれといいはったらしい。いい子だ。
 銭湯は、テントを張った河原からひとつ蛇行した下流にあった。
 浴室は真っ白い湯気で覆われ、人はまばらだった。それにしても、久しぶりの風呂だ。体にこびりついた垢を落としてから湯船に飛び込む。かなり熱かったが、こわばっていた体の緊張が頭の天辺から抜けていく。うれしくなって、足の指を水面に出して、前後に動かし、お湯を弾いて遊んだ。気持ちがいい。
 しかし、湯船から上がろうとしたとき、激しいめまいが襲ってきて、ぼくはその場にへたり込んだ。体力がなくなっている。そして、鏡に映った自分の体を見て言葉を失った。
 アバラ骨や鎖骨が浮かび上がり、げっそりと痩せている。その場から一時間も動くことが出来なかった。このままでは、九州まで体がもたない。
 河原へ戻る帰り道、辺りは夏の夕暮れを思わせる茜色に染まっていた。ぼくは、大きな火を焚いて飯を炊いた。今日のおかずはシーチキンだけ。これだから駄目なのだ。もっと精をつけなければ。そう思いながらビールを呷る。
 最近、すっかり聴く習慣がついたラジオの気象情報は、今年の東北地方は梅雨明けしないと発表した。これは気象庁が天気予報をはじめて以来初めてのことらしい。まったく、いい年にこんな旅をやっているもんだ。そう思うと、ぼくの気持ちはますます南へと先走ってしまう。
 翌朝、テントから顔をだすと、川は濃霧で覆われていた。中年の男が河原に三本竿を立てて鯉釣りをしている。話しかけると、おじさんはジェームス・ボンドを秋田弁にしたような渋い声でしゃべった。ジェームスによると、いつもの年より川の水位が二メートルくらい高いという。鯉釣りはもっと水が引かなければいけないらしい。だからアユも駄目なのだろうか。
 川に出て、昨日入った銭湯を過ぎると流れはグンと太くなった。景色も開けて下流色が濃くなってくる。どんよりと曇った空の下、黙々と漕ぐ。早く下りきりたかった。そして、休みたい。
 富根橋の下流にさしかかると、川幅いっぱいにブロックが入れられていた。たまたま、ぼくは運よくブロックの切れ目から通ることが出来たが、知らないで川の中央にいたらひっくり返る恐れがある。ブロックは、自然石と違い、水の流れを塊の間に吸い込んでしまうので、張りついたら、まず動けなくなる。危険きわまりない。なんのために入れたものなのだろう。不思議でならない。
 昼過ぎ、暗い曇り空を一面に映した川の向こうに能代の工場地帯が見えてきた。あの町を越えてしまえば日本海なのだが、ぼくにそこまでいく気力は既になかった。郊外の河川敷で上がることにした。もう「下った」という感慨にふけることもなく、事務的にことをこなす。ただテントを張り、ただ舟を畳んで、ただ次の目的地である岩手県の小本川に荷物を送った。
 夕方になり、ガラガラに空いたラーメン屋でまずいラーメンを食べ、原っぱの真中にあるベンチに横になった。すりガラスのように鈍く光った夜空。最近、晩にはかけているラジオからはゲンズブールのシャンソンが流れていた。東能代の方で、ひとつだけ赤いネオンが闇に煌煌と浮いている。東京のみんなはどうしているだろう。怠惰が、頭だけを残して体を溶かし、地中に消し去ってしまうような錯覚を覚える。コウモリがヒラヒラと飛んでいる。ゲンズブールの太い歌声が消えると、雨粒が頬を刺しはじめた。テントにもぐり込み、湿気の中で丸くなって眠った。
 雨。アメ。あめ。



コースアウト

 翌朝、雨足はますます強くなり、風も四方八方に吹き荒れた。テントの底地からは、じわじわと雨水が染み込んでくる。米代川は、灰色に沈んで黙りこくっていた。ぼくは、ヘトヘトで無気力だったが、ひとつだけ、動く力が残っていた。「ここから逃げ出したい」という気持ちだ。
 強風と雨の中、テントを畳む。全てのものが濡れ、ザックはずっしりと重い。そいつを担いで土手を這いあがり、東能代に向かうバスに乗った。
 今日は、お盆休み最後の日曜日で、駅の構内は雨と人気で蒸し返っていた。函館で買った青春一八キップを見せてホームに入る。ぼくが乗らなくてはいけないのは東に向かう盛岡行の列車だ。しかし、飛び乗ったのは、盛岡とは正反対に向かう秋田行の列車だった。
 山形県に酒田という日本海沿いの町がある。そこにお袋の実家があった。八〇を越した爺ちゃんと叔父が住んでいる。ぼくの足が向かったのはそこだった。固い屋根と真っ平な畳み、そしてなにより、ぼくを受け入れてくれる人が恋しい。不安定な天候がそんな気持ちに拍車をかけた。
 ぼくが乗った列車は各駅列車だったせいか、あまり人は乗ってこなかった。昼過ぎに秋田に着いたが、爺ちゃんに「これからいく」と電話をして、昼飯も食べずに酒田行の列車に乗る。とにかく早く酒田に着きたい。
 列車が日本海に出ると、大時化の海が車窓いっぱいに飛び込んできた。遠浅で大きくなった波は、海水浴場の砂浜を丸呑みにして国道沿いの護岸にあたり、飛沫を巻き上げている。しかし、固いガラス窓に隔たれているぼくには、その光景にリアリティーはなく、ただ、ぼんやりと「昨日、海まで出なくてよかった」と思うだけだった。海から吹く暴風で列車が揺れると体からスカスカと虚しい音が聞こえてきそうだ。ぼくは、からっぽだった。いや、何か得体の知れないものではじけれそうになっていたのかもしれない。



自分のスピードで

TF032.jpg 夕方、酒田の家に着くころには雨も小降りになっていた。二年ぶりに会う爺ちゃんは元気そうだった。禿げた頭。酒でテカテカになった肌。畑仕事で凸凹になった手。足取りだけはさすがに年を取ったが、その他は昔と変わらない。その夜はふたりで晩酌をして、とりとめもない話をした。突然、孫が転がり込んできたことにも慌てず、静かに受け入れてくれる。親でもなく、他人でもない。そんな関係がいまのぼくにはとても必要な安らぎをくれた。
 爺ちゃんの生活は至ってマイペースだ。朝四時か五時に起きて畑へいき、七時ごろ朝食をとり、それから朝寝をする。一〇時ころに起きると一日の用事を済ませ、昼食になる。その後、昼寝をして数時間自由な時間があり、夕方四時過ぎに町にある温泉へいく。戻ってくると晩酌をしながら夕食をとり、午後七時ころには寝てしまうのだ。これといってすることのないぼくは、起きる時間と寝る時間意外は行動を一緒にした。
 そして、この何十年と続いている爺ちゃんのライフ・スタイルを見て思った。いま、ぼくがしている旅のペースは、自分の心のスピードより遥かにはや過ぎる。ぼくのスタイルは、一箇所をじっくり味わうやり方だ。今回のように次から次へと川をハシゴするやり方はしたことがない。天候や金銭の余裕とは別に、なにかに追われて、あるいは引っ張られているような気がしてならない。これじゃいけない。九州まで絶対にいかなければいけないわけじゃないんだ。もっと自分のペースを大事にしなきゃいけない。焦らず、ここでしっかり自分を取り戻してから再出発しよう。そう思った。
 毎晩、晩酌の時間になると爺ちゃんの昔話が始まる。普段はあまりしゃべらないのだが、酒が入ると人が変わったように饒舌になるのだ。ぼくは、それが好きだった。自分が知らない時代を、いまそこにいる爺ちゃんはどう生きてきたのか。とても興味深かった。
 ある晩、酔ってろれつの廻らない爺ちゃんから聞いた話は、戦前に東京へ出たころの話だった。
 爺ちゃんは、学校の先生の紹介で風呂沸し機の焼玉エンジン(ボイラーのようなもの)の会社へ入った。しかし、担当したのは焼玉エンジンではなく、ある洗浄機のサーモスタッド(自動温度調整機)のメンテナンスだった。
 当時、東京にはまだ遊郭があった。遊郭には、ことを済ませた男女が性器を洗う機械があったらしい。それは、男女別に違う形式のものがあり、男用はジョウロのようなありきたりのものだったが、女用のものはノズルをあの中に入れて洗うようになっていたという。そのサーモスタッドを調整するのが爺ちゃんの仕事だった。しかし、当時、十代の青年だった爺ちゃんは、遊郭の女性たちによくからかわれた。それがいやでいやで仕方がなかったという。いまになって聞いてみると、まったく愉快な話だ。
 そして、ぼくが釣りの話をしていると、こんな話もしてくれた。
 家の近くには荒瀬川というコンクリート護岸に埋め尽くされた川が流れている。終戦直後、爺ちゃんがその上流で農業用水をひく工事をしていたころの話だ。
 「あのころはよ、みんな車など持ってなかった人が多かったからよ、山の仕事はみんな小屋さ泊り込みで仕事したんだっけの。夜になると川さいってイシモチ(ゴリの地域名)さ掴まえてよ、その辺のササ竹さ切って爪楊枝くらいに細く削ってよ、イシモチさ刺してセメント袋の紐さ結んで大きな石につけてよ、夜に川へドボン!って放っておくんだ。すっと、翌朝こんなでけぇイワナさかかってたもんだ。ははははははは」
 爺ちゃんは、笑いながら両手を五〇センチくらいに広げてみせた。
 ぼくも小さいころ、荒瀬川でよく釣りをした。しかし、そのころからでさえ、川はだいぶ変わった。自然のままの岸が消え、水が減り、魚がいなくなった。爺ちゃんの大イワナの話も昔話なのか。できることなら、タイムスリップして昔の荒瀬川を見たいと思った。
 酒田の家にはもうひとり、叔父が住んでいた。ドカタをしていて、朝は早く、帰りは遅い。とても物静かな人柄であまり話をすることもなかったが、昔からぼくを可愛がってくれていた。そばにいるだけで気持ちが和らいだ。そんな叔父のやさしさが好きだった。
 転がり込んで一週間たったころ、叔父が仕事から帰ってくると居間に入ってきて、ぼそりといった。
 「船で釣りにいくか?」
 叔父は、エンジン付きの小さな船を持っていた。休みの日も家にいないのはそれで釣りにいっているからだ。ぼくは、ふたつ返事で叔父の車に乗り込んだ。
 船は、港ではなく、郊外の橋の下に停めてあったので、明かりもなく真っ暗だった。岸から船に飛び乗ると、ぼくのカヤックより大きな船はふわりと揺れて存在感がある。叔父は、舟の中央に置いた自動車用の椅子にぼくを座らせると、エンジンをかけにかかった。
 プルルルルン。プルルルン。
 「おかしいなぁ」
 しかし、なかなかエンジンがかからない。結局、二時間あちこちをいじりまわしてもトラブルの原因さえわからず、家に帰ってしまった。それでも、ぼくは楽しかった。暗がりでお互いの顔も見えなかったが、たしかに叔父はそばにいてエンジンをいじっていた。退屈しのぎに掛けていたラジオからは心地よいジャズが鳴りつづけ、ぼくはすっかりくつろいでいた。
 次の晩、叔父はもう一度「今度は大丈夫」とぼくを夜釣りに誘った。その通り、船は一発でエンジンがかかった。
 街灯もない真っ暗な水路を、自転車くらいのゆっくりとしたスピードで下りはじめる。水路はやがて住宅街に入り、低い橋をいくつもくぐっていった。黒い防風林を抜けると、突然、潮の香りがぼくたちを飲み込んだ。港に出たらしい。隣接したコンビナートが白やオレンジの明かりをつけて夜空へと伸びている。港の中は凪いでいて、船は徐々に速度を上げた。沖には長い防波堤があり、叔父は防波堤の先端で船を止めた。はじめから、ここにくると決めていたようだ。コンビナートの明かりに反射する波の中で、真っ黒な防波堤が大きくのしかかってくるように見える。叔父は、自分で作ったという小さな竿をぼくに貸してくれた。懐中電灯でゴカイを鉤につけ、叔父が手本を見せる。仕掛けには大きな錘がついていて、海中に糸を垂らして、ゆっくり送りだしていく。すると、錘がなにかに当たる手応えがある。それが海底のテトラで、糸を二巻きから五巻きしたところで糸を固定する。その辺りが魚のいるタナだというのだ。
 はじめは、どれくらい鉤を沈めればテトラに届くか分からず、おっかなびっくり糸を出していたが、しばらくすると要領が分かってきた。すると、早速、ぼくに当たりがきた。鱒用の竿とくらべてかなり固いので、よっぽどの大物がかからないと上げるのに苦労しない。それでも、闇の中で水面から魚を引っこ抜くというのは、手元に来るまでなにが出てくるか分からないので、昼とは違ったスリルがある。恐る恐るたぐり寄せてみると、メバルだった。それから、またメバル。それからソイとたてつづけに、ぼくにばかり魚がかかった。叔父がぼやく。
 「そうなんだぁ。初心者を連れてくるとビギナーズ・ラックでそいつばっか釣れるんだよなあ」
 叔父は闇の中で苦笑いしていた。
 そのとき、ぼくは、小学生のころ、叔父が荒瀬川にウグイ釣りへ連れていってくれたことを思い出した。六連のハリにミミズをつけて川に流すと、面白いようにウグイが釣れた。二〇分の間に三〇匹近く釣り上げた。しかし、そのすぐ横で釣っていた叔父には一匹も釣れなかった。叔父は同じことを思い出して苦笑いしたのだろうか。
 結局、叔父は、この夜も一匹も釣れなかった。ぼくは、ほかにソイをもう一匹と石鯛を一匹釣った。
 叔父は決して速度を上げず、ゆっくりと来た航路を辿っていく。やがて水路に入り、叔父はサーチライトの向きを直すようにぼくに指示していた。
 ドカン!
 突然、背後でなにかが飛び込んだ。
 「うわあぁぁぁ」
 叔父が悲鳴をあげる。慌てて振り向くと、魚が一匹、甲板の上で飛び跳ねていた。
 「なんだ。ボラか…」
 拍子抜けした声で叔父がいった。
 ボラを掴み、黒い流れに投げ込むと、手に生臭さが残った。
 「まったく、今日はなんて日だ」といってふたりで大笑いした。なぜかしんみりと暖かい気持ちになる。それが叔父の人柄なのだろう。
 夜釣りが終わると、庄内地方は再び天候が崩れ、雨の日が続いた。叔父も、また無口になり、ときどき声をかけるくらいになった。ぼくの体調もなかなか回復せず、体の芯がだるい。外にも出れず、家でゴロつく毎日を送る。テレビでは毎日、世界的な株の暴落と大雨のニュースばかりを報道していた。ぼくがよく下りにいく那珂川は、上流で八〇〇ミリの記録的な集中豪雨を観測し、見慣れた河原は洪水に飲み込まれていた。なにひとついい素材がない。
 この旅はどうなるのか。
 この旅を終えたとして、一体なにがあるというのか。
 ぼくはどうなってしまうのか。
 知らず知らずのうちに闇がぼくの心に忍び込んでくる。
 ALASKA
アラスカへいけばよかったのだろうか。
 いくつか簡単な英語のフレーズを頭の中で繰り返すと、なぜか心が溶けていく。ぼくのいくべきところは日本ではないのか?自分のこころを全力で駆け巡らせることのできる空間はどこにあるのか?
 旅?日本?夢?現実?自然?本?酒?電話?
 そんなふうに自分を問い詰めるとき、なにか足元になまぬるいものを感じる。それが首まできたらおしまいだ。
 焦るな。焦ってもどうにもならない。
 夕方になると、爺ちゃんとぼくは町外れにある温泉にいった。
 ある日、湯船に浸かっていると、ひとりの老人がぼくの目の前で尻を見せながら上がっていった。その尻は、張りをなくしてブルドックのほっぺのように垂れ下がっていた。ぼくの尻もいつかあんなふうに垂れるのだろう。自分がそんな年齢になったとき、ぼくは自分の人生に「これでいいんだ!」と満足できているのだろうか。そんな、答えも出やしないことを考える。ぼくは、幻滅の池に転がり落ちていた。
 出口なんてあるのだろうか。
 そうして、ない頭を絞って考えついたのがバイクだった。
 重い荷物を背負って行き先の読めないヒッチをしたり、電車やバスを乗り継ぐのには飽き飽きしていた。バイクなら重い荷物も荷台に載せ、いつでもどこでも自分の好きなところへ自分でいける。そして、吹きさらしの風を感じ、季節や土地でしか味わえない匂いを思いっきり吸い込むことができる。これだと思った。
 そう決まると、ない財布から二万円という金額を捻りだして、近所の自転車屋やバイク屋をまわりはじめた。しかし、バイク屋では「そんな金額でバイクなんか売れるか!」とどこでも門前払いだった。ところが、自転車屋には、自転車に混ざって、結構、いらなくなったバイクが紛れていたりする。候補にあがったのが、ぼろぼろに錆びたホンダのCD50(50cc)とヤマハのN3という90ccだった。どちらも三万円。希望価格をこえているが、これが底値らしい。結局、排気量の大きさでヤマハに決めた。よく警官や集金のおじさんが乗っている黒いビジネス・バイクだ。キャリアーも新聞配達のバイクについているような大きなものなので、大荷物を積むのに丁度いい。そして、そのだささが気に入った。走行距離は、すでに一五〇〇〇キロを越えている。最後までもつだろうか。
 小さくて黒いこのバイクを、ぼくはマードゥと呼ぶことにした。
 それは、読み終えたばかりの小説に出てきた女の子の名前だった。彼女は、黒人の小さくて魅力的な女性だ。うってつけの名前だ。ナンバーは叔父の名前を借りてとった。
 マードゥを購入してから、ぼくの気持ちは、自然と前をみるようになっていた。岩手に送ってしまったカヤックを取り寄せ、修理する。余計な荷物は処分した。
 月も変わって九月に入り、ある夕方、晩酌をしている爺ちゃんに二日後に出発すると話した。酒でほろ酔いになった爺ちゃんがいった。
 「そうか。出発するか。いやあ、本当におまえが来てくれて助かった。おかげでいろいろな話もできたし、知らないさまざまな食べ物(スパゲティのこと)も食べれた。金もそんなないけど、孫のおまえに手間かけたかもしれないけどの…ありがとう」
 なんてこった!アドバルーン級の水風船が頭の上で割れた。
 いとおしくて仕方がなかった。
 貧乏旅行をしている自分にとって、爺ちゃんと一緒にかかる費用がわずらわしく思えるときもあった。そんなことを感じていた自分が恥ずかしい。そして、自分の三倍ちかく生きている爺ちゃんが、これだけ素直に自分の気持ちを口にできることに胸を打たれた。ぼくが爺ちゃんにして上げられることはなんだろう。爺ちゃんの幸せってなんなのだろう。もっと、元気でいてほしい。
 爺ちゃんは、旧友たちが次々と逝ってしまうのを「淋しい」という。むかしは、あんなに威勢のいい男だった爺ちゃんがだ。年とは人を弱くするのか。いや、やさしくする。それはいままでの経験からか、自分の先を感じ取るからなのか?ああ、血の登ったいまの頭では結論なんて出やしない。それに出す必要もない。ぼくがいま、爺ちゃんにできることといえば、真新しいシャツを買ってあげることくらいだった。そして、こういうんだ。
 爺ちゃん、大好きだ!
 水風船が腹に沈んで、涙が込み上げた。
 そして、その晩、胃が絞られるような痛みに襲われ、中のものを全部吐いてしまった。
 この痛みがなかなかとれず、結局、出発を延ばすことになった。せっかく出口を見つけたと思ったのに、また立ち往生だ。やはり、スタミナがない。
 この腹の調子をなおすのに六日もかかってしまった。



♪春の小川♪?/滝渕川・牛渡川

TF037.jpg やっと体調が上向きになってきたころ、ぼくはマードゥに乗って、鳥海山の麓にある落伏清水へ出かけた。この辺りの川は鳥海山の湧水を水源にする川が多く、小さいが水質は抜群にいい。流れは、透き通った水の中に魚や水草を閉じ込めて、まるで透明の和菓子のようだ。落伏清水もそのひとつで、水を集めた流れは滝渕川となり、もうひとつの清流、牛渡川と一緒になって本流の月光川に注いでいる。滝渕川は、役場のデータにも記録がないほど小さな川だが、流れにはバイカモの花が咲き乱れている美しい小川だ。
 このふたつの小さな川に沿ってマードゥを走らせた。鳥海山を駆け下りた斜面はここで平野に変わり、辺りは田園に囲まれていた。澄みきった流れに揺れる水草から、時折姿をあらわす魚を見ていると心が騒ぎ出す。そうして、砂利道を月光川の手前まで来ると、胸まであるウエダー(ゴム長)を履いた釣り人がふたりいた。
 「釣れますか?」と話しかけてみると、男は、釣りではなく牛渡川の水中生物の生態調査をしているといった。車の中を覗くと無数の試験管の中にゴリや鯉、それらが食べるたくさんの種類のイトメ(イソメに似ている)がいた。聞いてみると、この川には、ほかにヨシノボリ、ヌマカレイ、ウグイ、アユ、イワナ、ヤマメ、ニジマスがいるという。
 ふたりは、ぼくにもウエダーを貸してくれたので、一緒に川に入った。腰まで水がくる流れの中をゆっくりと歩くと、時折、掌くらいのヌマカレイが砂煙を上げて逃げるのが見える。ふたりは、川に浸かりながらこんな話をしてくれた。
 都会の人たちが、この川に来て「いいところだから残してくれ」という。それはありがたいが、自然保護というのは調査からはじまってそれを法案化しなければならない。都会の人がいっても、実際にそれをするのは地元の人なんだ。地元には自然保護とは別に行政がからんでくる。簡単にいくもんじゃない。実際、この川でも、ポンプを使って下流から田んぼに水を汲み上げている。しかし、この辺りは田んぼから直接湧いてくるほど水が豊富なんだ。川から水を引く必要なんてない。ところが、誰もそれを「いらん」とはいえない。それを断ると国から補助金がもらえなくなるからだ。だから、ここの人たちは無意味に自然を壊すと知りながら開発をさせているんだ。結局は、土木優先の行政がそうさせているのだから、これを裏返すのは大変だ。なんともやるせない。
 この人たちはボランティアで調査をしていた。この川をなんとかしたいと思う気持ちがひしひしと伝わってきた。しかし、こういう調査は行政が費用を出してやるのが当然ではないのか。以前、ぼくが白神山地を歩いたとき、白神の哺乳類調査をしている東北大学の教授に会ったことがある。丁度、白神山地がユネスコの世界遺産に登録されたばかりのころで、その調査も登録に促されて始まったものだった。しかし、教授は予算がケタ違いに足りず、助手は自腹で雇うしかないといっていた。そんなことから見ても、行政がいかに環境保全に無関心かが分かる。
 田畑を守ることからいっても、河川の整備や護岸は必要だと思うが、それを画一的にコンクリートで固めたりするのは脳がない。その地域に応じて必要なだけの処置をすればいいのだ。
 気がつくと爺ちゃんと風呂にいく時間を過ぎていたので、慌てて帰ることにした。しかし、地道に環境保護活動をしている人と現場で出会って、はじめてその難しさを肌で感じたような気がする。
 翌日、ぼくはいてもたってもいられず、爺ちゃんの軽トラを借りてカヤックを積み、滝渕川へ向かった。その日は、雲ひとつない快晴で、庄内平野の広い空に鳥海山が映えている。
 落伏の下に車を停め、舟をバイカモが咲き乱れる流れに乗せる。長さ四メートルの舟がまわれないほど川幅が狭い。深さは、平均して二〇から三〇センチで深いところでも一メートルくらい。腰を下ろすと途端に心地よい速さで舟が走り出した。田んぼからぐんと低くなった細くて小さい川は、景色がめまぐるしく変わる。そして、惹きつけられたのは山や土手といった陸の景色ではなく、水中の世界だった。昨日、調査をしていたふたりがいった通り、たくさんの魚が目に飛び込んでくる。カジカ、ドジョウ、アユ、イワナ、ヤマメ。魚は、小さな流れの中にうごめいて、ぼくの舟に驚き、水面を叩き、飛び跳ねるやつもいる。川床の隅々まで見えるほどの清水が、小さな瀬に入ると水中の世界を歪ませてキラキラと太陽の光に輝いた。この川にぴったりの唄がある。「春の小川」だ。ぼくは、無意識にその唄を口ずさんでいた。
 全長が二キロもないこの川の下流に入ると、葦の林に入る。両脇に生える葦をパドルで掻き分けながら進むと、突然、川床から一メートルはある丸々と太った真鯉が飛び出してくる。周りには、ブルッ、ブルッ、ブルルと切れのいい羽音をたてて無数の赤とんぼが飛んでいる。「とんぼのメガネは七色メガネ…」今度は、そんな唄を思い出した。なんだか、日本唱歌を思い出させる川だ。
 二〇分も下ると牛渡川との合流点に出た。牛渡川を遡上する。こっちは、水面が盛り上がるほどの水草が流れを抱え込んでいた。漕ぐと、シュー、シューと舟の底にあたる水草の音がする。水に洗われた蒼い草の表面がキラキラと光る。ぼくは、ひかり輝く草原の上を漕いでいるようだった。
 月光川に合流する手前で陸に上がった。昨日、環境調査をしていたふたりに会った場所だ。小一時間の短い川下りだったが、心のもやもやがとれてしまうような爽快な思いができた。



大俣のイワナ/荒瀬川

TF034.jpg 明日、酒田を出発するという日になっても、ぼくの中に引っかかることがあった。それは、爺ちゃんが晩酌のときに話してくれた荒瀬川上流の大イワナだ。その話が四半世紀も前の終戦直後のことだってことは分かっている。その時代から川が様変わりしたことも知っている。ぼくが釣りの真似事をはじめた小学生のころと比べても、この辺りの川は変わった。水が減り、自然の岸が消え、魚も姿を消した。もうイワナなんていないかもしれない。それでも、なぜかその話が気になって仕方がなかった。
 その日、ぼくはマードゥに乗って、爺ちゃんがイワナを獲っていた場所より更に上流にいく事にした。爺ちゃんは、「そんなもんもういない」と笑った。
 見慣れた川の景色を遡る。やがて、本流を越えて支流の大俣に入った。ここは白玉から谷を一本違えた筋だ。谷は急激に狭まり、山が頭上からかぶさってきて、バイクは冷たい影に飲み込まれた。驚くほどの密度で迫ってくる森のみずみずしさに喉が鳴る。川は、深い谷に沈んで見えなくなってしまった。
 しばらくいくと高さ五〇メートルほどの崖に出た。フエルト底のすべり止めがついた釣り用タビを履いて斜面を這降りる。川は、幅が広いところでも一〇メートルくらいしかなかったが、家の近くを流れている川と同じとは思えないほど水が輝いている。流れに足を入れると痺れるほど冷たい。少し青みがかった淵は、巨大な宝石のようだ。
 こんな川を目の前にしたとき、ぼくは胸が高鳴る。いてもたってもいられなくなり、慌ててロッド・ケースから4ピースのフライ竿を取り出した。
 まず、眺めのきく下流で毛鉤を投げてみたが、反応はまったくなかった。ウグイさえもかからない。下流はすぐに諦めて上流へ向かう。ぼくは腕で釣らずに足で釣る(下手なだけか…)。
 上流は、三〇メートル間隔で淵をつくっていた。しかし、どんなにいい淵をみても魚影が見当たらない。流れをひとつ曲がると崖上の白いガードレールも見えなくなり、辺りは森の静寂と川のせせらぎで溢れ返った。目の前には清水寺の石段のように緩やかな階段状の流れが谷の奥まで続いている。両岸に切り立った岩壁に張り付いている雑木が、流れのすぐ上まで枝を垂れ下げている。少し腰をかがめて流れを遡った。岩の落ち込み。流れの芯。巻き返し。ひとつひとつポイントに毛鉤を落としていく。そして、一時間ほどたったとき、ざら瀬に流した毛鉤にアタリがきた。ゆっくり合わせると一五センチの岩魚だった。とりあえず、欲求不満は解消した。しかし、ぼくは爺ちゃんのいっていた大岩魚を釣りたいのだ。更に、上流へ。
 しかし、それからまた釣れなくなった。爺ちゃんと一緒に昼飯を食べる約束をしているので、昼までに帰らなければならない。そろそろ時間だ。そう思いながら、あとひとつ上の淵までいってみようと、岩に這い上がりながら瀬の駆け落ちに毛鉤を落としたときだ。
 水が割れた。
 大きなカゲロウの毛鉤が水中に吸い込まれ、ガツンと重い手応え。一挙に竿が絞り込まれる。ラインが上へ下へと走り出した。清流の中を駆け巡る緑色の鋭い魚影。一瞬にして、心は蒸発した。頭の天辺から足の先まで、ピリッと感覚が研ぎ澄まされる。焦る気持ちを押さえて慎重にリールを巻いていくと、やがて、獲物がうな垂れてきた。
 薄茶色の魚体に小さな白い斑点が散らばり、エラから尾っぽにかけてこげ茶色の点線がある。なぜかヤマメのような楕円形のパンマークが薄っすらと残っていた。爺ちゃんのいっていた大岩魚には及ばないが、尺をこえる立派な岩魚だ。
 それから、たてつづけに尺を越える岩魚が二匹釣れた。しかし、必要なのは二匹だけだ。一匹は流れに返した。また来るまで元気でいろよ。エゴ丸出し。
 獲物を小枝に通して、バイクのところへ戻る。うれしさのあまり、つい駆け出して、岩につまずき二回も転んでしまった。
 家に持ち帰り、魚の腹を開いてみると一匹がタマゴをもっていた。それを見た爺ちゃんは「久しぶりに岩魚のイクラが食べられる」と喜んだ。そして、「まだいるんだなあ」と少し懐かしそうにいった。その夜、岩魚はぼくらの胃におさまり、一応、白玉の岩魚伝説はぼくなりにけりがついた。
 出発の日。日課になっている朝寝から起きた爺ちゃんがいった。
 「今日、出発するのか」
 「うん。出る」
 ふたりとも、どこかぎこちない。何食わぬ顔をしていても出発が気になる。結局、二八日間も滞在していた。こんなに長くいたのは学生以来ない。爺ちゃんはいつもの座布団には座らず、あちこち歩き回っている。今度はいつ会えるのだろう。ぼくの祖父母は、もう爺ちゃんだけだ。そう思うとかなり感傷的になった。しかし、こんなときはサラッと別れたほうがいい。「じゃ、またね」ぼくはあっけらかんといった。爺ちゃんも「気いつけてな」といっただけだ。
 午前一〇時出発。快晴。風強し。
 ぼくは、後ろを振り返れなかった。



電柱式アユ釣り銘川/三面川

TF041.jpg 残暑のきびしい晴天の下で、日本海は太陽の光を力いっぱいに跳ね返していた。村上へとつづく海岸線を南下する。磯の懐かしい香り。松林の青い匂い。土のむっとする熱気。台所から流れてくる手料理の香り。時々、現実の詰まった煙い排気ガス。マードゥは、ツーストの乾いた鼓動でゆっくり前へと進んだ。荷台の荷物は、肩骨のすぐ下まで積み重ねられている。
 村上へは、山を越えと海岸線のふたつのルートがある。海岸線を選んだのは、90ccのマードゥにできるだけ負担を掛けたくないからだ。それにマードゥを長距離走らせるのは、これがはじめてだ。先の長い行程を耐えられるかというテスト的な意味もある。しかし、そんな心配もものともせず、マードゥは快調に海岸線を走り抜け、四時間で村上の町に入った。
 これから、新潟・山形を縦断する朝日連峰から日本海へ流れる三面川をやる。三面川は、河口のある村上のすぐ上流まで山間部を流れる全長四一キロの小さな川だ。上流には三面ダム、猿田ダムがあり、川は寸断されているが鮭とアユで有名な清流だ。ぼくが酒田へ帰る途中、いつもこの川の橋を通るのだが、そのガラスのかたまりのように青みがかって澄んだ水を見て「いつか下りたい」と思っていた。
 川沿いに道を駆け上り、三面ダムの上流にある二子島公園キャンプ場へむかう。ダム越えはマードゥにとって辛い仕事だった。傾斜二〇度を越える急坂の連続で、ギアはいつも二速か一速でないと登らない。それでも、なんとかダムの上に出ると深い山々の底に杉とブナに覆われた三面貯水池が現れた。
 キャンプ場は杉林の間を整地して、小さなテント・サイトが数珠繋ぎに連なっていた。練馬から来たライダーと一緒になる。彼は、練馬駐屯地に勤務する自衛官だった。実は、更に上流に建設省が新たな奥三面ダムを建設中なのだが、その工事現場から古代遺跡が出たらしく、それを見に来たという。その遺跡にはストーン・サークルもあるらしい。
 彼のバイクは250ccだが、驚くほど荷物が少ない。90ccのマードゥで動いているぼくの半分もない。彼もフライ・フィッシングをやるというので、「じゃあ、一緒にやろう」と誘うと「道具を持ってこなかった」という。彼は荷物の軽量化をするとき、真っ先に削るのが遊び道具だといった。ぼくの場合は、それが最優先だ。せっかく素晴らしいところに来ても、そこで遊び道具がないと指をくわえて眺めているしかない。その分、移動が大変になるが、どちらがいいかは個人の好みだ。いつもしているというサバイバル訓練のせいで、必要最小限のものしか持ち歩かない癖がついてしまったのだろうか。しかし、実際に彼は物足りなそうな顔をしていた。
 日が暮れると、ぼくらは、焚火を囲って自衛隊のよもやま話を肴にビールを飲み明かした。気がつくと、蚊に刺されて手足がボコボコになっていた。
 翌朝、自衛官の彼からチキンラーメンをもらい、となりのテントの人からチリ野菜スープとコーヒーをもらった。自分で用意するものは何もない。たまには、キャンプ場に泊まるのもいいもんだ。
 今日は、村上へ戻ってキャンプすることにした。ダム下から河口までは二〇キロしかないので、一日あれば下れてしまう。だから、ゴール地点にテントを張り、バスで上流に上って下ることにした。
 しかし、その前に三面の上流を見たかったので、キャンプ場の管理棟に荷物をあずけ、マードゥで更に上流を目指した。
 相変わらず、道は崖にへばりつくように走り、マードゥのエンジンは唸りっぱなしだ。そして、傾斜も緩くなって、トンネルをくぐると奥三面ダムの建設現場に出た。緑の深山に現れた巨大な建造物は、谷底を白く削って勝ち誇ったようにそびえたっていた。まるで、化けもんでも造っているような眺めだ。建設現場が見渡せるところに小さな東屋があり、そこにダム建設目的を書いた看板があった。一、洪水を防ぐ。二、きれいな水の流れを守る。三、電気をつくる。
 洪水?ぼくが物心ついてから三面が氾濫した記憶はないし、ダムを増やしたからといって洪水を押さえられるとは思えない。それなら、山の手入れをしっかりして、木の保水力を高めるほうが遥かに効果的だと思う。それに、いままで川下りをしてきて、一旦流れを止めたダムから出てくる水は、絶対といっていいほど、濁り、上流との水温差が著しい。下流をまったく違う川にしてしまう。実際、三面川もダムの下の水と上の水では水質がまったく違った。当然、ダムより上流の方が格段にきれいだ。電気は発電量を調べないとなんともいえないが、供給される地域が今以上に電力を必要としているのかは疑問だ。日本中の発電ダムでは、その数字がお座なりなところも多い。
 地域の人たちにとってダム建設は大切な働き口になり、自治体もそれを誘致する。しかし、ダムができてしまえば仕事もなくなるわけで、地域活性化の抜本的な解決にはならない。しかし、住民は目の前に仕事があれば、それに飛びつくだろう。彼らにはどうしょうもないことなのだ。これは国のやり方に責任がある。ぼくは、牛渡川で生態調査をしていたおやじさんたちの話を思い出した。
 自衛官の青年がいっていた遺跡はこのダムに沈む地域にあった。古代史のことはよく分からないが、ストーンサークルという言葉は聞いたことがあったので、探してみたが、どこにあるのか分からない。というより、探すのに飽きてしまった。やはり、ぼくは遺跡よりも川がいい。
 マードゥのところへ戻ると、地元のおばさんが軽トラに乗ってやって来た。声をかけると、おばさんはトチの実を採りに来たという。面白そうなので、ついていくことにした。
 頭から手ぬぐいをかぶった細面のおばさんは、川の中流にある布部の人だった。トチ餅をつくるので、実が必要なのだそうだ。ぼくは、トチの実も木も見たことがない。おばさんは腰に下げた年季の入った赤いポシェットをくるっと後ろに回し「大きな葉っぱがトチの木だよ」といってずかずかと藪の中に入っていく。確かにトチの葉は周りのものより断然大きかった。しかし、残念なことに実はひとつもついていなかった。
 林道に戻り、トラックの方へ歩いている間、おばさんが元三面の話をしてくれた。
 元三面村は、今建設中の奥三面ダムに沈む村で、源平時代に平家の落ち武者がつくった集落だった。その村の存在は、まだ川にダムがなかった頃、上流から箸が流れてきたのを見つけられ、知られるようになったという。それが明治時代のことだというから、かれこれ七〇〇年間誰の目にも触れることなく、元三面の人たちはひっそりと暮らしていたことになる。話し言葉も「…でござる」などと武家言葉を使い、三面の人々とまったく違っていたという。おばさん自身、元三面の人と会ったとき、どこか気品があると思ったそうだ。
 「おばさんも気品がありますよ」
 というと、照れて顔を隠した。
 奥三面の渓相はとても変化に富んでいた。滝のように落差のある瀬や、広くて深い淵、サラサラと流れる瀬や大きな岩に砕け散る流れ。こんなにきれいなところがダムに沈むのは、経済や政治がどうであろうともったいない。そして、取り返しのつかないことなのだ。
 午後になってキャンプ場に戻り、荷物をまとめて村上に降りる。下渡大橋の下流にテントを張り終える頃には、朝日連峰の向こうにオレンジ色の夕日が沈んだ。女のこがひとり、シルエットになった橋をわたり、家路へとつく。彼女は三面川にどんな思い出があるのだろう。三面は小さな川だ。もし、アユ師たちが出ていたら、やり過ごすだけの広い幅はない。明日は平日だ。アユ師たちが会社で働いていることを祈ろう。
 朝、橋のたもとにあるバス停から「三面ダム行」に乗る。乗客三人。奥三面で会ったトチの実おばさんが住む布部で降りる。ここからダム下までまだ六キロあるが、布部の上流に簗があり、川の流れを全部せき止めていたので布部の集落から下ることにした。
 バスを降り、川にむかって歩いていると、ぼくを追い越したバスが五〇メートルくらい先で道脇に停まった。運転手がバスを降りると、こっちに駆け出した。
 「すみません!お客さん、始発から乗ったんじゃなくて、泉町から乗ったんだよね。間違えて始発料金をもらっちゃった。ハイ、五〇円」
 「わざわざありがとう」
 運転手は、深々とお辞儀をすると、また走ってひとりしか乗っていないバスに飛び乗り、慌てて発車していった。乗車券を出したほうがいいんじゃないの?
 昨日のうちにあらかじめ舟の受け取りを頼んでおいた商店にいく。舟の入ったザックは、車庫の奥に立てかけられていた。礼をいってザックを担いで店を出ようとすると、威勢のいいおかみさんに呼びとめられた。
 「橋までいくんだろ。うちの車で乗っけてってやるよ。こんな重いの担いで歩くのは大変だよ」
 といってワンボックスにぼくと荷物を放り込んで、布部橋まで送ってくれた。そして、全部降ろし終わると、今度は物凄い勢いで二〇メートルほど車をバックさせて、店へと帰っていった。慌ててお辞儀したのが見えただろうか。とてものどかな山村とパワフルで機敏なおかみさんがあまりにも不釣合いで笑ってしまった。真夏のつむじ風のようだった。
 舟を組んで、ビールを二本腰の両脇において出発。三面はゆっくりと動き出した。
 右岸の深い淵を流れる水筋に舟をのせ、頭のすぐ上まで垂れ下がった木の木漏れ日を仰ぐ。川床に敷き詰められた玉砂利が流れに洗われながら陽射しを映してつややかに光っている。ぼくは、漕ぐのをやめて流れに身をまかせることにした。軽快に進む流れの上で、ビールのプルタブを開けて歓喜の叫びをあげる。これが川旅ってもんだ。
 しばらくいくと、流れの中から藪に頭を突っ込み、小さな網で川底をゴリゴリ擦っているじいさんがいた。うなぎでもいるのだろうか。そのじいさんのすぐ後ろを蛇が泳いでいる。声をかけようと思ったが、あまりにも静かに近づきすぎたので、かえって驚かせてしまうと思い、そのまま通りすぎた。きっとあのじいさんの目は少年のように輝いているにちがいない。まともな人間ならそうさせてしまうような気持ちいい川だ。
 川は二級程度の心地よい瀬をくり返し、快晴の山間を流れていく。ぼくはなんども頭から波をかぶり、その回数だけビールを飲んだ。まったく爽快な川だ。しかし、その幸せもそう長くはつづかなかった。
 布部から三キロ下流にある岩沢橋の下まで来ると、流れが全部、川の中央に沈められたテトラに吸い込まれていた。普段は右端に僅かな通り道があるらしいが、今は水量が少なく、舟を引いて通るしかない。そして、ここからが悪夢だった。見渡すかぎり両岸からアユ師が電柱のように一列に並んで竿を出していたのだ。竿の間隔が一〇メートルくらい、ひどいところでは五メートルと離れていない。それが一キロ、二キロ先のカーブまで続いている。さすがにこの真中を下るほどの勇気もなければ、ずうずうしさもない。仕方なく、ぼくはロープで舟を引いて岸辺を歩くはめになった。
 しかし、アユ師はお気に召さないようで「この邪魔者め!」と目で威嚇してくるやつが多い。中には、後ろを通っているにもかかわらず、「オイ!」とか「ウウ」と唸るやつもいる。こいつら、川を自分たちだけのものと思っている。まったく頭にくる!それでも、多勢に無勢。ぼくは「すみません」といいつづけて一キロも歩いた。「拒むよりはやり過ごせ」だ。しかし、腹の中は煮え繰り返っていた。
 金を払って魚券を買っているからって勘違いするな!
 それから先も、飛沫を上げて流れる早瀬の下には必ずアユ師の団体がついていた。こういうところは川を下る者としても一番爽快なところなので、そこを歩いて下るとなると、ストレスが溜まる。
 しかし、右手から支流の高根川が合流すると川幅もグーンと広くなり、アユ師の竿もかわせるようになった。川の雰囲気にもどことなく海の匂いが漂いはじめるが、流れは以前と清冽だった。目前に立ちはだかった屏風状の下渡山に川がぶつかると、流れはその裾野を回りこんで村上に入る。老人のアユ師がぼくを見て「気持ちよさそうだの」といってくれたのが、せめてもの救いだ。このひとはわかってる!
 下りはじめて二時間がたったころ、今朝、歩いて渡ったばかりの下渡大橋が見えてきた。そのたもとには、ぼくのテントがたたずんでいる。
 三面は申し分のない、いい川だったが、今度来るときはアユのシーズンをはずそう。そうすれば、箸が流れるように止めどなく一本の流れを楽しめるだろう。



台風から逃げろ!

 九月も半ばに入り、出発してから二ヶ月半が過ぎていた。三面の上空は晴れ渡っていたが、ラジオではしきりに台風が接近していることを伝えている。今は小笠原諸島のあたりをうろついているらしいが、こっちに来るのだろうか。次の目的地は岐阜の長良川だが、マードゥが一日で走れる距離ではない。今日、出来るだけ日本海沿いに走れば、台風から離れられるかもしれない。そして、もう一日使ってアルプスを越え、上流の郡上八幡へ入りたかった。
 午前九時、村上を出発。ひたすら日本海を西へ走ることにした。
 マードゥの足は、平均時速四〇キロと考えるのが無難だろう。これ以上はマードゥにもキツイだろうし、ぼくの旅のスピードにも早過ぎるからだ。スピードが上がれば上がるほど、ぼくの視野は狭くなってしまう。周りの景色も目に入らず、ただ走るだけになってしまう。そう考えると、三〇〇キロ離れた富山が今日の限界目標地だった。
 交通量の多い国道七号線を避けて海沿いの三桁国道を走る。新潟市に近づくにつれ、空の雲が重い灰色に変わってきた。弥彦近くでラーメン屋に入り、昼飯を食べていると空がいきなり泣き出した。駐車場があっという間に水浸しになるほどの土砂降りだ。カッパを着て走る。道は、穀倉地帯、丘陵地帯、海岸線を繰り返して西へと伸びたが、雨足は変わらず、強く降りつづいた。
 断崖絶壁の親不知がマードゥにとっては地獄だった。上り下りの激しい坂道が、薄暗いトンネルの中をくねる。エンジンははじきれそうな音をたてるが、タイヤは坂の抵抗でスピードをどんどん失う。知らないうちに、後ろには、何台もダンプが連なっていた。暗がりの中で響くダンプの轟きは、威圧的で、何度も踏み潰されるかと思った。
 それでも、午後六時半、辺りが暗くなったころ、富山に入った。ユースに泊ることにする。これから雨風が激しくなるにちがいない。しかし、バイク初心者にしてはよく走った。はらぺこだ。
 夕食にカツ丼を食べて、風呂にも入り、ラウンジでくつろいでいると群馬から来たライダーと一緒になった。男は750ccもある一〇年以上前のホンダに乗っていて、中部地方を走りに来たという。名前を岳和といい、いつか日本一周をしたいという夢を持っていた。今回は中部を周っているらしい。ぼくらは、お互いがいままでまわってきた土地の話で盛り上がった。タケは目がきりりとしていて物事を静かに話し、男前だった。そんな自分とはまったく違う印象の男だったが、なぜかぼくはタケに自分と同じ匂いを感じた。
 テレビのニュースでは、明朝、台風五号が関東に上陸するらしい。当然、富山や岐阜もその影響をうけるだろう。ぼくはここから内陸に入り、アルプスを越えて長良川の上流にある郡上八幡にいくつもりでいるが、明日は無理のようだ。ここにもう一泊して台風をやり過ごしたほうがよさそうだ。とりあえず、様子をみよう。
 しかし、思うようにはいかない。翌日知ったのだが、ユースは施設の改装のため、その日から二日間、閉館することになっていたのだ。みんな追い出されることになったのだが、外は、案の定、土砂降りの雨だった。どうすりゃいいんだ。こっちへ進んでくる台風に自分から向かっていくのはばかげている。他の宿に泊まろうか。いや、そんな金はない。でも、こんな雨の中で野宿するのは、それこそ馬鹿げている。そうして、思いついたのが福井県の今庄へいくことだった。そこには、ぼくが知床を漕いでいたときに死んだ父方の婆ちゃんの家がある。もう、誰も住んでいないが、ぼくは家のカギを持っていた。そこで台風をやり過ごせばいい。そう決めるとマードゥを走り出させるのにそう時間はかからなかった。
 午前一〇時過ぎ、雨が一旦弱まったのを見計らって出発する。岳和は能登を周って琵琶湖方面に出るというので、時間があれば今庄の家に寄ってくれといって住所を渡した。少しでも早く今庄へ着きたいと思い、素直に交通量の多い国道八号線にのる。すると、やはりダンプやトレーラーが物凄い勢いで走っていた。小さなマードゥは、その風にあおられてふらふらと吹き飛ばされそうになる。その上、次第に台風の風も強くなり、時折、バイクが止まるのではと思うほど強い向かい風が吹いた。痛いくらいに強く頬を叩く雨。カッパの中にも水が染み込み、体温を奪っていく。頭の中で、ある思いが浮かび上がってくる。
 これは、死にぎわに駆けつけなかったぼくへ、婆ちゃんからの試練だ。
 今の自分にはこうすることしか出来ないと思えた。ひたすら走る。体が震える。でも、走る。
 そして、周りが暗くなりはじめたころ、山奥にある婆ちゃんの家にたどりついた。



予期せぬ死

 二ヶ月前に葬式を挙げたばかりの家は、まだそれほど汚れてはいなかった。
 婆ちゃんの家はとても古く、造りも典型的な昔の農家で、裏山の杉の木を切って造った広い板の間があり、囲炉裏の煤で黒ずんだ天井は高さが五メートル以上ある。たくさんの思い出が染み込んでいる広い空間には、目に見えない悲しさ、虚しさが漂っている。
 ぼくは、仏壇を開いて水をあげ、線香を立てた。
 婆ちゃん、遅くなってごめん。ゆっくり眠ってください。
 爺ちゃんの横に置かれた婆ちゃんの写真は無表情で、叱りも喜びもせずにぼくをじっと見ている。顔が歪んだ。涙が止まらなかった。
 それから近所のおばさんや親戚の人が来て、ぼくが葬式に来なかったことを一言二言とがめた。それでも、みんな親切に食べ物を持ってきてくれたり、風呂に呼んでくれたりする。それが田舎の連帯生活なのだ。いまのぼくにはありがたかった。それから、雨は毎日降りつづき、なにをすることもなく、ぼーっと一日を過ごしていた。
 今庄の家に来て三日目の昼過ぎ、玄関でマードゥを洗っていると、道の上からバイクのエンジン音が聞こえてきた。
 「おお、まだいるとは思わなかった。通り道だから寄ってみたんだ」
 振り向くと、タケだった。
 どうしょうもない脱力感に襲われていたぼくは、違う風を持った彼が来てくれたことが嬉しくてしかたがなかった。当然、その夜は酒盛りになった。
 小さい頃から好物の炭火で焼いた若狭湾の鯖を肴にビールを飲む。
 富山で会った大阪から来ていたふたり連れのライダーの話をする。ふたりは、そこから別々に走ることにしていた。ウマが合わないのだ。特にバイクという個別性の高い乗り物でふたり旅をするというのは、かなり気の知れた者同士でないと無理だろう。ぼくが大学の頃も友達同士で海外旅行に出かける連中がいたが、たいがい喧嘩して帰ってきていた。タケもぼくも基本的に「旅はひとり」と思っている。
 ぼくらは、自分たちにとっての旅の道具をいいあった。
 タケは、ミニバイクの全国ランキングで六位になるほどのレース狂だった。一六歳でバイクのスピード感にとりつかれ、自然とレースに参加するようになったという。
 レースをはじめた一年は走っているだけで楽しくて仕方がなかった。そして、二年目から「何故、勝てないのか」と思いはじめる。そして、全国大会を目指して走りだす。そのときの現実と勝利への葛藤はものすごかったらしい。他のことはなにも手につかず、ひたすら走りつづけ、自分をどんどん追い込んでいった。そして、あるとき、彼はケガをしてレース界での一年を棒に振る。そのとき、タケは病院のベッドでいろいろな旅のエッセイを読み、今まで自分がやってきたバイクとは違う「ツーリング」の世界を知る。「勝たなければいけない」という脅迫感にも似たプレッシャーを背負って走るものから肩の力を抜いて走りを楽しむことに気がついたのだ。それは初心にかえることと同じだったのかもしれない。それから、彼は全国大会六位という自分なりのケジメをつけ、レースから足を洗う。そしてタケが自分を向けたのが北海道一周のツーリングだった。それから、彼は仕事をしながら東北を周り、今回の中部地方に来たのだ。最後は日本一周をやりとげたいという。タケの夢は自分のバイクショップを持つことと、もう一度、今度はモトクロスの世界でトップを目指すことだった。
 タケの人生にとってバイクとは絶対的なものなのだ。
 「一〇代のころ、いや、今までのオレの人生はバイクを中心に回ってきた。それが、最近、やっとバイクが自分の方に近づいてきたような気がするんだ」
 レースに翻弄されていたころのタケはバイクの上でしか生きられなかったのだろう。
 「やっとバイクと生きられるようになった」
 タケには、ひとつ何かを越えた人間だけが持つ確信のようなものがあった。それは自信ともいいかえることも出来る。
 しかし、ぼくにとってのカヤックは、タケにとってのバイクとはかなり違う。ぼくには、カヤックの前に「旅」というものが大前提にある。どちらも、ぼくにとっては必要不可欠なものだが、それは単なる「道具」にすぎない。ぼくは、それを使って旅をして、そこで起こるいろいろな出来事、出会いに魅力を感じるのだ。
 タケは、ぼくが富山でここの住所を教えたとき、どうして教えてくれたのか分からなかったそうだ。しかし、こういう話をした今、分かったという。タケにはバイクで実現したいふたつの夢があり、ぼくには旅を書いて食べていきたいという目標がある。ふたりとも単なる現実逃避だけの旅をしているのではない。だから、お互いに引き寄せ合ったんだといった。
 ぼくが「富山でタケに会ったとき、同じ匂いを感じたんだ。だからここを教えた」というと、彼は笑った。
 そんなときだった。玄関の暗がりで黒電話がけたたましく鳴った。出るとお袋だった。泣いている。そして、声をしゃくりあげながらいった。
 「キミアキ…オジ…サンガ…死んだッテ…」
 死んだ?
 なにをいってるんだ?
 わけが分からない。
 たった数週間前に一緒に夜釣にいき、笑いあった叔父が死んだ?
 お袋は、死因はまだわからないが、これからすぐ山形へ帰るという。そして「戻ってきて」といった。
 ぼくは、なにも言葉を返すことができないまま電話を切った。体の中に重く、固い何かが沈んでいく。
 タケは、電話の内容を知ると、無責任なことはいえないがつづくときはつづくものだといって、一緒に酒を飲んでくれた。ひとりじゃなくてよかった。なんとか、正気を保っていられる。でも、何故死んだんだ。事故?自殺?いや、そりゃないだろう。
 とにかく、叔父はもういない…。
 その晩、布団の中で丸まりながら、あのボラが跳ねた夜のことを思い出した。
 信じられるか!そんなこと!
 翌朝、タケが出発した後、親父から電話が入った。話はやはり叔父のことだ。
 「いけないのか」
 死を直感し、カナダのユーコン行をやめて始めた日本縦断。そして、そこで直面した祖母と叔父の死。
 ぼくは、叔父の死を自分に重ねた。
 生まれたときから、既に、ぼくはひとつの方向へと進み出している。叔父や祖母がいきついた場所へ。それは、どうしょうもないほど絶対的なのだ。
 しかし、いまは、この旅をやり遂げなければならない。それが、唯一、ぼくが未来に進むための方法なんだ。
 「…いかない」
 そう答えると、親父はなにもいわなかった。
 しかし、電話を切ったあと、ぼくはジレンマに陥った。仏壇の前に座り込み、考える。死んだ叔父のこと、そして八〇歳にして我が子を失った爺ちゃんのこと、姉思いだった弟を亡くしたお袋のこと。お袋はちゃんと切り盛りできるだろうか。電話であんなに取り乱していたお袋…。見下ろした畳の目は、無機質に冷たくぼくを見ていた。
 酒田に電話してみよう。そして、どうするかしっかり決めよう。
 電話に出たお袋の声は、以外にもしっかりしていた。通夜や葬式の手配におわれて気がはっているのだろう。お袋は、叔父が死んだいきさつを話してくれた。
 死因は溺死だった。
 ある朝、叔父が会社に姿を現さなかったので、事務所から爺ちゃんに問い合わせが入った。それと同じころ、西浜の浜辺に叔父の車が置き去りにされているのが地元のひとに見つけられ、警察に通報があった。ナンバーから叔父のものとわかり、翌日、同じ海岸に叔父の遺体が打ち上げられた。
 叔父が行方不明になったのは、ぼくがここに着いた日だ。さんざんぼくを叩きつけたあの台風が日本海を大時化にしていた。それでも、叔父は西浜にある防波堤の先端にいって釣りをしていたという。そして、突然、高波が叔父をさらった。ライフジャケットは着ていなかったという。
 叔父が死んだ日の朝、ぼくは奇妙な夢をみていた。
 掌にのった黒くしおれたペニスをじっと見詰めている。それは、ホルマリン漬けにされた標本のように黒ずんで、水が滴るほど濡れていた。ぼくは、うろたえもせず、恐ろしいとも、きたならしいとも思わずに、じっと見ている。それだけの夢だが、いま思うと、あれは叔父の死を暗示していたのかとも思える。
 前へ進もう。叔父の死が、ぼくの中で力に変わった。
 今庄に来て五日目、空は真っ青に晴れ上がった。ニュースでは台風七号八号が続けて近畿地方に接近していると伝えているが、ぼくはこの快晴の日に出発したかった。世話になった近所の人や親戚に礼をいって出発する。山間の一本道をいつまでも見送る親戚の姿が目に焼きついた。
 大きな道を避けて県道に入る。山間の棚田を縫うようにマードゥは走る。武生から大野に出て九頭竜川沿いに川を遡り、山脈を越えて長良川の上流にある白鳥に出た。油坂峠を越えるときは、マードゥのエンジンが焼けないか心配したが、なんとか越えることができた。これで、無理をしなければ大抵の山道は越えられると確信がもてた。
 思えば、叔父から名義を借りて買ったマードゥが、ぼくに残された唯一の形見だ。強い陽射しに光る森の中でエンジンを唸らせながら走るマードゥに乗っていると、なんだか叔父と一緒に旅をしているように思えた。



台風に祟られた長良川

TF045.jpg 白鳥から長良川沿いに川を下り、郡上踊りで有名な郡上八幡に入ると、寺が経営する宿に入った。これから台風がくる。金はもったいないが、キャンプなどしていられない。
 長良川は、いわずと知れた日本を代表する河川だ。全長一六五キロ。情けない話、河口には巨大な河口堰ができてしまったが、上流はまだ抜群の美しさを保っているといわれている。カヤックをはじめて七年になるが、今まで、長良川に来なかったのが不思議なくらい日本のカヤッカーにとって聖地的な存在だ。
 宿に荷物を置くと、町に出た。山間の城下町は、道が細く、昔ながらの商店街が健在で、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている。そして、町の真中には、吉田川というとびっきりの清流が流れていた。人の入らない深山を流れるような無垢の水が、石垣に挟まれた町中を、おびただしい水量で転げ落ちてゆく。岸辺にある淀みには、たいてい数匹の鯉が影を潜めていて、商店街の裏でアユやアマゴが釣れてしまうのだ。ぼくは、意味もなくワクワクしてきてしまった。
 町を降りて、本流へ向かう。そして、その透明度の高さに声をあげた。川幅が五〇メートルはあるところでも、川床の全てがよく見える。これほど大きな規模の川で、これだけきれいな水を保っているところは、日本では他に見たことがない。黒い杉の森に覆われた山の谷間をくねって流れる太いサファイヤ色の筋は、まるで龍だ。
 郡上八幡で吉田川が合流してから下流の美濃市にある立花橋までの二二キロは、長良川でも流れが強い急流下りが盛んな場所として知られている。実際、この週末に美並村でロディオ(瀬の中でカヤックを自在に操る競技)の国際大会が開かれることになっていた。その美並村にあるラフト(ゴムボート)ツアーの事務所へいく。この急流区間は、ぼくのおんぼろカヤックでは流れの強さに負けて壊れてしまいそうなので、いさぎよくラフトで下り、立花橋から河口堰までを自分の舟で下ることにした。
 しかし、ツアー会社にいってみると社長と従業員たちが喧嘩をしている真っ最中だった。喧嘩をしていない従業員を掴まえて、明日のツアーに参加したいというと、その男がそっと自分の名刺を出していった。
 「ここの社長はろくでもないやつだ。乗るんなら俺がガイドする週末にしたほうがいい」
 なんでもいいが、会社自体うまくいっていないようだ。とにかく、三日後の朝八時集合になった。
 次の日、一つ目の台風八号が接近し、強い雨が降る中、することがなく町をぶらついていた。吉田川のほとりには小さな公園があり、その東屋でキャンパー風の女性が本を読んでいた。話してみるとなかなか面白い人で、三年前に仕事を辞めて日本をあちこちバイクで周っているという。今回は、沖縄へじわりじわりと南下している最中だそうだ。公園の片隅にある無料のキャンプ場に寝泊りしているらしいが、ラジオも持っていないらしく、台風が接近していることすら知らなかった。メガネをかけた彼女は、長期旅行者らしくすっぴんで、髪も後ろで束ねただけ。いたって清楚で、それでよしとしていた。名前は、アケミといい、ぼくよりもズボラというか、旅慣れしているようだった。上には上がいるもんだ。
 それから、ぼくらは、気が合ったからか暇だったからか、一緒にいることが多くなった。彼女もぼくも台風が通りすぎないかぎり、どうすることも出来ない。
 その日の午後から岐阜県は台風八号の暴風域に入り、アケミはテントを潰して、トイレの裏にある東屋で夜を明かした。金のかかる宿に入るなど微塵も考えていないようだ。なかなか頼もしい。
 そして、次の日には立て続けにふたつ目の台風七号が上陸した。ぼくは宿でぬくぬくと眠っていたが、東屋に寝ている彼女のことが心配で、朝早く見にいってみる。すると、アケミはおかまいなしにグーグー寝ていた。まったくタフな女だ。しかし、それからがすごかった。
 昼になると傘をさしても全身が濡れてしまうほど雨風が強くなってきた。町中を飾っていた郡上踊りの赤いちょうちんや店の看板が外され、郡上は閑散とした町になってしまった。そんな中、アケミとぼくは、スーパーで買った秋刀魚を東屋で焼いていた。風がバーナーの火を揺らして、なかなか焼けない。そんなのん気なことをしているうちに、目の前の吉田川が増水しだし、あっという間に河川敷のキャンプ場が流れに飲み込まれてしまった。まだ葉のついた太い幹やバケツや収納箱のような生活用品までが濁流の中を流されてくる。彼女のテントを引き上げておいてよかった。そして、対岸の家が見えなくなってしまうほど暴風がひどくなったとき、本流の方からグォォォォォという地鳴のような低い轟きが聞こえてきた。振り向くと、吉田川の水が風に巻き上げられて一〇メートルを超す白い壁となって、下流からこっちへ押しあがって来るところだった。ぼくは、「来たああ!」と叫んで、その恐ろしい景色から目を反らすこともできずに東屋の柱にしがみついた。その突風の壁に飲み込まれると、立木の枝が折れ、あらゆるものが引き剥がされ、吹き飛んだ。こんな光景は見たことがない。アケミもぼくも恐ろしさを通り越して可笑しくなってしまった。
 しかし、その突風が三〇分ほど暴れると、雨風は段々弱まっていった。
 台風七号が去り、金もないぼくは、台風一過を期待して、キャンプ場にテントを張った。ところが、天気は見事にぼくを裏切った。それからも低気圧が停滞して、連日、ウジウジと体にまとわりつくような雨が続く。本流を見にいくが、土砂を巻き上げて濁流になったまま水位が下がらずにいる。これでは下ることもできない。当然、ラフティングはキャンセルされた。
 そのまま時間だけが流れ、五日がたった。
 そして六日目。なんとか雨が上がった朝、上流部を下るのは諦めて、ぼくは下流の美濃へ移動することにした。そこからなら川幅も広がり、増水した川の力も分散されて、なんとか下れるのではないかと思ったのだ。アケミも琵琶湖へいくことにしたらしい。彼女がいてくれたおかげで、雨続きの町でも退屈しないですんだ。握手をして別れる。
 久しぶりにマードゥに乗って長良川沿いに南下する。あんなに澄みきっていた流れが、いまは嘘のように血相を変えて荒れ狂っている。同じ川とは思えないほどの変わりようだ。そして、美濃に着く前に、再び豪雨が降り始めた。たびかさなる雨。雨。雨。ズブ濡れになって河原に着くころには、もう、うんざりしていた。
 これは自然現象だ。仕方がない。長良川は、またの楽しみに取っておこう。
 ぼくは、長良川を出ることにした。
 金華山の横を通り、岐阜市に入ると雨はますます強くなった。叩きつけられた雨の飛沫で道路が白く浮いて見えるほどだ。ぼくのカッパはバイク用ではないので、強い風に吹きつけられると首まわりや袖口から雨が染み込んでくる。せめて話の種に、無用の長物、長良川河口堰だけでも見ていこうと思ったが、河口堰に向かう道と交差する国道の青い看板「→関が原」を見たとき、心がホロっとゆるんだ。関が原を越えれば琵琶湖を通って関西に入る。そうすれば、この旅も全行程の後半に入るわけだ。ぼくは、無意識にウインカーを右にだしていた。



ログハウスで大宴会

 琵琶湖へいくことに決めたぼくは、電話ボックスに飛び込んで、近江八幡にあるユースホステルに電話した。そこに転がり込めば、この容赦ない雨風から身を隠せ、ぬくぬくの布団で寝られるんだ。そう思うことだけが、ぼくを前に走らせる。
 関が原を貫く国道一二号線に入ると、夕方、帰宅途中の車たちでちょっとした渋滞を起こしていた。流れが止まるたびに、マードゥは前を走るローレルのバンパーに触るくらい近づいて止まった。その車を追い抜こうなんて思っちゃいけない。運転席には、OL風の若い女が座っていた。音楽を聴いているのだろう、リズミカルに首を左右に軽く振っている。そして、時々、セミロングの髪を指でといた。それは、ずぶ濡れでヘトヘトで疲れきったぼくとは全く別世界のものだった。心地よい暖かさ。艶やかな髪の異性。ここにはないものが、そこにあった。
 あの助手席に飛び込みたい!
 彼女の上司への愚痴を聞き、音楽の趣味を話し、飯でも一緒に食べたかった。ぼくは、なんとか車のルームミラー越しに彼女の顔を見たくなった。彼女がブスで「やっぱな…」とも思いたかったし、とびっきりの美人で「くそ!」とも思ってみたかった。どっちでもないなんてありえない。必ずどっちかだ。ぼくの針はどっちかに振り切れるはずだ。欲望がそうさせるに決まっている。しかし、そんな思いもつかの間で、ローレルはすぐに路地を曲がってしまった。ぼくは心地よい場所がほしかったのか。女がほしかったのか。その両方なのか。ふたつは同じものなのか。まったく笑うしかない。
 マードゥは、琵琶湖の岸辺に出て、湖畔を走り、彦根を抜けて、近江八幡に入った。ユースに着いたのは日が暮れてからだった。宿泊客はたったの四人しかいなかった。
 食事が終わった後、ゆう子に電話をする。明日、奈良にある彼女の家にいくことにした。北海道の倶知安で会ってから二ヶ月たっている。彼女に会いたい。ゆう子は快く「来て」といってくれた。ところが、電話を切ってしばらくすると、今度は彼女から電話がかかってきた。
 琵琶湖北部にあるマキノ町に、お母さんの友人がログハウスを建てた。その落成パーティーが明日あるので一緒に行かないかということだった。ゆう子は来ないが、ぼくはふたつ返事でいくことにした。わき道にそれるのも面白い。
 風呂から上がり、食堂でくつろいでいると、あとから入ってきた中年の男がぼくにまとわりついて旅の話をせがんだ。その男は仕事で八幡にきているようだった。少しでも旅の気分を味わいたいのだろうが、ぼくはビールを飲みながら生返事ばかりしていた。質問攻めは好きじゃないし、日々の生活に疲れた男と旅に疲れたぼくじゃ、すべてがあまりにも違い過ぎる。ころあいを見て、二階の部屋に逃げ込んだ。
 翌朝、琵琶湖大橋を渡って、集合場所の西大津駅には約束の一〇分前に着いた。おばさんは、時間丁度に現れ、つぎつぎと仲間が加わる。全部で八人。みんな中高年の人たちだ。なんの集まりかと聞くと、以前にネパールのトレッキングツアーに参加したメンツらしい。目下の目標は、みんなでヒマラヤへいくことだという。三台の車に分乗して湖北地方のマキノ町へ走った。マードゥは駅前の駐輪所に置いていくことにした。
 ログハウスは、角ログ二階建ての立派なものだった。玄関に面した部分が屋根つきの広いデッキになっていて、とても快適そうだ。中に入ると、まだ新しい木の匂いがぷんとした。家に入ると、みんなテキパキと料理をしはじめた。ぼくは、なにをしていいのか分からず、うろうろしていると銀杏を炒らされた。
 テーブルを三つ縦につないで、宴会がはじまった。刺身の盛り合わせや惣菜がズラリと並び、ビールを呷る。その中に、ひとり、ぼくに突っ掛かってくる男がいた。映像関係の仕事をしているらしいが、なにかにつけて、ぼくに問答してくる。また、飲んだぼくもいちいち真剣に答えるのだから、双方性質が悪い。
 「違う。違う。なっちゃない」
 男は、ぼくのいうことを頭から否定した。男が吹っかけてきた話はこうだ。
 年寄りは役に立たない。世間に貢献していないのだから、年寄りなんかいらない。若い奴らは年寄りを殺しちまえばいいんだ。
 まったく過激な話だ。その男だって、ぼくから見れば年寄りだってのに。しかし、それは違う。年をとり、仕事を終えて余生を送る人は、たくさんの経験をしてぼくらにはないいろいろな知恵を持っている。それをぼくらが知ることは、生きていく上でとても助けになるはずだ。そう反論した。すると、男は「そんな軟弱なやつじゃ話にならん」と横を向いて酒にかぶりつく。
 男は自分の仕事である映像の世界を持ち出した。
 筆で描く線がある。それは本来、熟練した職人にしか描けないものだった。しかし、技術が進歩したいま、それをいとも簡単にコンピュータがやってのける。だから、すでに技能ではなくなった。その年をとった職人はいらないというのだ。
 そいつも、根本的に違う。先人たちがその線をつくりあげたからこそ、いま、コンピュータで映像化できるようになったのだ。先人たちの技術の上に、いまの技術がなりたっている。ぼくは、ゴッホを持ち出してやった。
 ゴッホは数々の名画を残した。その手法は独創的で多くのひとを魅了しつづけている。たしかに、現代のコンピュータはその手法をこと細かく再現することができる。しかし、もしゴッホを否定したら、その手法自体存在しなくなる。
 ある男がゴッホの絵に魅了されるとする。ゴッホが描いた線を美しいと思う。感性がゆさぶられる。だから、人々はその絵を残したいと思う。そこに技法をコピーする技術が開発されるのだ。もし、その男がゴッホの線を知らなかったら、自分でその線を生み出さないかぎり、この世には存在したいものなんだ。しかし、ゴッホがそれを描いたことによって、男はこころの豊かさを増し、その上のステップにいけるってわけだ。
 だから、古いものは駄目という考えは極論すぎる。すでに、ぼくたちは先人たちの知恵の上で暮らしている。ものの考え方、挨拶もそうだろう。それらを全部否定したらぼくたちは原始人にあともどりだ。
 ぼくは、いいあっているうちに、段々その男のことが分かってきた。彼はまず極論をぶつけ、反論の中に相手の意見を見出そうとしているのだ。おばさんが心配して「こういう人なの、年寄りばかりのところに呼んでご免ね」といってくれた。人の話を聞こうとしないのには頭に来たが、なかなかどうして、面白い。
 とことん酒を飲み漁り、出た料理はすべて平らげたが、この討論のおかげでなんとか自分を見失わないでいられた。眠くなったぼくは、平常を装って急な階段を上り、蒲団に巻き付いて屋根裏に打ちつけた化粧板を眺めながら眠った。この旅はじまって以来の大宴会だった。
 翌日、目が覚めると、昨日なにをなん杯飲んだか自分でもわからないほど酔っていたのに、不思議と頭はさえていた。空は快晴。今日は、みんなで滋賀県と福井県の県境にある標高八二四メートルの赤坂山に登ることになっている。登山口のあるスキー場へ向かうと、駐車場はMTBを積んだ車でいっぱいだった。スキー場を出発点にマキノ町でMTBのレースが開かれるらしい。
 デイパックを背負って歩き出すと、テープで囲われたコースが黄緑色に輝く夏のスキー場をくねっていた。スタート前で緊張している選手たちが原色のバイク・スーツを来て散らばっている。大会の会場を突っ切ると、丸太をあてがった階段の登山道が草むらの間に現れた。かなり整備された道のようだ。ぼくらは、ゆっくりと登りはじめた。
 しかし、この階段はまったく厄介な代物だった。一歩で次のステップに足をかけるには奥行きがありすぎ、二歩では短すぎる。歩きづらくて仕方がない。何もないほうがましだ。 それでも、しばらく登ると道は普通の山道になり、気のせいか辺りの木々の背も低くなりはじめた。あまり山登りはしないが、みんなのペースはぼくにも丁度いい。一時間ほど登って尾根を巻くと、緩やかな傾斜の台地に出た。辺り一面を背の低い潅木が覆い、霧が草原を走っている。草原の上にある頂上は見晴らしがよかったが、きれいに見えるといわれていた琵琶湖は真っ白な霧で隠れていた。みんな、それを残念がっていたが、ぼくは、それよりも背後に折り重なる深い山に息を呑んだ。
 雑木の森が幾重にも谷を重ねて、霧の向こうまで続いている。その白いカーテンのせいで森は無限に広がっているように思えた。雑木がつくりだす山肌は、驚くくらいたおやかで、葉っぱ一枚のみずみずしさまでがぼくの目にしみ込んでくる。それは、山を登る人にとってはありふれた風景かもしれない。しかし、ぼくには、まるで巨大な水がめを見ているように思えた。この森が、きれいな川を生むんだ。
 いつか、ここにテントを張って、月明かりに浮かび上がる蒼い森を見てみたいな。そう思った。
 いつまでも艶やかな深山を眺めていたかったが、ヒマラヤを目指すパワー全開のマウンテンマンたちはどんどん下山しはじめた。
 霧の中を稜線に沿ってしばらくいくと、細い山道はくねりながら下りはじめ、やがて広い林道に出た。そこは左手が崖になっていて、雑木に覆われた谷底からは渓流特有の乾いた水の音が聞こえてくる。このところ台風や低気圧の停滞で大雨が続いたためか、林道の山側には小さな川ができていて、道に沿って勢いよく流れていた。そして、高さ五センチほどのゴム帯が、時折、思い出したように地面から突き出し、道を斜めに横断していた。斜面を流れてきた水が、そこをつたって谷側に落ちる仕掛けになっているらしい。しかし、あるところで、このゴム遮断壁が原因で大きな崖崩れを起こしていた。長さ三メートルに渡って道がごっそり谷に落ちている。ぼくは、大丈夫かと心配したが、さすが山馴れしているみんなは、スタコラと崩れた跡を降りては這い上がってしまった。
 里に下りる頃には、再び雨が降りはじめた。その日、集まりが解散したのは夕方になってからだ。今日中にゆう子の家にいこうと思っていたが、この時間と雨では諦めるしかない。今日は、大津にあるユース・ホステルに泊って、明日、ゆう子の家にいくことにした。おばさんは「明日、待ってるわね」といって電車に乗って帰っていった。
 マキノのログハウスから大津まで、例の問答男と奥さんの乗った車を運転することになった。素面の男は、昨日とは打って変わって友好的で、旅や釣りの話に華が咲き、大津に着くとマードゥに乗ったぼくをユースまで案内してくれた。意地の悪いひとじゃないんだ。
 学校のように広いユースには、季節外れの日曜ということもあって泊り客はぼくのほかにもうひとり男がいるだけだった。寒々しい八人部屋にひとりで寝るのは少し薄気味悪かったが、山を歩いてエネルギーを出しきった体はいつのまにかぼくを眠らせてしまった。
 翌日、相変わらずはっきりしない曇り空の下を奈良へ向けて出発する。大津の町は、通勤の車で少し混雑していたが、瀬田川沿いの道に出ると、嘘のようにすいた。巨大な水瓶、琵琶湖がはじきれそうな勢いで濁流を川に吐き出している。道に沿ってゆるやかにカーブする流れは、地形の凹凸ではなく、その早さで大きな瀬をつくっていた。そこを自分が下っている姿を想像すると肩がすくむ。本当なら、このまま川沿いに奈良街道に出たほうが早いのだが、信楽の方へ道を反れて少し回り道をすることにした。その方が緑が多くて気持ちよさそうだったからだ。
 丘陵地帯の小さな道に入ると、マードゥの他はなにも走っていなかった。まるでテスト・コースを走るプロドライバーにでもなった気分だ。しかし、それが落とし穴だった。
 山中にあるT字路。信号もなく、周囲に家もない。左右の見晴らしも抜群によかった。視界の中に動くものはなにもなかったので、ウインカーを左に出して、減速。道に乗った途端だった。後ろから聞こえてきたあの耳障りな音!
 ウーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「そこのバイク、ウインカーを出して左に止まりなさい」
 スピーカーからひび割れた無機質な声が鳴る。
 わざわざ「ウインカーを出して」といってくれるところがなんとも親切なかぎりだ!
 道の脇に止まると、パトカーはぼくの前に止まり、中から中年の警官が出てきた。
 「今、キミは一時停止のところを止らないで左折したね。免許証を見せて」
 なんで、こんな交通量の少ないところで取り締まりなんかやるんだよ!ほかに取り締まることがたくさんあるだろ!と、声にならない叫びが体中に響く。しかし、ぼくの手は素直に免許証を差し出していた。
 警官は、免許証を一瞥すると、ぼくをパトカーに乗るように促した。後部座席に乗ると助手席にもうひとり警官が座っていた。ふたりとも小太りの中年で、背格好がそっくりだ。ただ違うのは、助手席の男が黙々と書類作製に打ち込んでいることくらいだ。その間、マードゥのところまできた警官がなれなれしく「旅行中?」などと関係ないことを聞いてくる。そのふたりの行動が、いかにも業務を円滑に進めるための手順を踏んでいるようで、なおさらむかついた。
 そして、キップを切った警官が、最後にいった。
 「六〇〇〇円ね」
 六〇〇〇円!
 ただでさえ金のない旅だってのにとんでもねえ!
 パトカーから降ろされ、立ち尽くすぼくに、警官はなおもいった。
 「じゃ、これからは気をつけてね。できれば、もう一度あの交差点に戻って確認して」
 パトカーはゆっくりと走りだし、ろくに加速もせずにノロノロと山間に消えていった。
 もう一度戻って確認!?
 頭にきたぼくは、マードゥを走らせながら「バッキャロー!」と叫んだ。
 しかし、期間中に罰金を支払わないと超過料を取られるので、その足で郵便局へ行き、六〇〇〇円を支払った。
畜生!



旅の休日

 やがて、うねり道は木津川を越えて、奈良市に入った。ゆう子の家には何度か遊びに来たことがあるので、この辺りまで来ると、もう勝手が分かっている。駅からの長い坂道を登り、右に折れて公園を抜けたところにある閑静な住宅街。昼過ぎには、彼女の家に着いた。
 家では、おばさんが待っていてくれた。ゆう子は、仕事に出ていた。
 長良川からこっちに転送しておいたカヤックをおじさんが受け取ったらしく、そのとき、あまりの重さに腰を痛めてしまったらしい。「トモがカヤックなんか送ってこなければ、お父さんの腰も痛くならなかったのに!」と、おばさんはぼくをなじった。こうして、いつものようにぼくを気さくに受け入れてくれた。
 夜になると、ゆう子が、黒いシャツに深緑のパンツという仕事着のままで帰ってきた。自分の目で確かめるまで、本当にぼくが来ているか心配だったという。ぼくを見た彼女は、本当にほっとしていた。信楽の罰金事件を話すと「そら、悔しいなあ」といって笑う。そんな彼女を見ていたら、罰金のことなどどうでもよくなってしまった。
 奈良に来て三日目。北海道の天塩で一緒に海の幸をつっついた京都のヒデとミキエに大阪で落ち合った。ふたりに会ってからもう二ヶ月が過ぎていたが、相変わらず仲がいい。もちろん、ゆう子も一緒だ。
 ぼくたちは、大ダコを食いながら難波をぶらついた。久々に見る大都会。色とりどりのネオン。人息で咽るような街の匂い。男と女、仲間と他人が交わす言葉の喧騒。全ての人間臭いものがぼくの目を惹く。人間と人間がおこす摩擦が興奮させる。仲間さえいれば街は最高だ。そして、ゆう子が目をつけていた台湾料理の店に入った。ビールがジョッキ一杯一〇〇円というので、むきになって飲む。貧乏人の悪い癖だ。料理が小皿に盛られて次々と出てくる。その中で、エビチリの横に盛りつけられたサクサクとした食感の野菜が何かという話題になった。結局、誰も分からず、店員をつかまえて聞くと「クワイです」と答えた。「芽が出ますように」と、お節料理に添えられる小さな蕪のような白い丸みから緑色の芽がすっと出ている奴だ。
 「ああ、スエーデンのミュージシャンね」というと、みんな「何いってんの?」という顔でこっちを見る。「ジャミロ・クワイ」といって、やっとミキエが笑った。
 それから、酔いがまわるにつれ、ぼくがひつこく北欧のデカ頭帽をかぶった男の唄を口ずさむので、「まるで大阪人のノリやな」といわれた。関西の人間にそういわれるとは光栄だ。ぼくは、更にひつこく唄い、みんなに煙たがられた。
 ヒデたちとは、もう一軒ハシゴしてから別れた。旅先で知り合った人間と、同じ旅の途中で、もう一度会うというのは面白い。相手は、既に日常に戻り、現実を身にまとっている。その点、ぼくは自由で身軽だ。やることは、全て自分で決める。でも、まてよ。自由に日常と非日常なんて関係あるのだろうか?旅にしか自由はないのか?この旅だって非日常ではあるが、非現実ではない。この世に現実でないものなんて人間の頭の中くらいしかない。非現実的はあっても非現実はないんだ。それじゃ、非日常と非現実はイコールか?違う。多分…。ああ、よく分からなくなってきた。酔っ払いながら考えることじゃない。ただ、いえることは、こうせずにはいられないエネルギーが、ぼくのド真中にあるってことだ。自分の意志で動いているのかって疑問はときどき考える。でも、旅は自分の思い通りにはいかないんだ。それが面白いっちゃ面白いんだけど。とどの詰まりは息をして立ってるってことなんだ。ようは、自由ってのは気持ちの問題なのかもしれない。
 ゆう子の家に帰る途中、彼女は飲みすぎて吐いた。家に戻り、彼女をベッドに寝かしつける。飲んで吐いて疲れきった彼女の顔は、少し可愛かった。しかし、せっかく次の日に休みをとっていたのに、彼女は二日酔いで一日中寝込んでいた。
 それから三日、ぼくは気ままに息をして、食べて、眠った。ゆう子の両親も、ぼくをとがめることもかまうこともなく、自由にさせてくれた。それが、最高のもてなしだった。しかし、ここは、ぼくの居場所じゃない。そんな違和感が絶えず心のどこかに浮かんでいた。
 飽くまで、ぼくは部外者だ。自分の居場所はどこにあるのだろう…。机やステレオが置かれている部屋なんかじゃないのは確かだった。物なんか器にしか過ぎない。他を探してみたが、そんな場所はどこにもなかった。今、ぼくがいくべきところは路上や川の上にしかないらしい。
 奈良を出る日。ゆう子は「もう二日いれば休みだから、それまでいれば」といった。しかし、その日に出発するのは彼女も分かっていただろう。彼女の出勤時間になり、車を借りて駅まで送る。
 「じゃ、またね」
 あっけらかんとそういって、改札口へ歩き出すゆう子。しかし、何度も何度も振り返り、手を振って見せた。そんな彼女を見ていて、どういうわけか前進する力が沸沸と湧いてきた。



お滝参り/日置川

TF048.jpg おじさんとおばさんに見送られて出発したぼくは、紀伊半島を南下した。国道一六八号に乗って、こんぴら山から山道に入る。マードゥが木陰に飛び込むと冷気が襟や裾から入り込み、肩がすくんだ。ゆう子の家に逃げ込んでいる間に、外の世界はすっかり秋だ。
 やがて、道は熊野川の支流、十津川に出た。深い山の谷間を流れるこの川の上流部は見惚れるほどきれいなエメラルドグリーンの清流だった。川が蛇行するたびに日の光が角度を変え、川面が銀色に光る。こんなところを下ったらどんなに気持ちがいいだろうと思っていると、突然流れが死んでダムが現れた。そこから下は、見事なまでにまっ茶色の濁流に変わってしまった。日本のダムは、深い部分から水を抜くものが多い。太陽光線の届かない底の水温は低く、流れがそのまま落ちる滝と違って下流の環境を一変させる。それにしても、これじゃまるで別の川だ。がっかりしたぼくは、川から目を反らし、ひたすら走った。
 河原を掘るとお湯が湧き出す川湯温泉で一泊キャンプをして、熊野古道に入る。この辺りは、国内一の年間降水量が育んだうっそうとした森が広がり、濡れた空気が漂う谷は神秘的でさえある。きつい傾斜のくねり道を上っていくと、分水点を越えて、沢の流れが変わった。これから下る日置川水系に入ったようだ。
 ヒノキの森に覆われた日置川は、蒼く澄んだ水飴色をしている。以前、川の上流にある村でキャンプをしたことがあった。そのとき、ペットボトルの水を買おうとしてスーパーの棚を探したが、どこにも見当たらなかった。店員のおばちゃんに「水は売ってないの?」と聞くと、呆れたように「ここの水はきれいだから、川の水を飲めばいいのよ」といわれたことがある。そういう川だ。
 日置川も、十津川のように殿山ダムによって流れを切断されている。それでも、この川がその清流ぶりを保っていられるのは、豊かな森のおかげなのだろうか。
 ダムを降りて、中流の河原にあるキャンプ場に向かう。すると、入口には鎖がかかり、中には誰もいなかった。そして、驚いたことに、敷地内に生えていた一〇メートルはある木々が、みな真中からポキッと折れていた。対岸の温泉があるクアハウスなどは、建物がバラバラに崩壊している。ぼくが長良川で会った台風の爪跡のようだ。
 事務所の横に管理人の番号が貼り出してあったので電話をすると、倒れた木を取り除く作業が週末にあるから、飛び込みのキャンパー以外は断っているといった。ぼくは飛び込みだからオーケーってわけだ。
 誰もいないキャンプ場の真中にテントを張り、運送会社に電話をして舟を持ってきてもらった。公共の施設ならテントでも配達してくれるので便利だ。
 近くの集落にビールを買いにいき、戻って来ると管理人が来ていた。年は七〇代前半といったところか。耳の手術をしたばかりだといい、頭に包帯を巻いている。よく聞こえないのか、男は、ぼくの話を無視して一方的に台風の話をして、金を取っていった。
 翌朝、舟の入ったザックを背負って六時五三分のバスに乗る。小さなマイクロバスで、やけに痰がからむ運転手は、咳き込みながら集落ごとに新聞を配っていく。旅館。民家。玉伝というところでは学校のポストに入れていた。バスは、その次の玉伝口で終点だった。ぼくの他に三人しかいなかった乗客は、そこから峠を越えて海岸線にある大きな町に向かうバスに乗り継いでいった。川を下りはじめるダム下へいくには、ここから別のバスに乗り換えなければならない。そのバスが来るのは、まだ二時間も先だった。
 仕方がないので、冷たいコンクリートの壁にもたれて、本を読みながら車が通り掛かるのを待つことにした。そこは、掘立小屋のバス停所以外は露に濡れた路面しかない谷間の道だった。どう考えても交通量の多い場所ではないので、うまく車を捕まえられるか心配だったが、やってみるとものの一〇分でBMWが止った。きれいな後部座席にきたないザックを放り込むのは気が引けたが、中年の男はさほど気にしていないようなので、思いきって突っ込んだ。おじさんは、仕事でこの奥の村へいくところだという。年に似合わずELTの曲をかけているのがおかしかった。つづいて、遊び帰りのジムニーに乗ったお兄ちゃんに拾われ、八時過ぎには殿山に着いてしまった。
 ダム下は谷が深く、民宿の前にある細い石段を伝って川辺に降りていく。朝の谷底は、まだ青みがかった影に沈んでいて、上流からひんやりとした冷気が流れてきた。
 舟を組みたてていると、歩行機を押しながら散歩をしているお婆ちゃんが通り掛かり、ぼくを見ていった。
 「川を下るんかい。水が多いから気を付けや」
 お婆ちゃんのいう通り、川の流れは速かった。舟を浮かべると、漕がなくても全速力で疾走する自転車のように爽快に進み出した。岩の間にしきつめられた砂利が後ろに飛んでいく。すぐ下には大岩が絡んだ階段状の瀬があり、舟はあっという間に大きな波に飲み込まれた。
 白。白。白。
 冷たい水を頭からかぶる。泡立つ水は舟を覆ってしまい、乗っている自分でさえ何も見えなくなる。岩を避けることだけに集中していると、いつのまにか瀬から吐き出されていた。久しぶりに味わう急流は、全ての重みをとっぱらってくれて、身震いするほど爽快だった。
 深い淵に入っても流れは速く、グルグルと水流が川底を蹴って水面を盛り上げている。最初の瀬を下っただけなのに、河原に上がって、日光で暖まった石の上に仰向けに倒れ込む。ずぶ濡れになった体がゆっくりと体温を取り戻していく。空へと駆けあがる杉の森。蛇行する川と同じ形の青空。背中で鳴る早瀬の心地よい音。草むらから聞こえる秋虫のリズム。カワセミが水面すれすれに飛んで、流れにせり出した木の枝に留まった。こんなときだ。自分の何かが溶け出すのは。
 川は、短い間隔で瀬と淵を繰り返し、ページをめくるように次から次へと景色を変える。これが小さい川の面白いところだ。しかし、その風景には、必ずどこかに台風の被害が見えた。西向きの斜面、あるいは西から川に伸びる谷の杉林が、根こそぎなぎ倒されている。それは、谷が開けた下流にいくほどひどかった。そういえば、殿山に上がるときに乗せてもらった車のおじさんが、一週間前まで、この辺りの道は落石や倒木で通るのもままならなかったといっていた。
 それにも増して驚いたのが、釣師が少ないことだ。日置川は、アユで有名な川だ。ここのアユは、ヒノキの香りがすると聞いたことがある。釣りの案内をする店を覗いたときは、一・五リットルのペットボトルくらいあるアユの剥製が玄関に飾られていた。川の両脇から切れ目なく竿を振りかざす三面川とは対照的だ。きっと、周囲の人口が少ないのと交通の便が悪いのが理由だろう。どっちにしても、ありがたいことだ。今日の川は、ぼくだけのプライベート・リバーだ。
 昼を過ぎ、広い河原に出たので、ラーメンを食べることにした。バーナーでお湯を沸かしている間、膝まで水に浸かって川床を眺めていると、魚の多さに驚く。ゴリ。鯉。カジカ。手長エビなどが石の間からチョロチョロと顔を出すのだ。エビをすくおうと思ったが、水が深くてうまくいかない。網をテントに置いてきてしまったのが悔しい。
 ラーメンを食べ終わり、河原に寝転がっていると、対岸の少し奥まったところに滝があるのに気づいた。線の細い水が、色の濃い杉林の上に落ちている。岸辺には、その滝からの沢が川に流れ込んでいるのが見えた。何故だろう。ぼくは、その力なく降り注ぐ滝の下へいってみたい衝動にかられた。
 沢の流れ込みに舟を付けると、水は干上がっていた。空沢は、辺りの森から一メートルほど低く窪んで、蛇行しながら森の奥へ伸びている。歩き出すと、一面に敷き詰められた杉の葉で足元がフカフカした。まるで、滝へ通じる参道のようだ。
 一〇〇メートルほどいくと、杉林が切れ、滝壷に出た。
 滝は、岩をなめながら雨のように降り、小さな虹をつくっていた。高さは三〇メートルくらいだろうか。濡れた岩盤の節々が日に光っている。滝壷から出た小さな流れは岩の間を三、四段落ちて、地下へと潜っていた。
 狭い空間だ。
 唐突に、叔父のことを思い出した。
 台風の高波に浚われ、海に放り出された叔父は、冷たい海の中で何を思って死んでいったのだろう。海岸で見つかった叔父は、しっかりとカッパを着てほとんど無傷だったという。あの日見たペニスの夢はなんだったのか。目の前に、異次元の海水が押し寄せ、その感覚がジワジワと現実に滲み出てくる。
 死はいたるところに転がっている。
 ぼくも死の上に生きてるんだ。
 そして、死ぬために飯を食って、クソをして、寝る。
 声も出ず、震えることもなく、ただ、涙が出た。
 後ろで何かの気配を感じ、振り返ると、森の影が一本の黒い線になって空へ飛び出していた。その行先を追って頭上を仰ぐと、大木が無数の枝を広げて傘のように滝壷を覆っていた。根の部分には、土砂が崩れるのを防ぐように石が積まれ、人がひとり入れるくらいの空間があった。その闇には、もののけがいた。恐い。叔父が安らかに眠れるように祈った。ここに来なきゃいけなかったんだ。そう思えた。
 川に戻って二回蛇行すると、誰もいないキャンプ場に着いた。夕方になって雨が静かに降り出した。
 次の日も雨は降り続いた。憂鬱が重くのしかかってきて、なにかをしなきゃいけないと思い、屋根のある炊事場で穴だらけの舟底を修理した。それにしても、雨の多い夏だ。
 三日目に、ようやく雨が止んだ。白い砂利道が眩しいほどの快晴だ。川向の民宿から舟を送り、マードゥに残りの財産をつぎ込んで河口に向かうことにした。上って下ってうねってくねる道を走ると、秋晴れに包まれた美しい川が細切れに現れる。光る川。抜ける空。こらえる山。潤いに熟した秋の透明な空気が、ぼくを浄化する。全てのものが、心にまっすぐ飛び込んでくる。思わずハンドルを放して万歳したいほど爽快だ。夢中で走った。
 日置川の流れは、その美しさを失わないまま海に出ていた。対岸には、黒い影が固まった岬があり、手前は静かな漁港になっていた。砂浜にマードゥを停め、白く崩れる波うち際に手をつける。すると、今までの道のりが、ぼくの後ろで一本の線につながった。そういえば、太平洋を見るのは知床以来だ。光る海を眺めながら、小便をして出発した。
 地形にあわせてくねりながら海岸線を走る熊野街道をまくって田辺町に入る。海を眺めながら青空の下を走るのは気分がいいが、なんせ交通量が多過ぎて、走りづらかった。そこで、田辺から会津川を遡って内陸に入り、紀伊半島の真中を突っ切ることにした。
 道はどんどん急になり、小さなエンジンのマードゥは唸りっぱなしだったが、折り重なる山々は青々と美しかった。虎ヶ峰峠を越えて和歌山県に入ると日高川沿いに下りはじめる。この川も澄みきったきれいな流れをしていたが、ご多分にもれず、堰やダムで寸断されていた。
 途中、山村の小さな食堂に入ってカツ丼を食べた。夏がぶり返したような強い陽射しがつくる影の中で、パイプ椅子に座り、ガタガタのテーブルの上で丼にがっつく。客は二、三人いたが誰もしゃべらず、天井近くの棚にのっけられたテレビのニュースだけが、やけにはしゃいでいる。
 そういえば、だいぶ世間知らずになってるな。
 まるで世の中とは隔離されてしまったような寂れた食堂で、そう思った。ひとり旅のうすら寂しい気持ちと怠惰を味わうにはうってつけの場所だった。
 しかし、ぼくは、今日、自分と繋がりのある人間と久しぶりに会うことになっていた。
 石橋が、遅い夏休みをとって山陰の江の川を下りに来ているのを知り、和歌山で落ち合うことにしていたのだ。彼は、大学時代に旅先で知り合った友人だ。
 結局、場所は有田のユース・ホステルになった。一〇月頭の木曜日。泊り客は、他にひとりしかなく、一〇畳の座敷がぼくらふたりに与えられた。久しぶりに会う石橋は少し日に焼けていた。ぼくらは酒を買い込んで、ホステラーが不信な顔で部屋を覗きに来るまで飲み明かした。二重まぶたで南国系の顔をした石橋は、いつも適当に力を抜いてリラックスしている。そんな奴のおかげで、一息つけた気がした。



激流とオッパイ/吉野川

 翌朝、重い荷物は車で来た石橋に渡し、和歌山のフェリー乗り場に向かうことにした。そこから四国に渡り、吉野川の激流をラフトで下ろうと昨日から決めていたのだ。しかし、いざ出発しようとすると、マードゥの前輪がぺしゃんこに潰れているのに気がついた。
 ハイキングに出かけようとするホステラーを掴まえて、近所のバイク屋を呼んでもらう。見てもらうと、パンクしたのではなく、空気を入れるピンがバカになっていて、中の空気が噴出してしまっていることがわかった。山形で買って以来はじめてのトラブルだったが、たいしたことがなくてよかった。というよりも、ここまで何もなかったのが不思議なくらいだ。修理のお兄ちゃんは手際よくピンを替えてくれて、予定していた徳島行のフェリーにも間にあった。
 徳島は、四国三郎と称えられる日本屈指の激流で知られる吉野川の河口にある町だ。そして、情報雑誌で調べたばかりのJOINというアウトドア・ショップに向かった。そこで、四国山地をえぐって走る吉野でも一番の急流区間である大歩危小歩危を下るラフト・ツアーを申し込んだ。明日出発の約八キロを下る一日コースにする。参加費用は、ぼくにとってはつばを飲むほど高かったが、やわな折り畳み式のカヤックでこの激流を下るのは危険過ぎる。猛烈なパワーの流れが舟をバラバラにしてしまうだろう。泣く泣く諭吉ふたりとお別れした。
 店を出て、遅い昼食を済ませると、大歩危小歩危を目指して川沿いを走る。激流下りで上流が有名な吉野川だが、大きな河原と太い河畔林に囲まれた下流は独特な空間を持っていて、巨大な開放感をつくりだしていた。ぼくは、うれしくなって両足を広げ、少しでもその開放感を体に取り込もうとした。
 山間部と平野部の間にある池田ダムの下流でキャンプをしたぼくらは、翌日、石橋の車で大歩危にある集合場所のドライブインに向かった。ダムを越えると、険しい断崖がそそり立ち、道路は、宙を浮くように崖に張りついて走った。緑と白が交互につづく急流は深い谷底に沈んでしまった。
 その日の参加者は三〇人をこえた。貸し付けのウエットスーツとライフジャケットを着て、ヘルメットを被る。ラフトの漕ぎ方、落ちたときの流され方のレクチャーを受けた後、参加者は四艇のラフトに割り振られた。
 石橋とぼくが入ったチームは七人組の二番艇で、ガイドと四人組の女の子と一緒になった。女の子は、みんな二三歳で、大学時代の同級生だという。一緒にいる分には悪い気もしないが、この組で急流を漕ぐと思うとちっと心配だ。ガイドはショウヘイといい、濃い顔立ちで関西弁をしゃべる明るい好青年だった。理髪店のカタログに載っているようなカッチリとしたパーマをあてているのは、万一、川に落ちたときにも崩れないようにするためだろうか。すると、こいつはよく川に落ちるのか?コントロールが下手なのかと思ってしまう。しかし、もうまな板の上の鯉。あとはガイドに任せるしかない。
 上流にある早明浦ダムの今日の放水量は、毎秒一三〇トンを超えているという。これは、通常よりも多いらしい。ラフトに乗り込むと、左右対照に三人ずつ座り、一番後ろに舵をとるショウヘイが座った。石橋とぼくは前から三列目。空気でパンパンに固くなったラフトは、岸を離れると大きな岩に囲まれた谷底をゆっくりと進みだした。
 道路の上からは、いくつも大きな瀬が見えたが、あまりにも谷が深いので客観的にしか感じることができなかった。しかし、実際に自分が下るとなると、期待と緊張が体中を走る。どんな瀬でもドンと来い!そう覚悟を決めた。ところが、波こそ高いものの、流れは思ったほどきつくなく、これなら自分の舟でもなんとかなると思う程度で、そのまま昼になってしまった。
 昼食は、陸に上がり、川沿いのホテル裏で弁当が配られた。プラスチックの器に入ったノリ弁程度のもので、味も素っ気もない。もっと、BBQとか川魚を出すとか、思考を凝らせないのだろうか。せめて、ホテルの裏ではなく、河原で食べさせてほしかった。ぼくらは、誰もいないところでいいあった。金返せ!
 しかし、それはとんだ思い過しだった。
 後半に入ると、クラス四級五級の瀬が次々と現れた。
 まず現れたのが、森囲いの瀬。勢いよく流れてきた川が大きく左に曲がり、右岸に押しつけられて膨れた水が一挙に転げ落ちていく。まず、先にいった一番艇を見ていると、最初の落ち込みで跡形もなく姿を消してしまった。それだけ落差が大きいのだ。
 ショウヘイの掛け声に合わせて、力いっぱいパドルを漕ぐ。その声も轟きにかき消されて、ラフトが大きな力に吸い込まれたとき、大きな落ち込みに入った。と、次の瞬間、ラフトは落下して、真中でグニャリと曲がり、女の子がひとり、流れに放り出された。ボイルした熱湯のように底から湧きあがる瀬の中で、その子はなすすべもなく、小さな棒っきれのように波の合間に見え隠れしながら下流に飛んでいった。
 彼女は、下にいた一番艇に助けられたが、ラフトに戻って来ると白目をなくして無表情になり、鼻を赤くして漕ぐこともできずにへたり込んでしまった。川下りもはじめてな上に、いきなり四級の瀬に放り出されたのだから無理もない。
 それから、他のチームは次々と現れる瀬をなんなく下っていったが、ぼくらのチームは、毎回、誰かが落ちた。ぼくも、大滝という場所でメガトン級の瀬に放り出され、水の中で宙返りをしこたまさせられた。水中で息ができないはずなのに、苦しくない。このまま、川底に引きずり込まれたらどうしょうもないなと思っていると、頭になにか柔らかいものが当たった。それを伝っていくと、突然、水面に顔が出た。ラフトの真下でもがいていたらしい。
 すまなかった!
 金返せといった自分が傲慢でした!こりゃ凄い。
 そして、みんな急流で泳ぐのにも慣れてきたころ、曲がり戸の瀬にさしかかった。距離が長く、岩が絡んだ大きな落ち込みがふたつあり、流されるのも危険な所で、この川一番の難所だとショウヘイがいう。しかし、そのすぐ上流まで来ても、大きな轟きと吸い込まれていく大量の水は見えるが、飛沫や波は全く見当たらない。そして、横一文字に切れた水面まで来たとき、やっと全てが分かった。
 そこは、滝の上だった。みんなで声を上げて我武者羅に漕ぐ。ラフトは、岩を左に舐めたかと思うと吸い込まれるように落下して、物凄い衝撃に押し曲げられた。よりによって、チームの中で一番可愛い女の子が波に浚われ、ショウヘイがぼくの頭を飛び越えて激流に落ちた。女の子は、どんどんラフトから離れ、泡立つ落ち込みに何度も飲み込まれた。ショウヘイは必死にラフトをよじ登ってきたが、次の落ち込みでまた振り落とされた。ガイドを失ったラフトは、みんなしがみつくことしかできない。女の子は、瀬を抜けた後、なんとか自力で岸に泳ぎ着いたが、ガイドの面目は丸つぶれだ。
 最後の鮎戸の瀬では、石橋とぼくが、帆船の船首のようにラフトの前に体をせり出して突っ込んだ。これが面白かった。目線が低くなった分、まるでカヤックで下っているようだった。ぼくらは「次はカヤックでやってやる!」といい合った。
 鮎戸を抜けると、瀞場がつづき、やがて終点の阿波川口に着いた。そこからは、マイクロバスで大歩危に戻った。
 ツアーには、温泉の無料入浴が付いていて、服を着替えて浴場にいく手配になっていた。借りていたウエットスーツを脱ぎ、備品を抱えて返しにいくと、丁度、女の子たちが着替えているところに出くわした。そして、目に飛び込んできたのが、曲がり戸で落ちたかわいい子の下着姿だった。ぼくの目は彼女の小さな胸に釘付けになった。
 キャンプ中心のひとり旅をしていると、そうそう女の子に出会う機会はない。人並みに、そういうものは見てきているつもりだったが、彼女の柔らかそうな胸が頭から離れない。世にもまれに見る美しいものを見たような気分になり、まるで中学時代に味わったような胸騒ぎがした。ああ、たまってやがる。
 悶々とした気分で風呂に入り、テントに戻る車の中で、ぼくらは何故か新鮮で懐かしい疲労感も味わっていた。それは、カヤックをはじめたばかりの頃、漕ぐこと自体が楽しくて我武者羅に漕ぎまくっていたときの感覚だった。最近は、ろくに漕がずに舟の上で酒ばかり飲んでいるが、たまには、こういうのもいいものだ。初心忘れるべからず。
 ぼくらは、水炊きを作り、楽しませてくれた吉野川にビールで乾杯した。疲れた体は酒の回りが早かったが、心地いい疲労感が底無しに飲ませた。
 翌朝、目が覚めてテントから這い出すと、川霧で霞む山の上に熱い太陽が昇っていた。幅のある流れには、白鷺が二羽立ち尽くしている。今日は、石橋と別れる日だ。彼は横浜に戻り、ぼくは次の目的地へ向かう。
 トランクの中でごちゃ混ぜになった荷物を全部出し、炎天の下で、ふたりの荷物を分ける。ぼくが木陰で昨日のことを日記に付けていると、江の川で雨に濡れたテントを乾かしていた石橋が、ラジオを鳴らしながら近づいてきた。
 「おまえ、雨男なんじゃないか?」
 そっけない天気予報官の声が「晴天は今日までで、この先一週間は雨模様がつづくでしょう」といっているところだった。こんなに抜けるような青空なのに雨が降る?北海道以来、この旅は雨につきまとわれている。石橋は、ざまあみろという風にニヤついた。
 別れる前に昼食でもとることになり、池田町の商店街にあるお好み焼き屋に入った。そこの主人はいい年で耳が遠いらしく、大声で注文をしなければならない。それとは対照的に、ぼくらの口数は少なかった。いつもならどんなに黙っていてもお互いに平気なのに、今日はそれが耐えがたいほど苦痛に思える。
 長い間ひとりで旅をしてきて、久しぶりに親しい友人に会い、酒を飲み、馬鹿をいい合い、激流を流され、楽しかった。そして、彼は日常に帰り、ぼくの旅はまだまだつづく。これからはじまる新しい出来事に胸をふくらませてもいいはずなのに、ぼくの心には「残される」という感覚があった。日常というものが恋しくなっているのだろうか。いや。もしかすると、この旅自体が日常になってしまい、町の生活が非日常になっているのかもしれない。同じ事を繰り返して自動的に時間が過ぎていく、あの生温い毎日が楽に思えてたまらない。しかし、今のぼくには出来ない話だ。どれだけ疲れようが、どう思おうが、ある力がぼくを西へ西へと押し進める。
 「戻ってきたら、連絡くれよ」
 「ああ。居眠りすんなよ」
 商店街から吉野川に出た交差点でぼくらは別れた。
 あいつは右へ。
 ぼくは左へ。



逃げ出した四万十川

TF055.jpg マードゥは、吉野川の渓谷を南へと上っていく。
 無性に寂しかった。止るのが恐かった。ふと、信号で止まったりすると、孤独感がぼくを押しつぶそうとする。そして、慌ててまた走り出した。
 このまま、四万十までいってしまおう。
 そう決めると、もうどこにも止らずにひたすら走った。
 そうして、吉野川から二〇〇キロ走って四万十の上流の町、土佐昭和に着くころには夜になっていた。ここに来るのははじめてじゃない。この旅では「いったことのない川」を前提に選んできたが、四万十は、唯一、二度目に来る川だ。水は汚れてきているが、これだけ川に住む生物が多く、河口まで山に囲まれた大河はなく、もう一度来る価値があると思えたのだ。
 前回にもつかった大正町にあるキャンプ場にいくと、川辺にある広い芝生には三つのテントしか張られていなかった。適当な場所にテントを張り、レトルトのカレーを食べると、一日走りづくめで疲れた体はすぐに眠ってしまった。石橋がいっていたとおり、次の日から雨が降り出した。
 キャンプ場のすぐ下にコンクリートで出来た桟橋がある。通常、その桟橋の袂まで水があるくらいが川下りに丁度いい水量といわれている。しかし、朝、見てみると、その桟橋は水面下に沈んでいた。天気予報では、東シナ海で台風一〇号が大暴れしているといっていた。こっちに来るのだろうか。
 一〇月に入ったキャンプ場は夏のピークを過ぎて静まり返っていた。それをいいことに、ぼくは管理事務所に入り浸り、管理人の正子さんとよもやま話をして雨が止むのを待つことにした。正子さんは、少しふくよかで、いかにも日本のおかあちゃんという感じの女性だった。
 昭和に来て三日目、天候は相変わらずぱっとしなかった。夕方、神奈川から来たチャリダーがひとり泊りに来た。四万十を源流から河口まで自転車で走っているという。ぼくらは雨を避けて、一緒に事務所の軒下で飯を食べることにした。
 三三歳の彼は、長年勤めていた建築会社が、今年、倒産したという。二級建築士の資格を持っている彼は、再就職も含めてこれからどうするか思案中らしい。しかし、設計の仕事が好きなので、また同じ職種につくだろうといった。
 「いままで何軒くらいの家を設計したの?」
 「四〇軒はしたかなあ」
 「その中で、自分が自信を持って人に勧められるものってある?」
 「ああ。二、三軒はあるよ」
 そうあっさりといえる彼の自信が羨ましかった。自分には、そこまで自信を持っていえる何かがあるだろうか。くやしいが、なにもない。
 「しばらく設計してないと、したくてたまらなくなるんだよねえ」
 せずにはいられないこと?それならある。旅だ。そして、そこであったことを書く。それに自信を持てるようになればいいんだ。それしかない!
 そして、その夜、思いがけないことを知る。
 町中が真っ黒な闇に沈み、雨だけが銀色に鈍く光り出すと、久しぶりに埼玉の実家に電話をした。そして、受話器を取ったお袋は、思い出したようにいった。
 「昨日、コスモス文学から知らせが来て、マッケンジーの話が奨励賞を獲って賞状が送られてきたわよ」
 「え?」
 思いもよらなかった。
 去年の夏、ぼくは、カナダを北極海に流れるマッケンジー川を下った。そのときの話をまとめて、総合文学の同人誌であるコスモス文学の新人賞公募に送ったのだ。それが、ノンフィクション部門で奨励賞を獲った!
 応募が何人あったのかは知らないが、奨励賞は三人選ばれたという。新人賞は中国の話らしい。大きな文学賞ではないが、はじめての賞だし、トップの四人に入れたことがうれしくて仕方がなかった。
 一通りお袋と話をして電話を切ると、すぐにゆう子に電話した。実際に原稿を送ってくれたのは彼女なのだ。「奨励賞を獲った」というと、ゆう子は一緒になって大喜びしてくれた。有頂天になったぼくは「なんで新人賞じゃねえんだよ!」と叫びながら雨の中を駆けずり回った。自分に自信が持てるもの。小さいけれど、その第一歩を踏み出した気がする。やったるぞ!
 しかし、天気には奨励賞など関係なかった。次の日も雨。もう、うんざりだ。こうなったら、雨が止むまで出発しないと腹をくくった。そして、いつのまにか、三度の飯を事務所の炊事場でつくるようになり、正子さんは、夏に来たキャンパーがおいていったテーブルとディレクター・チェアーを貸してくれた。これで、ぼくの生活もかなり文明的になった。
 そんなある日、四年前に来た頃の管理人さんが事務所に遊びに来た。「四年前にも来たんですよ」と、おじさんにいうと、「ふれあい日記」というノートを見せてくれた。それは、キャンプ場に来た人たちが書いていった落書帳だった。何冊もある中から自分が来た頃のものを取りだし、パラパラとページをめくってみる。そして、写真が貼りつけてあるページに来たとき、ぼくの目が止った。その写真の横には「東京から来て、あいにくの雨にあったが、次の日からはいい天気に恵まれてよかった。管理人さんもいいひとで楽しかった」と書き込まれている。「4.19 ヨシオカ」。
 クニだ。知床を一緒に漕いだクニだ。写真のあいつは、いまより少し痩せていて、何故か女座りをしている。そういえば、クニもここを下って、思いっきり沈したといっていたっけ。
 そして、更に驚いたのが、次のページにぼくの書き込みがあったことだ。ぼくが書いた日付は「4.29」とある。そして、クニとぼくの間には、誰も書き込んでいなかった。あいつと知り合う四年前に、ぼくらはここですれちがっていたんだ。そして、数千キロ離れたマッケンジーで引き合うなんて!そう考えると笑いが止らなかった。これが偶然ってものか。
 そんな小さな出来事はあったが、おおむね静かな雨の毎日が繰り返され、キャンプ場に来て一週間がたっていた。
 そして土曜日のある日、正子さんは、すっかり慣れ親しんだぼくに留守を任せて一日休みをとった。ぼくは、すっかり定位置になった事務所のソファーでくつろぎながら本を読んでいた。昼過ぎには雨足が強まり、広い芝生の上にぽつんとひとつだけあるぼくのテントはフライシートが水をすってテカテカに光っている。
 夕方になると、休んだはずの正子さんが神妙な顔つきで事務所にやってきて、開口一番「台風一〇号が上陸するのよ」といった。ぼくがテントを張っているグランドは浸水してしまうだろうから、荷物を全部、物置に移した方がいいという。物置は、土手の上にある事務所の下にあった。流されてはたまらないので、いわれた通りに物置へ引越す。その間も、雨風はどんどん強くなり、川の流れは茶色い濁流へとみるみる変わっていった。
 物置は、体育館の用具置場のようにコンクリートで囲まれ、窓もなく、川に面した壁だけに格子戸がついていた。鉄筋やパレット、芝刈り機が置かれていて、テントを張ると自分が立っている場所もない。芝刈り機の操縦席に座り、ラジオをつけるとシンディー・ローパのトゥルーカラーが流れてきた。懐かしく、蒸し暑い。格子戸からは、風に絡んだ雨がビシビシと音をたてて吹き込んできた。
 川もすっかり暗くなり、そろそろ寝ようとテントに入ると、また、正子さんがやってきた。こんどは、事務所に上がってくれという。もう、物置も安全ではないらしい。外に出ると、川は、太さを倍にして、暗闇の中を怒涛のように流れていた。水面すれすれにあった桟橋よりも五メートルは高い芝生のテント・サイトが全部濁流に飲み込まれている。町で一番よく川が見えるキャンプ場の事務室には、近所の人や役場の人が入れ替わり立ち代りやって来た。みんな、ガラス越しに見える巨大化した川を見詰めて「大丈夫か?」と心配そうに唸ってばかりいた。上流の窪川にある家地川ダムの通常放水量は毎秒五〇トンらしいが、四国電力の発表では二〇〇〇トンに増やしていると誰かがいった。通常の四〇倍の水が吐き出されているのだ!これで洪水対策といえるのだろうか。
 それでも、しばらくすると徐々に雨が弱まってきたので、みんな家に帰っていった。
 事務室の隣にある会議室で硬い床の上に横になる。そこは、机をとっぱらってしまった学校の教室のようにガランとしていて、薄気味悪い。大きなガラスの入った窓が、風でガタガタと揺れるのを見ながら、そこに幽霊が現れるのを想像しているうちに眠ってしまった。
 翌朝、目が覚めると、水は引きはじめていた。昨夜は管理棟の下まで水没していたのが、いまでは芝生の広場が見えはじめている。しかし、それからが大変だった。
 水が引いたテント・サイトには、木や草をはじめ、プラスチック容器やタイヤなどの漂流物が山積していた。それを、正子さんとぼくで熊手や手押し車を使って片付ける。台風一過の陽射しの下で久しぶりにする肉体労働は、怠惰のカスが溜まった汗をぼくから搾り出していく。作業は夕方までかかり、きつかったが、自分が再生されていくようで心地よくもあった。
 それからしばらく晴れ間がつづいたが、増水した川はなかなか水位を下げてくれなかった。そして、いつものように留守番をしていたある日、カヌーを何杯も載せたトラックがやってきて、長身の男が事務所に入ってきた。男は部屋の中を見まわし、正子さんがいないのを確認すると、ぼくに何をしているのかと聞いた。
 「川を下りに来たんだけど、雨ばかりで動けないんですよ。もう、一〇日もここにいるかな」
 「だったら、家に泊まりにこないか?」
 男は、唐突にいった。会って三分もたたないうちに、いきなり来いといわれて面食らったが、いいかげんにじっとしているのも飽きていたのでいくことにした。正子さんに置手紙をして、カヌーを降ろしてからトラックに飛び乗った。
 三人掛けの椅子の真中には男のこがひとり座ってジュースを飲んでいた。トラックは、走り出すと、細い山道を飛ばしはじめた。家へ帰る前に幼稚園の子供を迎えにいくという。男はキャンプ場のある土佐昭和から下流の中村まで四万十川を下るツアーをしているといった。今日は、明日から下る準備でカヌーを置きに来たらしい。ただ、川を下るガイドをするのではなく、キャンプをしながら物の考え方を教えるのだそうだ。ぼくが、あちこちフラフラしているというと、仲間になってここに落ち着かないかとまでいわれた。かわった男だ。
 彼の家は、沈下橋を渡り、山裾をまわり込んだ静かな森の中にあった。自分で建てたという家はログハウス調で立派なものだ。火は薪。水は沢。電気だけは町からひいているという。奥さんと子供ふたりの四人で暮していた。自分で家を建てて生活したいぼくには、まるで桃源郷のような所だ。
 日が暮れると、奥さんの手料理が振舞われ、酒が出された。男は、神戸の震災や高知の水害などでNGO活動をしていたらしく、自然とボランティアの話になった。いまでも、どこかで何か災害や事故があり、困っている人たちを見るとじっとしていられなくなり、飛び出していくという。
 ぼくは、違った。自分がしっかり生活できていないのに、他人を助けるところまで気がまわらない。自分の生活を崩してまでそれに向かうことはできない。そういうと、男も「それでいい」といった。ボランティアは、飽くまで自発的な活動だ。押しつけられてやるものじゃない。しかし、次の言葉で、男の態度は豹変した。
 「自分のためにやってるんだよね」
 彼は、テーブル越しにぼくのまなぐらを掴み、目をむいた。
 「疲れ果てて困っているじいちゃんやばあちゃんを黙って見ていられるか!」
 たしかに、言葉が足らなかった。偽善といっているのではない。ただ、全ての行為の根本は「自分が満足できるかできないか」に尽きるとぼくは思っている。困っている人になにもしない自分に耐えられないから、その気持ちを満たすためにその人を助けるのだ。そういう意味で「自分のためにやる」といったのだ。
 しかし、彼の目は押さえようのない怒りに血走っていた。ぼくは、その瞳を眺めながら、なにをするにしても、理屈とは関係なく本当に行動を起こすには、これくらいの情熱が必要なのかもしれないと思った。彼は純粋なんだ。ぼくは?
 でも、どう説明しても、もう彼は分かってくれないだろう。酒と怒りが、彼から冷静さを剥ぎ取ってしまった。ぼくは「すみません」と情けなく謝るしかなかった。そして、男はぼくを見て、一方的に「おまえは自分がないな」と結論づけた。何のオーラも感じることができないという。
 何も発していない?
 ぼくは、自分の存在を否定された気がして、混乱した。それでも、酒は飲みつづけた。だから飲んだのかもしれない。そして、泥酔し、何を話したのか、いつ倒れたのか、いつのまにか朝になっていた。
 目が覚めると、二日酔いで頭が痛み、吐き気がした。目に映る物が全て歪んで、頭の中でひっくり返ろうとする。昨日の夜中、うまくドアを閉められなかったぼくは「Fuck you
!」と、わめき散らしながら倒れ込んだという。全く覚えていない。奥さんが出してくれた朝食も喉を通らなかった。起きているのがやっとだ。
 男の家には、続々とツアーに参加するメンバーが集まってきた。客というよりは知り合いのようだったが、何人いたか数えることはぼくの頭でできる芸当ではなかった。とにかく準備が整うと、ぼくらはカヌーを積んだトラックに乗って上流のキャンプ場へ向かった。四万十沿いの細い道は、蛇行する川と一緒に激しくくねっていたので、ぼくは窓ガラスに頭を付けて、胃の中のものが込み上げるのを押さえながら息をするだけで精一杯だった。
 そんなとき、運転している男が、前を見たままぼくにいった。
 「トモ。約束通り、ちゃんといけよ」
 え?
 話を聞くと、ぼくは高知にあるボランティア村にいくことになったらしい。そして、その理由を聞いて驚いた。昨日の晩、酔っ払ったぼくは男に握手をせがみ、怪我をしていた彼の右手を無理やり強く握ったという。その痛い思いをさせた代償に、ぼくはボランティアの村にいかなければならないというのだ。そういえば、虚ろだが、彼の手を握り締めた覚えがある。そして、男は怒り、ぼくはまた情けなく謝った。しかし、今のぼくに、ボランティアをするために別の場所へいくなんてことはできないし、したくもない。確かに、傷口を握って痛い思いをさせたのなら悪いことをした。でも、それでボランティア村に放り込まれるなんて納得がいかない。
 事務所に着くと、ベランダに倒れ込んだ。その衝撃で、空はいつまでも静止せずに揺れている。もう、四万十なんてどうでもいい。全てがくだらなくなってきた。こんな旅なんかなんの意味もねえ。ばかばかしい!そう思いながら、へばりつくように眠った。
 次の日になっても、気分は落ち込んだままだった。何故か男のいっていた「ボランティア村にいけ」という言葉が頭から離れない。したくもないことを強いられるのは、うんざりだ。約束したとしても、酒で酔った上での話だ。しかし、約束したのならいかなければならないか。でも、手を握ったくらいで…。と、いくら頭の隅に追いやっても、知らぬ間にそのことで頭がいっぱいになってしまう。
 ぼくは、正子さんから自転車を借りて、朝食も食べずに走り出した。こんなときは体を痛めつけたほうがいい。上流に向かって緩やかな坂道を八キロ上る。しかし、気分は晴れるどころか、ペダルを踏むたびにそのことが頭の中で膨らんでくる。まともなことなど何ひとつ頭に浮かばない。考えることなんてやめてしまおう。それこそ意味なんてない。もっと気楽にいけ。固執するな。思い込むな。力を抜け。いいじゃないか。ホヘホヘホヘ。必死にそう思い込もうとする。その繰り返し。こんな日に限って、空は眩しいほど晴れ渡り、川の水もかなり引いてきた。アスファルトの道も山も空も川も風も、頭の中で不快に揺れる。
 畜生!何故、人間は自分がすることに意味を持とうなんてするんだ。単純に楽しいと思ってはじめたことも、回を重ね年をとるにつれ、同じことが重くなっていく。意味がなければいけないのか。そう考えること自体無意味なのか。堂々巡り。堂々巡り…。
 汗だくになり、キャンプ場に戻ると、カヌー・ツアーのみんなが川を下りはじめるところだった。ぼくは、声を掛けることもなく、道端のベンチに座り込んで背を向けていた。
 ボランティア村にいく?
 情けないが、どう仕様もないが、飽きれるほどそう約束したということが気になった。それを断ったときに男がどう反応するだろう。きっとなぐりかかってくるだろう。その恐怖心が、どうしても拭い払えなかった。
 「昔の四万十は、きれいな笹の葉色をしてた」
 それから、また数日たった快晴の日、キャンプ場の前で淀んでいる深緑色の淵を眺めながら喫茶店の親父さんはいった。そして、とうとう出発することにした。しかし、川は下らない。ボランティア村にもいかない。ぼくが荷物を積み込んだのは、カヤックではなくマードゥだった。
 正子さんは「寂しいわ。これからどうすればいいんやろう」と、ふくよかな手で顔を覆った。そして、なにを思い立ったのか「最後の留守番、頼むわ」といって事務所を出ていってしまった。しばらくすると、彼女は小さなプラスチックの容器を抱えて戻ってきて、ぼくに差し出した。お手製のタマゴサンドが透明のパックに詰まっている。込み上げてくる涙を必死に押さえながら、サンドウィッチに噛みついた。正子さんには、本当に世話になった。それでも、ぼくは、早くここから抜け出したかった。
 マードゥにエンジンをかけると同時に正午のチャイムが山にこだました。
 「お元気で!」
 努めてあっさりいうと、正子さんはニッコリ笑って手を振った。
 照り返しで白く光る町の道を上流へと走りだす。
 ぼくは逃げ出すんだ。そんな思いが背中にへばりつく。あの憂鬱な思いのままで川を下る気にはなれなかった。この思いを乗り越えて下ることこそ、なにか意味があるんだ!そんな気張った考えも思い浮かべてみたが、それほどの使命感は持ちあわせていない。第一、楽しくないし、消極的な気持ちで急流を下るのは危険だ。そう言い訳をつけた。
 右手に見える川は、クルクルとめぐり、秋の日溜りに輝いている。それでも、体をすり抜ける風はしっかり冷たくて肌寒い。よく見ると、川岸の木々が薄っすらと色づきはじめている。長い間重苦しい灰色の世界にいたぼくにとって、この久しぶりに見る光と影の強いコントラストは心地よかった。
 台風で下流に大水をぶっ放した家地川ダムを越えると、川は本当に笹の葉色をしていた。清流四万十と称えられ、人々が訪れるのは、ほとんどがこのダムの下流になる。堰さえなければ、こっちを下った方が気持ちいいかもしれない。そのくらい、上流の流れは素晴らしかった。
 ぼくは、源流を目指していた。ちんけな考え方だが、行先を投げ出してしまったぼくにとって、今、いくべきところはここしかない。はじまりへ。
 遡るにつれて流れはどんどん細くなり、川にしがみつく棚田の面積も小さくなっていく。そして、大野見の山村に入ると、とうとう四万十は渓流になってしまった。日がさし込まないほど深い谷に潜り込むと冷気が漂い、曲がりくねる林道は砂利道に変わった。勾配がきつくなるにつれ、マードゥの細いタイヤは深い砂利にめり込んでハンドルがとられる。こんなところをビジネス・バイクで上るのが無茶なのかもしれない。それでも、ぼくは、ギアを一速に突っ込んだまま、ガリゴリとホイールを擦りながら、くねくねと杣道を走った。そして、やっと登山口にたどり着き、歩きはじめるころには大分日が傾いていた。杉が生い茂る急斜面を這うように登っていく。足元は、折れた杉の枝で一杯だった。歩きづらくて仕方がない。これも台風のせいか。
 沢に沿って二〇分ほど登ると、ふたつの細い沢がぶつかっている所に出た。それが源流点だった。気ばかり焦っていたぼくは、すっかり息が上がり、鼓膜にまで鼓動が伝わってくる。抱えていたカメラを後ろに回して、腹ばいになると、今度はこめかみに心拍音が響いた。それでも、岩の間から落ちる最初の流れに口をつけ、深呼吸しなきゃならなくなるまで原水を飲む。水は、サッと喉にしみ込んだ。うまい!まるで、降ってきた雨粒を吸う校庭のように水を体が吸い取っていく。
 息をついて、仰向けになる。そして、頭を起こしたとき、はっとした。森の暗がりの中で、巨岩が灰色の空をシルエットにしてそびえていた。上へと伸びる岩肌の凹凸が、ぼくには皺くちゃの老人の横顔に見えた。彫りの深い眉の影は、じっと谷を見下ろしている。その姿は、ゆっくりと呼吸をして、谷に風を送っているようだ。
 カミサマだ。
 そう思えた。
 立ちあがったぼくは神様を見上げた。その存在感は圧倒的で、祈らずにはいられなかった。
 でも、いったい何を祈るんだ?自分のこと?違う。死んだ婆ちゃんと叔父のためだ。そして、友人やこの旅で知り合った人たちだった。好き勝手に旅をしているが、みんながぼくを立ちつづけさせてくれている。そうなんだ。
 みんな、元気でいてくれ!
 まったく、自分でも照れくさくなるような言葉だったが、そう思うと、不思議なことに体の底から力が湧いてきた。
 ぼくは、沢の水をもう一口飲んで、源流を後にした。



押し進める力

TF056.jpg 上って来た林道をいっきに駆け下り、国道に出たところで路肩に止る。今日のキャンプ地を決めなければならない。山積みの荷物にバンドで引っ掛けてある地図を開き、今いる場所と同じページに載っていた四国カルストへいくことにした。聞いたことのある名前だったからだ。
 エンジンを唸らせて山間の道を西に走ると、太陽が真正面から照りつけた。日没まで時間がない。もう一〇月も後半にさしかかっている。日が沈むと気温がぐっと下がるに決まっている。防寒着といえば、フリースとカッパくらいしか持っていない。いそがなきゃならない。
 しかし、カルストは標高が高かった。安易に決めた自分が悪いのだが、標高一四〇〇メートルを越す台地への急な坂にマードゥが悲鳴を上げた。一〇キロもの上り坂を二速でのろのろと登る。エンジンが焼きつくかと思ったが、なんとか耐え忍んでくれた。
 坂を上りきったところには立派な国民宿舎があり、その向こうには無数の岩が露出している草原が、弱々しい秋の夕日を浴びながら尾根に沿ってつづいていた。今きた道を見下ろすと、下界はもう山影に沈んでいる。カルストは天空の庭だった。
 キャンプ場でテントを張っている人なんて誰もいなかった。確かに、野宿するには寒すぎる。指定されたデッキの上にテントを張り、国民宿舎にある風呂に入って、やっと一息着いた。外に出ると、口から吐く息が白くなるほど寒い。空を見上げると満点の星空が広がっていた。天の川を見るのは久しぶりだ。風が冷たく、寝袋に入ってもなかなか眠れない。気温五度。
 そして、やっと浅い眠りについたころ、ぼくは夢を見た。
 ロープで吊るしたイエローキャブを左手に持った自由の女神が、スルスルとそれを下界に降ろしている。その中にぼくが乗っていて、運転主は完璧なスタイルの女だった。地上に着いたキャブは、大通りを走り出す。すると、ぼくは、運転している女の尻を後ろから持ち上げてパンティーを脱がせてやってしまった。発射した瞬間、右の路地に『天丼』と書かれた赤い看板が見えた気がする。
 そして、目が覚めると、パンツが濡れていた。夢精なんてするのは、生まれてはじめてだった。たまってるのか?それにしちゃ疲れきってる。いったい、どうなってるんだ!
 次の日、日が高くなって気温が上がる前に大荷物をパッキングして出発した。快晴の下のカルストは見晴らしがよく、開放的で美しかったが、木も水もない台地は、ぼくにはただきれいなだけのものでしかなかった。むしろ、この高原の冷気から抜け落ちた水で森を湛える山里の方が心に染みる。ぼくにとっての水とは何なのだろう。どんなに汚い川でも、コンクリートで固められた水路でも、水の流れを見ると心が和むのだ。
 カルストからの道のりは、ひたすら下り坂で、マードゥのエンジン音も心なしか軽やかだった。ただ、全身に当たる風がもう冬の予感を含んでいる。
 松山のユースホステルで一泊したぼくは、瀬戸内海を渡る阿賀行のフェリーに乗るため、松山市郊外にある堀江港に向かった。それが、松山から広島に渡る一番安いルートなのだ。
 フェリーには、車が六台、バイクはぼくしか乗っていなかった。いつもならデッキで海でも眺めているのだが、今日は体がだるい。フェリーによくある暖房のきき過ぎた雑魚寝の船室で仮眠する。すると、持っている服を全部着ているのに寒気がしだした。昨日のカルストからの走り疲れがひびいているのだろうか?いや、この旅全般の疲れだろう。出発して、もう三ヶ月半が過ぎている。自分がなんのためにこの旅をしているのか分からなくなってきた。日本を横断したいのか?ただ、終わりを見極めたいだけなのか?
 目の前にある売店で「のど飴ない?」と聞くおやじがふたりもいた。もう、そんな季節なのだ。
 曇り空の阿賀には、昼前に着いた。早速、ターミナルの中にある公衆電話から三次にあるユースに電話する。キャンプする元気なんかない。これから、中国山地を日本海に流れる江の川を下る。三次は、その中流にある町だ。ところが、電話に出たおばさんは、愛想よく「今日は不都合がありまして…」と断った。きっと客がいなくて、ぼくひとり入れるくらいでは採算がとれないと思ったのだろう。しかし、その精神的なダメージは大きかった。
 宿がないまま三次へ向かう。自分でも「この辺りでもう一泊した方がいい」と思うのだが、進もうとする力を止めることができない。金がないのも理由だろう。しかし、それ意外になにか得体の知れないエネルギーがぼくを動かしてしまう。寒さで手足が痺れるのに、一時間もかからなかった。これは、外気のせいではなく、体調が悪いのだ。気温は一七度もあるのに鼻水が止らない。
 三次に入るのに三時間かかったが、ぼくにはもっと長く思えた。町中では、一泊二食付き四〇〇〇円の看板も目に付いたが、ブレーキが踏めない。勢いにまかせて、市街地を抜けて江の川沿いの道に出てしまった。後戻りが出来ない。マードゥは、流れに沿って下流へと走る。道は、再び狭くなり、人家もまばらになってしまった。そのくせ、絶えず泊まる場所を探している。体と頭が別の動きをしていた。キャンプにいい場所も見つけられず、どんどん下っていく。そんなとき、石橋の話を思い出した。あいつは、ぼくと有田で落ち合う前に、この江の川を下りに来ていた。たしか、この先にある浜原ダムの下の町、邑智から下ったはずだ。だとしたら、そこにはキャンプ場がある。ぼくは、もうわき目も振らず、邑智へと走った。とにかく、確実に体を休められる場所がほしかった。ただ、それだけだ。
 邑智に着いたのは、夕方の四時を回ってからだった。山間の小さな町は、静寂の中におっとりと沈んでいた。ダムで水を抜かれた川が、深い谷底をわずかな水量で流れている。広い淵がある向かいの河原が「カヌーの里」というキャンプ場になっていた。季節はずれだからか、キャンパーは誰もいなかった。ここも台風で川が増水したらしく、河原は凸凹の荒れ放題になっていた。それでも、もう動く気にはなれず、適当な場所にテントを張って、寝袋に潜り込んだ。快適とは程遠かったが、体はむさぼるように眠った。
 翌朝、目が覚めるとびっしょり汗をかいていた。外は雨が降り、肌寒い。のどが痛く、咳が出るとなかなか止らない。いよいよ体調を崩してしまったようだ。こういうときは、さっさと医者にいくべし。電話帳で見つけた診療所へいく。ふらふらになりながら、入口のドアを開けると、そこは年配の人達が集まる社交場だった。ひとり薄汚い格好をしたぼくは、明らかにういている。大分待たされてから、やっと診てもらうと、扁桃腺が真っ赤に腫れているといわれた。川下りをしているというと、どこか生活観が漂う年上の看護婦が、ぼくに注射を打ちながらいった。
 「家の旦那はカヌーの里で働いているの。シーカヤックで日本一周しているローリーさんの手伝いもしているのよ」
 ローリーはいいから、おれをサポートしてくれよ。まったく!
 町医者は、ひどく心配してくれて、特別に一〇日分の薬をくれた。それからは、陰険で惨めでみすぼらしいテントの中で、動くことも出来ず、食べることも出来ずに、ただ横たわっていた。布に覆われてこもった空気。凸凹の地面から伝わってくる冷えきった土砂の感触。ぼくの人生はこのまま終わってしまうんじゃないかと思えるほど孤独で苦痛だった。



自分を取り戻せ/江ノ川

TF059.jpg 終わりのないものなんてある?
 やっと、夜が明けた。朝からたち込めていた霧も、日が高くなるにつれて蒸発した。テントの中は太陽の熱で蒸し風呂のように暑くなった。たまらなくなってテントから這いだすと、ジリジリと夏のように蒼い空が広がっている。寒気はとれたが、体調はまだ万全ではない。しかし、この暑さの中でじっとしているのも苦痛だ。ここではないどこかへいきたい。そんな気持ちのほうが先走り、ぼくは荷物をまとめはじめた。
 出発前に、不調でも欠かすことの出来ないビールを買い込み、ツナとマヨネーズをこねてパンに塗った朝食を食べて舟に乗る。ふわふわとした水の上に出ると頭の芯がさだまらず、めまいがした。パドルを漕ぐ手に力が伝わらない。それでも、キャンプ場の前にある長い瀞場は、いつもの感覚を取り戻すのにうってつけのリハビリ場だった。
 垂直に立ちあがる断崖に挟まれた緑色の深い淵は、三日月のように大きくたわんで曲がると、いっきに浅くなって露出した岩の間からさざなみをたてて滑り出した。ダムに水を取られているため、流れが細く、あるところでは舟がやっと入れるくらいしか幅がない瀬もあった。病上がりで、舟を降りて引くのも面倒だったので、無理やり流れに舟をねじ込もうとしたときに舟底を岩に叩きつけてしまった。穴が明いてしまったらしく、じわじわと水が入ってきた。しかし、直す気にもならない。
 邑智から五キロほど下ると、白波がたつ強い流れが左岸から川に突き刺さってきた。ダムでとられた発電用の水を川に戻す放水口だ。その水量は凄まじく、流れが生き返った。
 その強い流れに舟を乗せたときだ。
 ウーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
 突然、耳に突き刺さるようなサイレンの音が背後から鳴り響いた。
 何だ!何だ!放水か?
 おれは放水口の真下にいるんだぞ!何考えてんだ!殺す気か!待て!待て!
 こんなところで放水されたら、この小さな舟などひとたまりもない。しかし、慌てたり、覚悟を決めてみたりしたが、一向に水は吐き出されなかった。
 時計を見て、やっとわかった。サイレンは、正午の時報だったのだ。地方にいくと、時報をサイレンで知らせるところがよくある。四万十流域では、朝の六時にサイレンが鳴る。「起きろ!働く時間だ!」という合図らしい。知らない人間は、その都度、何事かと驚かされる。いつ起きるかなんて個人の問題だろう。子供のときに自分で起きれるようにしつけられなかったのだろうか。
 川は、本来の水量を取り戻し、勢いよく流れ出したが、水質はあまりよくなかった。流れは青というよりは緑色に近い。川辺に生い茂る木の枝には、無数のカラフルなゴミが柳のように垂れ下がっている。水面から七、八メートルも高いところに集中している。台風が来た時に、そこまで増水したのだろう。恐ろしいが、ゴミでそれがわかってしまうのも悲しいことだ。汚れた水。垂れ下がるゴミ。ああ、これが江の川なのか…。
 目を、もっと遠い山の稜線に移す。のしかかってくるような手前の山が、遠くの尾根をゆっくりと隠していく。こののんびりとした景色の移り変わりを見ていると、心が和む。地上では、こんなに緩やかで滑らかな動きを見せてくれるものを、ぼくは知らない。川には、街にはない独特の時間が流れている。それが、ぼくが川を好きな理由なのかもしれない。
 そして、ある山がぼくの目を釘づけにした。その山は、別に高くもなく、変わった形をしているわけでもない。ただ、小さな盆地の真中にある独立峰で、扇状に開いた山裾が少しづつ色づきはじめている。その森だけがカリフラワーのように柔らかく、どこか暖かみがあった。
 いいな。心が和む。もう一週間もすれば、すっかり紅くなるだろう。名前をつけてやった。
 先紅良山。
 サッコラヤマ。
 音がいい?
 腹が減ったので、竹やぶからのびた小さな河原を見つけて上がる。足を水に入れると、大きな影がふたつ、川面に波紋をひいて泳ぎ去った。鯉だ。すぐ上の淵で、帽子を被った中年の男が釣りをしていたので「ここにいるよ!」と教えてやりたかったが、この河原は舟でしか上がれない。泣く泣くあきらめた。悪いね。おじさん。
 秋にしては、かなり強い陽射しの中、ゆるゆるとラーメンをすすって横になると、いつのまにか眠ってしまった。気がつくと、二時間が過ぎていた。日は短くなっている。再び、河原を蹴って出発した。
 ぼくは取り戻しつつあった。見失っていた自分のペースを。自分の時間を。
 長くいすぎた四万十。その源流からここにくるまでマードゥで突っ走った道のり。それは、ぼくにとって心地よいペースではなかった。自分に合っているのは、やはり川の上だ。川の匂いを感じはじめていた。山で鳴く虫の音が川を覆っている。腕組したくなるような秋だった。
 少しいくと広い河原に出たので、早々にテントを張る。そこは川沿いに走る道からも見えないところで、人工物はなにも見当たらない。こんなに手軽に広い空間をひとりじめできる場所が河原の他にあるだろうか。そこで気ままに夜を過ごす。ああ、なんて自由なんだ!
 薪は、使い古した地図一枚で勢いよく燃え上がった。
 火は、気持ちを落ちつかせる。飯の入ったコッフェルの下で揺れるオレンジ色の火。時折、はじける黄色い炎。陽炎のように空気をふやかす炭の熱。いくら見ていても飽きない。いつのまにか、日が暮れていた。晩秋よ。もう少しだけむこうにいってくれ。
 願いが叶ったのか、次の日も暑い日になった。川で行水をして、ついでに服も洗う。ゆっくりとパッキングして、正午前に川面へ出た。
 川本という小さな町を過ぎた辺りから、頭の上にあった山々が少しずつ遠のいて視界がひらけた。二重三重に重なる山の動きが美しい。かと思うと、その山が近づいてきて川に膝を立て、流れを押し曲げ、瀬をつくる。緩やかだが、クルクル変わる景色は目を飽きさせることがない。
 海に近づくにつれ、川漁師の姿がみられるようになった。みんな長い一本竿か蟹篭を持っている。西日に霞む川面を平底の川舟がスイスイと進む姿は、とても日本的で幻想的でさえあった。
 気分がいいので、どんどん漕いでいると、いつのまにか河口にある江津の町まで来てしまった。鉄橋の向こうに日本海が見える。海から伝わってくる緩やかなうねりは川が終わる証だ。鉄橋をくぐって河口近くの岸に上がると、対岸にある工場が終業のサイレンを鳴らした。その昭和に建てられた古ぼけたビルの窓を透かして、大きな夕日が沈んでいく。ここには人間の暮しがうごめいている。それもなんだか懐かしく、心地いい。
 缶ビールを開けて川に乾杯した。すると、青白い川面を魚が跳ねた。山形の叔父といった夜釣りを思い出す。舟の真中にはポールが立っていて、一番上に白、その下左片に赤、右に緑のランプが灯っていた。それが船の左右を表し、暗がりの中でもどちらが船首なのか分かるようになっていた。それと同じランプを灯した漁船が川を遡っていく。町の上には月が出た。潮が満ちる。



すり減ったタイヤ/九州へ

TF060.jpg 夜が明けて、朝が青いうちに駅へと向かう。邑智に置いてきたマードゥを取りにいかなければならない。駅前のロータリーで八〇〇円拾ったので、電車賃は助かった。川を遡る六時発の列車は学生で一杯だった。川本の辺りに高校があるらしい。
 二日かけて下った江の川も、マードゥで走ると二時間で河口まで来てしまった。これが陸の時間だ。
 畳んだ舟を宅急便の営業店まで持っていく。墓石のように大きい舟のザックを背負いながらバイクに乗るのは曲芸じみていた。しかし、それを担いで駆け込んだぼくを見て、ギョッとしている店員の顔を見るのは面白かった。小さな町の単調な日常にはちょっとした話題を提供できたかもしれない。舟は、大分にいる友人の家に送った。次はいよいよ九州だ。
 墓石を降ろして身軽になり、河原に飛んで戻ると、男がふたり、テントの周りをうろついていた。すぐ横には黄色い四駆が停まっていて、ドアには「河川パトロール」と書かれている。
 片割れがいった。
 「いつまでいるの。長くなるようだったら届出を出してね。いやあ。こっちも建設省から依託されているもんでねえ!」
 こいつは、「建設省」という言葉を使いたくて仕方がないらしい。その言葉には、魔法の力があるとでも思っているようだ。まったく、ちんぷんかんぷんな奴だ。
 「今、出る」
 とだけいって、さっさとパッキングをはじめると、建設省ファンは去っていった。
 スタンドを立てて荷物を全部積み上げる。また、巨大な背もたれができあがった。出発前に、マードゥの点検をしていると、前輪のタイヤがつんつるてんになっているのに気がついた。普通、後ろの駆動輪が先に磨り減るのだが、そっちの溝はまだ深い。どうやら、前のオーナーが後輪だけ取り替えていたようだ。この禿げたタイヤで雨の中を走るのは、風船に乗って綱渡りするようなもんだ。
 ゆっくりと土手を上がるスロープを登って、川に掛かる橋を渡る。そこらへんのバイク屋でタイヤを買い替えればいい。そんな、軽い気持ちでいた。
 しかし、事態はそう簡単なものではなかった。江津の国道沿いにあるバイク屋を周ってみると、どこも同じ答えが返ってきた。
 「一七はあるんだけど、一八はないね。こりゃ特殊だよ。いまどき、一八インチのタイヤを付けてるバイクなんてないよ」
 親切なバイク屋は問屋にまで電話してくれたが、一八はどこにもなかった。そんなに希少なタイヤなのか?こうなったら、しらみつぶしにバイク屋を周るしかなさそうだ。
 国道九号線を西へと走る。江津の町はあっという間に通り過ぎて、郊外に出たころだった。後ろから走ってきたバイクがクラクションを鳴らしてきた。
 こんな鈍いバイクをあおんなよ!頭にきた。
 エンジ色のセロー?見覚えがあった。
 アケミだ!
 暴れまわる台風の中、長良川の郡上で一緒に飯を食べたアケミだ。ぼくは、近くにあったコンビニの駐車場に止まった。ヘルメットをとった彼女は、郡上で会った時と変わらず、元気そうだった。
 アケミが、九号線に出る路地で信号を待っていると、見覚えのあるバイクが前を横切った。追いかけながら、マードゥが掲げる田舎ナンバーを見てぼくと分かったらしい。こんなところで再会するなんて、なんて世間は狭いんだ!ぼくたちは、嬉しさのあまり大声で怒鳴り合った。
 彼女は、隠岐島へ渡ったところで台風にあい、最近やっと松江に戻ってきたところだという。今日は、この近くの石見海浜公園に泊まるらしい。ぼくが、紀伊半島・四国・江の川を周って来たというと「そんなに早く!」と驚いていた。まったく、ぼくよりのん気なんだからまいってしまう。
 「ハハハ!前よりやつれたんじゃない?」
 アケミは、ぼくの顔を見て大声で笑った。
 邑智で体調を崩し、極太の注射を打たれたというと、彼女は駐車場を転げ回って笑った。そして、こう助言もしてくれた。秋になると、朝晩は気温が下がる。だから、彼女は午後四時以降は走らないことに決めていた。さすがバイク・ツーリングの達人。「今日は萩のユースに泊まろうと思ってる」というと、「軟弱者!」と罵られた。まったく、かなわないよ。この人には。
 ぼくらは、とりとめもない旅の話に夢中になって、気がつくと二時間も話し込んでいた。「また、どこかで会おう」と、旅人同士のありえない未来に誓って別れた。そのありえない想いも、すがすがしさや希望をくれる。
 マードゥのタイヤは、浜田という町で見つかった。その店は間口が二間ほどしかないが、鰻の寝床のように奥が深く、頭がつきそうな低い暗がりの中で自転車やスクーターが雑然と置かれていた。五十代半ばのがたいのいい主人は、タイヤをはずしながらいった。
 「しかし、古いの乗ってんね。こりゃ、少なくとも一五年は前のバイクだ。ここまでくると可愛いだろう」
 おやじさんは、頼みもしないのにブレーキワイヤーの締り加減を見たり、クラッチワイヤーに油を差したり、最後にはエンジンカバーを開けてキャブの調整までしてくれた。代金は全部で五〇〇〇円。この値段のほとんどは善意だろう。
 彼はマードゥを「可愛い」といった。五〇過ぎの無骨な男がだ。可笑しくて、嬉しかった。そして、マードゥは、生まれ変わった。走り出すと、山形以来聞いたことのない爽快な音でどんどん加速していく。いままでもたついていた坂道もスイスイ登る。
 これだ!これこそマードゥだ!
 おやじさんの愛情がマードゥを蘇らせた。
 ぼくは有頂天になって、アクセルをグンと回した。すると、待ち構えていたかのように天気が崩れ、雨が降り出した。
 心は上ずっていたが、体調は最悪だった。神経が皮膚の上に露出しているように全身がひりひりと痛む。夕方には萩に着いたが、宿に入ってもなにもする気になれず、陰険な部屋でただぼーっとしていた。翌朝、起きるとぐっしょり汗をかいていた。
 それでも、出発する。自分ではどうすることもできない力が、ぼくを西へと追いやる。九州。今日中に九州に入ってやる。九州に渡らなければ、この旅は終われない。婆ちゃんの危篤を蹴飛ばし、叔父の事故を飲み込んでここまで来たのだ。終われると思えるところまでいかなければ、終わることなんて出来やしない。そして、止っちゃいられない。動かなくちゃいけない。体とは関係のないところで、なにかがどんどん加速していく。そして、風の冷たい青空の下をひたすら日本海に沿って走った。
 昼過ぎに下関に到着。関門トンネルを潜って一挙に九州へ入ろうとすると、トンネルは改装工事中で年末まで通行止めになっていた。マードゥは小型バイクなので高速は走れない。ぼくは、彦島から小倉に渡るフェリーがあるのを見つけ、ターミナルへ向かった。出港までは一時間あった。大分にいる友人に電話をする。
 「今日、いくよ」
 「ああ。何時頃になる?」
 「多分、夕方だろうな」
 「しかし、おまえもよくやるのう…」
 久々に聞く友人の声は心地よく鼓膜に響いた。彼はマサといい、四年前に四万十を下ったときに出会った年上の男で、それ以来、年に数回手紙を交わしている。滅多に会うこともないが、どこかしっくりとウマが合う。ぼくが勝手にそう思っているからかもしれないが。
 電話を切って、桟橋の横を見ると、地元の釣り人が並んで糸を垂らしていた。みんなそれぞれの日常を送っている。そのなかで、小さな魚を釣り上げている。ぼくは日常でも非日常でもない宙ぶらりんの糸にぶら下がってもがいている。北海道から本州に入った日。あの日も、へとへとだったっけ。そして、今も。
 フェリーが動き出すと、展望の利く甲板に出た。白い靄に霞んだ九州が少しずつ近づいてくる。振り向くと本州が薄っぺらな土の塊にちぢんでいく。
 ついに来たな。
 最終の地。
 小倉に着くと、再び路面を捲くって南へ走った。そして、日が暮れる頃、やっと大分駅に到着。一〇月最後の土曜日でロータリーには車が溢れ、改札は物凄い人出でごった返していた。排気ガスとクラクション、人ごみと喧騒。人間のイライラした感情がヒリヒリと伝わってくる。身の置く場所もなく一時間も駅前をうろついていると、人ごみの中からヒロさんが現れた。ヒロさんも四万十で会った仲間で、口髭ともみ上げを伸ばし、上さんと別れて身軽になったばかりの中年不良だ。ヒロさんは「ひっさしぶりやのう」といってニコニコ笑った。マサさんは、ヒロさんの建築事務所で待っていた。ふたりとも前に会った時と全然変わっていなかった。三人でマサさんの家にいくと、もうひとりの仲間ケータも来た。ケータはぼくよりも若いのに額が広くなっていて驚いた。どうやら、ここが彼らの溜まり場らしい。みんなに会うのは二年ぶりだ。ミカヨさんという美人の奥さんも交えて五人で飲む。テーブルには特産品のヒカリモノやトリ天(鳥の天ぷら)などが並び、ビールと焼酎が振舞われた。年齢はバラバラだが、懐かしい友人と酒を交わしながら話をするのは理屈なしに楽しい。ぼくらは酔っ払いながら、どの川にいくかああでもないこうでもないと話し合った。しかし、みんなの日程が合わず、来週末まで川にはいけないようだ。マサさんが、年末に引っ越してくる両親のためにつくった離れをぼくに使わせてくれることになった。厄介にはなるが、身も心も疲れきったぼくにはいい静養になる。ありがたい。そうして、マサさん家族との生活がはじまった。
 マサさんとミカヨさんには二人の娘がいる。来年幼稚園に入るカエデちゃんと二歳のハルちゃん。ふたりともお父さんによく似ている。家の中は、このふたりのパワーで渦巻いていた。あらゆる物に好奇心を抱き、瞬時に相手が自分の見方か敵かを見極める。彼女たちにとって居候のぼくは恰好の遊び相手だった。ぼくに飛びつき、興奮して大声で怒鳴る。ヒロさんと同じ建築士のマサさんは、事務所を家に構えていたので、時折、あまりのうるささに癇癪を起こした。しかし、娘たちがぼくになついているのを見ると同情をひくようにいじけて見せる。彼女たちが結婚するときにはどうなってしまうのだろうか。これが父親の心情なのか。
 それから、面白いのが彼らの男と女に対する考え方だ。九州が男尊女卑で有名なのは知っている。しかし、目の当たりにすると改めて驚かされる。ぼくが洗濯物をとり込んでいるとマサさんがやってきて「男がそんなことしちゃいかんのやけどなあ…」といいながら手伝ってくれたり、食事の後、台所で洗物をしていると「男のひとには台所に立ってほしくない」と、ミカヨさんに笑われた。そして、それがとても自然だった。日本のグータラ男子諸君、大分娘をめとれ!
 とにかく、ヤンチャな娘をふたり抱えて、いくらマサさんが怒ろうとも、ミカヨさんが疲れ果てようとも、ぼくには眩しいほどみんなが幸せに見えた。その光景は、自由とはかけはなれていたが、その代わりに、ぬくもりが溢れていた。いつか、ぼくもこんな家庭を持つことができるのだろうか。そうしたら、やはりマサさんのように癇癪を起こしながら、みんなを愛するのだろうか。そこには、ぼくに欠落しているものがあるような気がしてならない。
 それから、毎日上げ膳据え膳。晩酌をいただきながら本屋をぶらつき、マードゥが一九六九年製であることを知り、ブルースを聴きながら馬鹿話をして過ごした。ミカヨさんはいやな顔ひとつせず、ぼくを家族同様に扱ってくれた。そうして、次の週末、マサさんとぼくはジムニーに、舟二はい、キャンプ道具一式を積んで国道一〇号を宮崎に向かって南下した。途中、ヒロさんとコンビニで落ち合った。



ボラが跳ねた/小川

TF067.jpg 郊外に出ると、緑の濃さに驚く。どこにでもあるような雑木の森なのだが、木々の緑が空気中に溢れ出ていた。一一月だというのに紅葉する気配もなく黒々としている。明らかに内地とは違っていた。大分に来るまでは、全く気づかなかった。それだけ余裕がなかったのだろう。さすが南国。
 二時間ほど走って峠を越えると深い谷を流れる細い沢に出た。これから下る川の支流だという。谷に沿ってくねくねと走っているうちにいつのまにか川を遡っていた。流れは幾分太くなり、長い淵が横たわり、それを小さな瀬がつないでいる。水は、目も覚めるような透き通った笹の葉色をしていた。
 「いつも遊びに来るンやけんど、下ったことはないんや」
 マサさんがハンドルを切りながらいった。確かに小さな川だが、下れるくらいの水量はある。川幅はわずか一〇メートルくらい。この旅で下ってきたどの川よりもきれいな流れに見える。名前を小川といった。
 山間の畑を突っ切る畦道を抜けると、雑木が覆いかぶさる小さな河原に出た。ここが出発点らしい。荷物を置いて、夜宴の食材の買いだしも兼ねて、車を一台、河口に置きにいくことにした。川の長さは僅か二〇キロ弱しかなく、一日あれば十分下れる距離だ。しかし、河口に出て、三人とも唖然とした。内陸の穏やかさとは打って変わって、海は大時化だった。大きな波が、長い砂浜を一挙に駆け上がり、防波堤に当たって砕け散っている。ボードを抱えたサーファーたちも、岸から沖をじっと眺めることしかできない。こんな海に出るなんて馬鹿げている。ぼくらは食材と酒を買い揃えてから、ヒロさんの車を河口から少し上流の河原に置いて、出発点に戻った。
 中途半端な時間になってしまったので、川を下るのは明日にして、今日はこの河原でキャンプすることにした。テントを張り、薪を集める。この二人のキャンプには暗黙の了解がある。ヒロさんが手頃な石を三つ使って(三つでなければいけないらしい)小さな釜戸をつくる。その間に、マサさんとぼくで薪拾い。そして、大量の食料を自分の手の届く焚火の周りに広げて宴がはじまった。マサさんは、若い頃スタジオ・ミュージシャンを目指したこともあるブルース・ギターの名手。しかし、演歌・童謡・ロック、なんでも見事に弾きこなす。その音色と海の幸を肴に酒を飲む。
 「コニシ(マサさん)にそのときの気分でどんな感じのを弾いてくれっちゅうと、ちゃんとそれにピッタリの曲を弾いてくれるんよ。おれはそれに何度も救われる思いをした。だから、おれにはこいつが必要なんだ」
 ヒロさんは、マサさんのギターを聴きながらしみじみといった。マサさんは「そうかい」とそっけなく答えるだけで、気にもとめない様子だ。しかし、二人にはしっかりとした信頼関係があるのがよくわかる。ぼくにもそんな友人が何人かいる。あいつらはどうしているかな。
 日が沈むと、そこらへんに生えていた竹を切って作った器にポン酒を注いで火に炙り、カッポ酒をつくる。それで食べるチゲ鍋は喉を焦がすような美味さだった。本場では塩サバさえもうまい。食い物がなくなると、マサさんが「そろそろ獲ってくるかの!」といって長靴をはき、懐中電灯を持って川にズブズブと入っていく。川エビを獲るのだ。暗がりの中で明かりを川底にあてると、いたるところでエビの目が緑色に光る。それをそっと後ろからしゃくるように手を当てると、エビは「ワシは逃げる!」と後ろに飛んで、自分から掌に入ってしまうのだ。それを木の枝に刺し、火に炙って食べる。なんの調味料もいらない。ぱりぱりとした歯ごたえとほんのり漂う木の香り。これがうまい。関東では、そう味わえる代物ではない。
 酔っ払うと、みんな聞きもしないのに自分のことをしゃべり出した。ヒロさんは、離婚してからの中年デビューの話。マサさんの大学時代のほろ苦い思い出。ぼくは、四国カルストで夢精した話をした。それを聞いて笑う二人の声。ぼくは浮かれて「楽しい!」と叫ぶ。ふたりは「よっぽど寂しい旅をしてきたんだなあ」とまた笑う。笑ってくれ。それが、いまのぼくにとって一番うれしいことなんだ。
 曇っていた夜空に、いつのまにか月が出た。ぼくらは、意味もなく月に吠えた。
 翌朝、目が覚めると川は濃い霧に覆われていた。朝のお勤めをすると、昨日のチゲ鍋のせいか肛門がヒリヒリする。今日は、待ちに待った川下りだ。一週間の静養もあって体調はいい。キャンプ道具は全部置いて、舟と昼食用の食料、ビールだけを積んで下ることにした。
 淵から流れ出る小さなザラ瀬にのると、清々しい秋の陽射しで膨らんだ小山の間をゆっくりと滑りはじめた。川面は、銅を叩いて作った鍋のように繊細な窪みをつくって太陽にキラキラと輝いている。その下で水晶のように涼しく光る玉砂利が後ろに飛んでいく、この爽快感!
 「すげぇー!」
 ぼくは叫び、他のふたりも唸った。
 カワセミが、空から抜け出たような青さで水面をスレスレに飛び、不意に上昇したかと思うと、川に突き出した木の枝にとまった。それを繰り返しながら、先に川を下っていく。まるで水先案内人だ。
 手をのばせば触れるほど低い沈下橋を潜ると、大きな淵に出た。そこで、ぼくらは、目を見張った。川底に釘付けになった。流れが岩にぶつかって大きく膨らんだ淀みは、川底の砂利がえぐられ、急に深くなっている。水深一〇メートル以上あるだろう。ひとつひとつの岩が大きく、滑らかな肌を自在にくねらせて川床の白砂まで続いている。その上を漕ぐと、まるで渓谷の上を飛んでいるような錯覚さえ覚える。真夏なら、喜んで飛び込むところだ。ヒロさんもマサさんも、よく遊びに来る川がこんなにいいところだったとは知らなかったと唸っている。
 宮崎に抜ける道が川に近づいたところで商店を見つけ、ビールを買い足した後、対岸に渡って昼食をとることにした。食パンにツナとマヨネーズを塗ってサンドウィッチをつくり、ふたりに渡す。レトルトのハンバーグはうまかったが、品目を見ると特殊フィッシュソーセージ(ハンバーガー風)と書かれていた。いったい何物?
 川幅が広がりだすと、簗が現れるようになった。これだけの清流だ。獲れる鮎もさぞかしうまいだろう。しかし、下る側からすれば、それは障害物でしかない。この川の簗は、流れに対して垂直に鉄の杭を打ち込み、その間を笹で塞いでいた。この頑丈な杭に引っかかったりはりついたりすると厄介なことになる。大抵は中央に舟がやっと通れるくらいの通しが開いているのだが、マサさんがひっかかってしまった。水面に出ていない杭にはりついたらしい。舟が全く進まないので、仕方なく流れに足を入れると、長靴に水が入り、マサさんは「冷てえ!」と声を上げた。今日は陽射しが強いとはいえ、もう一一月だ。
 正面に日が傾いたころ、前方に堰が現れた。流れが落ちて騒いでいる。高さが四、五メートルあり、左側には魚道があった。なんのための堰だろう。これこそ邪魔な代物だ。
 水が堰のすぐ上まで来ていたので、直接上にあがり、傾斜のついた下流側に降りる。そこは北川との合流点だった。そのころには、もう太陽が山裾にかかりはじめた。車を置いてある河原は、まだまだ先だ。このままでは、車にたどり着く前に日が暮れてしまうだろう。のんびりしすぎたようだ。ためしに「もう上がる?」とふたりに聞いてみたが「車のところまでいこう!」と譲らない。ああ、キャンプ道具を持ってきていれば、ここにテントを張ってしまうのに。
 北川に入ると、川幅がいっきに倍になった。流れもどんどん緩くなり、三人は口数も少なくなって、ひたすら漕いだ。やがて、モコモコと川を包む南国の林は闇に真っ黒く塗りつぶされ、国道筋にあるパチンコ屋のネオンが煌煌と光りだした。西に流れる川の空は、空と地上の間を白く残しながら暮れていく。川は、青白く光っていた。夏には、もっと銀色だったような気がする。これが秋の色か。もうすぐ冬がくるんだな。まるで柔らかい粘土の上を漕いでいるように、夕暮れの川面は静かで柔らかく、粘り気があった。
 すっかり日が沈んでしまったころ、ようやく車を置いた河原にかかる橋が見えてきた。ぼくは、ふたりに「橋が見える」と手を振って合図した。しかし、後ろを振り返っても、ただ闇があるだけだった。
 ぼくはスピードを上げた。鼻をかすめる空気の中に、夜の気配と海の匂いが混ざっている。夜空は雲ひとつなく、高かった。
 いくべきところを探してぼくを這いずりまわしてきた得体の知れないスピードが、ガス欠の車みたいに速度を失っていく。
 もう、カラッポだった。それは、旅の中で何度となく味わった空虚とは違う。胸の中にあった全てのものが真っ白く燃え尽きていく。
 もう一歩も動けないよ。
 …
 これで、婆ちゃんや叔父さんは許してくれるか?
 …
 バシャン!
 青白い水面を割って、ボラが一匹大きく跳ねた。
 ありがとう。